68.紫野家の醜聞
桜子が紫野家の弱みを掴んだのは、ただの偶然だった。
まだ『予言の書』計画も形になっていない頃の話だ。
当時、桜子は紫野夏樹の身辺調査をしていた。将来、彼が妹と結婚するのなら、誠実な人柄じゃないと困ると思ったからだ。
――調査の結果、問題は見つからなかった。
けれど桜子は念には念を入れることにした。彼の周辺も調べておこう。
両親はどうだろう? まず父親。
しかし紫野博史氏はガードが固く、調査が難しい。
では母親。
桜子はしばらくのあいだ紫野惠理香に密着した。――結果、彼女のことがわりと気に入った。
……こりゃなかなかのクズだわ。
彼女は誰にでも足を開くような貞操観念の緩い女で、かなり変わっている。
いつも陰気な顔をしていて、不平不満ばかり。子供に対する愛情もない。
加えて、とっても迂闊。彼女はスキャンダルの宝庫だった。
紫野惠理香はなんと、久我ヒカルの父と不倫をしていたのだ。
ヒカルの父である久我勝也氏は、男版・紫野惠理香みたいな感じの人だった。
偉大な父(奏、ヒカルからすると祖父にあたる)から認められず、鬱屈している。
自分の子供に追い抜かれるという恐怖も感じている。学生とはいえ、長男の奏、次男のヒカル、どちらもカリスマ性があり、飛び抜けて有能である。父はもう、奏とヒカルのことしか気にかけていない。
精神的に弱い彼は酒に溺れ、坂道を転げ落ちて行くように、歯止めが利かなくなっていた。
そんな久我勝也氏と紫野惠理香が出会い――互いが互いのだめなところを引き出して、ふたりはきりもみ状態で堕ちていった。
事態はどんどん悪くなっていく。
――その日、紫野惠理香はタクシーで郊外へ向かった。車で二時間くらいの距離だろうか。
桜子のほうも運転手つきの車であとを追う。
ちなみにこの運転手さんは無口で実直な人で、都合の悪いことは見て見ぬふりをしてくれるので、彼の賢い仕事ぶりにずいぶん助けられたものだった。
さて――紫野惠理香が車を降りたのは、久我家の別荘前。
桜子はカメラを構え、別荘に入って行く紫野惠理香の姿を撮影した。
彼女の襟元には、黒地にオレンジのラインが大胆に入った、エレガントなスカーフが巻かれている。あれは日本にまだ数点しか入っていない、限定品だ。
少し前に久我勝也氏があのスカーフを手に入れていたのは調査済――つまり紫野惠理香は先日プレゼントされたスカーフを、彼とのデートということで着けて来たのだろう。
別荘を眺めながら、しばらく時間を潰す。
どのくらい待つようかしら、と考えていると、紫野惠理香が急ぎ足で外に出て来た。
――首にスカーフを巻いていない。
桜子は、玄関から出て来た彼女の姿を写真に収めた。
紫野惠理香はしばらく道を歩き、最寄りのスーパーマーケットまで辿り着くと、買いものするわけでもなく、そこでタクシーを呼ぶという不可思議な行動を取った。
……どうしたのだろう? 彼と喧嘩でもして、発作的に別荘を飛び出してしまったのだろうか。
そして翌日。
久我勝也氏が自殺したというニュースが流れる。
まさか。
桜子は血の気が引いた。
それではあの時……紫野惠理香が自殺に見せかけて、彼を殺したなんてことは?
