76.久我奏-7 『コーネリアス!』
メイドが笑みを引っ込め、真面目な顔つきになる。
「ねえ、あなた――ずっと気になっていたんだけど、誰と一緒なの? 近くに保護者がいないみたいだけど?」
ああ、なるほど……と奏は思った。先ほどあのメイドが周囲をサッと見回したのは、保護者を探していたのか。
女の子がシレッと答える。
「父とこのホテルに来たの。それで父が用を済ませているあいだ、私は自由にここを探検することにしたのよ」
「やだ、そんな――あなたみたいに可愛いお嬢さんが、ひとりで歩き回るなんて、だめよ! お父様のお名前は?」
「大丈夫よ。私はとっても賢いから、ひとりで平気。あなたは親切な大人だから、私がひとりでほったらかされていると思って、怒っているのでしょう? 違うのよ」
「何が違うの?」
「父は運転手さんに私を預けたの。『彼と一緒にロビーにいなさい』と言ってね。でも私は運転手さんをまいて、こうして歩き回っているのよ」
「それじゃ、その運転手さん、すごく心配しているんじゃない?」
「――と思って、まいたあと、すぐに彼のスマホに電話しといたわ。私はひとりで見て回るから、放っておいてね、って」
「あらまあ」
メイドが口をポカンと開け、呆れ顔になった。
次に眉根を寄せ、掃除用具を手早くまとめると、
「ねえお嬢ちゃん、あなたのお父さんの用が終わるまで、運転手さんのところに戻って一緒に過ごすか、おばちゃんと一緒に過ごすか――どっちがいい?」
メイドが中腰の姿勢で、女の子と目線を合わせて問う。
おっかない、かんしゃく持ちのはずのメイドが、目を細めて優しい顔をしているのが、奏に強い印象を残した。
女の子はにっこり笑って、
「あなたと過ごしたいわ。お掃除のコツを知りたいの。……でも、いいの?」
「その代わり、運転手さんの電話番号を教えて。おばちゃんと一緒にいるって伝えておくから」
「えー……私をそっちに引き渡さない?」
女の子の眉が八の字になったのを見て、メイドがカラリと笑う。
「しないわよ。だけどね……運転手さん、まだ心配していると思う。だからホテルの従業員と一緒にいると分かれば、安心できるでしょ? ね?」
「ええ。じゃあこれ」
女の子がポケットに手を入れ、電話番号を書いた紙をメイドに見せた。
メイドは自分のスマートフォンにそれを打ちこみながら、せっかちな口調で、
「ね、私は掃除用具を片づけてくるから、ここで数分待っていられる? 動いちゃだめよ?」
「分かったわ。私、絶対に動かない」
メイドは少し心配そうだったが、女の子がしっかりしているので大丈夫そうだと判断したのだろう。電話をかけながら、足早に去っていった。
……さて、どうしたものか。
メイドの隙を窺っていたのに、あの女の子まで付いて回るとなると、鍵の入手はさらに難しくなる。
そんなことを考えていたら、女の子がくるりと反転して、こちらに向かって来るので仰天した。
奏と楓は大慌てでソファに前向きに座り直し、『覗き見なんてしていませんでした』というフリをした。
「ちょっと」
あの女の子がソファの横を通って、奏たちの前に回り込んで来た。
「あなたたち、あの女性をつけ回していたでしょう。どういうつもり?」
うわぁ……冷たい目つき。
先ほどまでメイドとハートフルな会話を交わしていたのに。
奏はサッとソファから立ち上がり、女の子と視線を合わせた。
「こんにちは。……まさか気づかれていたとは」
奏は揉めごとが嫌いなので、なるべく穏やかにそう返したら、彼女がなぜかギョッとした様子でこちらを二度見してきた。
え……何?
「あなた、日本語お上手ねえ!」
……うん? あ、これはもしかして……。
「そ、そうかな……それはどうも」
小首を傾げ、なんとか微笑みを浮かべる。
すると彼女がにっこり笑った。
「動きが怪しかったから、ろくでもない悪ガキだと思い込んじゃってたの。だからいきなり嫌な言い方しちゃって、ごめんなさいね」
「そんなことないよ。気にしないで」
「あなたはシンポジウムで来日した人のご家族でしょう?」
「いや、それが……」
奏は否定したのだが、声が小さかったせいか、女の子が構わず続ける。
「私、あなたが気に入ったわ。なんでかっていうと、私がいきなり失礼な態度を取ったのに、あなたはとっても素敵な態度で返したからよ」
それを聞いて、くすりと笑みが漏れる。
可愛いな……頭は良さそうなのに、なんとなくちょっとダメな感じがするというか。
動物の面白映像を見た時みたいな気分だ。ネコがティッシュの空き箱に入り込んで、抜けられなくなるみたいなやつ。
「あなた、名前は?」
尋ねられ、
「僕は久――」
と答えかけたところで、横から、
「おい」
と肘鉄をくらった。
……楓だ。こいつの存在を忘れていたよ。
今ので息が詰まって、「コー」のところでストップしてしまった。名前くらい最後まで名乗らせてくれ。
楓は奏より少し背が低いのだけれど、横幅は倍くらいある。楓はここ半年くらいで急激に太った。
両親の仲が悪くなり、母親は赤ちゃん(彼の妹)にかかりきりだとかで、ストレスがたまっているらしい。楓はいつも怒りながら何か食べている。
性格も段々トゲトゲしくなってきているようで、近頃は楓にいちいち八つ当たりされるのが、奏の悩みになっていた。
なんとなく……大人の話を聞いて判断するに、久我家のほうが彼の家より格上みたいだけど、子供同士の関係にそれを持ち出すのもどうかと思って、ずっとこちらが折れる形で、喧嘩せずに済ませているような感じだった。
最近の楓は何かと乱暴で困ってしまう。
あのメイドに目をつけられたのだって、楓が無茶ばかりするからだ。一緒にいる奏は毎度とばっちりで叱られる。
ある時、あのメイドから、
「友達なら、あなたが止めてやりなさい」
と言われたことがあるけれど、楓の両親でさえ子供をしつけられないのに、同い年で他人の自分に何ができるのかと思ったものだ。
楓は肘鉄のあと、さらに肘をグリグリと押し込んでくる。
……おい、もう、なんなんだよ。
困惑したように隣を見ると、
「知らない相手に名前を教えるなって、親から言われているだろ」
とギロリと睨んでくる。
いや、あのさぁ……このケースなら別にいいだろ。
けれど奏はなんとなく、楓の気持ちが分かった。これはたぶんヤキモチだ。
この子が奏にばかり話しかけるので面白くないのだろう。
けれど奏は、『たまたまそうなっただけで、こちらとの会話が一段落すれば、お前の順番になるのに』なんて考えていた。
ところで。
名乗りかけたのに、変なところで言葉を止めた奏に対し、彼女は瞳をきらめかせて、想定外の反応を見せた。
「コー……? 分かった、コーネリアス! あなた、コーネリアスって名前でしょう!」
……はぁ? なんだって?




