78.久我奏-9 『パンケーキに罪はない』
アヤが窓際に戻るのと、メイドがワゴンを押しながらやって来るのが同時だった。
奏と楓も元の配置に戻る。背の高いソファに逆向きに座って、背もたれから目だけ覗かせて、窓際の様子を窺うことにした。
ワゴンの上には銀色の丸い蓋が置いてある。
「あなた、お腹空いてない?」
メイドの問いに、アヤが頷く。
「ええ、空いているわ」
「じゃあ、ちょうどよかった――はい、これ」
メイドがさっと盆を取り払うと、下から見事な出来栄えのパンケーキが出てきた。
「わぁ、すごい! とっても美味しそう! 私、パンケーキってとっても好き」
アヤは胸の前で手を組み、瞳をキラキラ輝かせてメイドを見上げている。
奏たちにはいつも怒り顔しか見せないあのメイドが、優しい顔で微笑みながらアヤに言う。
「おばちゃんの勘が当たったわね。あなたが好きそうだなーと思ったの。ちょうどこれ、ひとつ余っていたから、食べてね」
これを聞いた時、奏は『ん?』と引っかかった。
……パンケーキがひとつ余っている状態って、なんなのだろう?
そしてそういうことには何かと鋭そうなアヤも、やはり気づいた。
「あの……これって誰かの分だったりしないかしら? これが焼き上がるのを待っている人が別にいて、私に先に回してくれたんだったら、申し訳ないわ」
「いいの、いいの」
メイドは腰に片手を当て、反対の手をヒラヒラと振ってみせる。
「これはいつもホテルに来る、おチビちゃんのために焼いたらしいんだけど、しばらく姿が見えないんですって。またひょっこり出て来たら、その時にまた焼いてもらえばいいし、大体――あの子は最近ちょっと食べすぎだからね。抜いたほうが健康には良いかと思うのよ」
奏はそれを聞いて、「あ!」と叫びそうになった。
――あれ、楓の分だ!
楓は何か食べている時は大人しいので、彼が遊びに来る時は、何かデザートを用意してもらっていた。
今日あちこち歩き回らずに、どこか一カ所でじっとしていれば、あれは楓に提供されていたらしい。
たぶんあのメイドに悪意はないと思う。
いつもだったら、もっと悪く取ったかもしれないけれど、あの女の子と喋っている様子を見たあとでは、そんなに嫌な人ではないんだなと奏は気づき始めていた。
楓がホテルに着いたので、シェフがすぐにパンケーキを焼き始めたが、焼き上がってみれば、本人は行方不明で、このままだと冷めてしまう――さあどうしようとなった時、目ざといあのメイドが機転をきかせて、アヤに持って来たのだろう。
確かに楓は最近食べすぎだし、食べないほうが健康に良いという言い分も分かる。
けれど――問題はそれを楓がどう思うかだ。
なんて考えていたら、やっぱり。
隣で空気がサッと動き、ソファから立ち上がった楓が怒り狂いながら、窓際のほうに歩いて行く。
「おい、お前、何勝手なことしてるんだよ!」
楓がメイドを怒鳴りつけた。
奏は頭が痛くなった。慌てて楓のあとを追おうとして……数歩目で足が止まる。
……でも、まだどうなるか分からないよね? 運が良ければ、楓の苛立ちがすぐに治まるかもしれないし。
怒鳴られたメイドはびっくりしたように楓を見おろす。
「あなた、ここにいたのね。何を怒っているの?」
「それは俺のパンケーキだろ! 使用人の分際で、勝手にコイツにやろうとするなよ! 生意気だぞ! クビにしてやろうか!」
「ちょっと、あのね……」
メイドがため息をついて前髪をかきあげる。こちらも結構怒りムードだ。
「あなたの姿が見えなかったから、これが無駄になっちゃうと思って、持って来ただけ。あなたは長い時間ホテルにいるんだから、新しく作り直すのを待っていられるでしょう? だからちょっとだけ、待ってくれないかしら?」
「だめだ、これは僕のだろう。お前がどうこうする権利なんかない」
アヤが申し訳なさそうにメイドを見上げ、きゅっと手を握る。
「これはこの子にあげて? ねえ、私とあっちで一緒にいてくれる?」
「……嫌な思いをさせてごめんなさい。私の考えが足りなかったわ」
メイドもアヤも、楓を無視して互いを気遣っていた。
ふたりがまるで楓を見ないのが、そのまま楓に対する怒りを表しているようだった。
そのままふたりが手を繋いで去りかけたのを見て、奏は内心、早く行ってくれと考えていた。……これ以上の揉めごとはたくさんだ。
しかし。
無視された楓が黙っていられるわけもなく。
ワゴンに手を伸ばし、
「これは僕のだから、どうしたって自由だよな! なんの取り柄もないおばさんは、掃除だけしてろよ!」
そう言ってパンケーキの載った皿を持って、振りかぶったのだ。
おい、嘘だろう……
楓がそこまで馬鹿だと思っていなかった奏は、その時になって慌てて駆け出したのだけれど、三人と距離を取っていたので、間に合いそうにない。
時間がゆっくり流れているみたいだった。
皿が宙を舞う。楓がメイドめがけてぶん投げたのだ。
するとその線上に、横手から小さな影が飛び込んだ。割って入ったのはアヤだ。
――ベチャ! と音がして、彼女の左肩にべったりとクリームつきのパンケーキがぶつかった。
本人はパンケーキを食らった衝撃でよろけ、傍らにあったワゴンを引き倒してしまう。
ガシャーン! と大きな音がして、床にフォークやナイフ、スプーンが散らばった。
本人はなんとか踏みとどまり、転ばずに済んだ。
奏はゾッとして彼女の全身に視線を走らせるが、しっかり足に力を入れて立っているし、痛がっている素振りもないので、幸い怪我はしなかったようだ。
おそらく上手い具合にパンケーキがクッションとなり、硬い皿が肩に直撃しなかったのだろう。
そのことに奏は心底ホッとした。
けれどホッとしたのも一瞬のこと。
目の前に広がる地獄絵図に、奏の顔が強張る。
「な、なんてことするのよ……!」
アヤがプルプル震えながら頬を真っ赤にして怒る。
「パンケーキに罪はないのに! ええい、このクソガキ、この立派な女性をクビにするですって? あんた何様よ! あんたみたいに女性に優しくできない人間は、クズよ! あんたはこの女性にぶん殴られても仕方ないくらいのクズなの! それなのになんてことかしら、大人は子供をぶてないの、だって問題になるからね。だけど、ええ――……私は違うわ」
アヤの瞳が強い輝きを放っていた。
彼女は手を振りかぶり、楓を思い切りビンタした。