しかし桜子はすぐにその考えを否定した。――いや、それはない。だって彼女はものぐさだ。男のためにそんな面倒なことはしないだろう。
おそらく彼女は久我勝也氏から『看取り役』に選ばれたのだ。
彼女が着いた時には、男はすでに死んでいたか、もしくは死にかけていたか。
死にかけているのを放置した、というのはありえる。
――後日分かったことだが、久我勝也氏の死亡推定時刻は、紫野惠理香が別荘に着いたあとだった。
死因は薬物の過剰摂取。違法な薬ではなく、処方箋で手に入れた薬らしい。
そしてある筋から入手した情報によると、現場には『黒地にオレンジのラインが入った、女性用のスカーフ』があったという。それを握りしめて、久我勝也氏は亡くなっていたらしい。
警察は、スカーフは彼自身が購入したものであると調べ上げた。それを誰かにプレゼントする前に死んだ――そう判断したようだ。
これは扱いが難しいネタたった。
あのスカーフを着けて、別荘に入って行く紫野惠理香――そしてスカーフをせずに出て来る彼女――それらの写真を桜子は所持している。
これを警察に渡せば、人の死が絡んでいるので、当然のことながら、紫野惠理香は事情を訊かれることになる。
これが公になれば、センセーショナルな憶測を呼ぶだろう。
紫野惠理香が――というよりも、『紫野家』の体面に傷がつく。これが株価にまで影響を及ぼせば、当然系列傘下の当家も無事では済まない。
ネタが強烈すぎて、お蔵入りかしら……。
一旦使用を諦めたものの、桜子はふと、このネタの活用方法を思いつく。
そうだ――これは紫野夏樹にとっては、アキレス腱。
桜子は撮影した写真に事件概要のメモを添え、『薄青の封筒』に入れて、夏樹に送りつけてやった。
紫野夏樹は『狙われる者の気持ち』を思い知る必要がある。身をもってそれを知ることで、綾乃に対しての理解が深まるだろう。綾乃は幼い頃に誘拐され、犯人からいまだに付け狙われている。
――その日から夏樹は桜子の奴隷になった。
毎回、脅迫の際は『薄青の封筒』を使った。
内容は典型的な脅迫文で、『母親のスカーフの件をバラされたくなければ、〇〇をせよ』という文面にした。
金銭の要求はしない。
桜子が夏樹に求めたのは、労働と忠誠。
そして脅迫者の正体が桜子であるとバレないよう、薄青の封筒には多種多様な用件を混ぜ込んだ。
それはあるセレブの身辺調査であったり、いついつどこそこへ行ってあれを取ってこいという、お使いクエスト的な変な指令であったり。
あるいは、喫茶店に入ったら、チーズケーキとアイスコーヒーを注文し、チーズケーキは同席者に渡せという、トリッキーな指示であったり。
こちらの狙いを悟らせないために、罰ゲーム的なものを多く混ぜ込んだので、夏樹としては、自分に恨みを持つ誰かが、嫌がらせをして遊んでいるのだと解釈したはずだ。
指令はコロコロ気まぐれに変化したが、ひとつだけ、毎回必ず入れる定番のものがあった。
それは『婚約者である西大路綾乃に冷たい態度を取れ』というものだった。
夏樹はこれもただの嫌がらせと解釈しただろう。まぁ実際に、嫌がらせ以外の何ものでもなかったのだが。
夏樹が逆らえるわけもなく、指示どおり、綾乃を邪険にし始めた。
これには正直、がっかりした。
秘密を暴露されたとしても、綾乃を傷つけないという、彼なりの覚悟を見せてほしかった。
そうしてくれていれば、桜子は紫野夏樹を認めていただろう。
このテストはハードルが高すぎたかもしれない。けれど桜子にとって綾乃は、そのハードルを越えるだけの価値を持つ、特別な女の子なのだ。
ところでこの脅迫文、ダミーの遊び用件ばかりだったわけでもない。
重要な指示も中には混ぜ込んであった。
――たとえばそれは、元町悠生の調査。
ひょんなことがきっかけで、夏樹が必要な情報をこちらに伝えていなかったことが判明し、腸が煮え返ったことがある。
それから、花園秀行に関する調査もやらせたことがあった。
セレブだけでなく、庶民の彼を調査させることで、混乱させる目的で。
しかし調査の結果を見て、花園秀行がかなり優秀であると分かり、結果的に予言の書に攻略対象者として登場させることになったのだけれど。
しかしこの二名(元町悠生、花園秀行)の調査を夏樹にやらせたことが、桜子の首を絞める結果となった。
なぜならば『薄青の封筒』関連で登場した彼らと、『予言の書』に記された登場人物が、二名も一致しているからだ。
これにより『薄青の封筒』と『予言の書』がリンクしていることが、夏樹にバレた。
言い訳になるが、まさか夏樹に『予言の書』を見られるとは、夢にも思わなかったのだ。
とにかくこれで夏樹は、脅迫者『X』――つまり桜子が、紫野惠理香のネタを表に出す気がないと知ってしまった。これを表沙汰にすれば、西大路家も多大なダメージを負うのだから、それはできない。
さらにいえば、桜子は『予言の書』の作者であるという弱みを、あちらに握られたことになる。
別にほかの誰にバラされても構わないのだが、綾乃にそれを知られるのが一番困る。
桜子は一年近く夏樹をいたぶってきたのだが、あの一瞬――『大原章一郎』の名前を出された時に対応をしくじったことで、形勢は一気に逆転したのである。




