64.コーネリアス・ヴァンダービルト
あの頃に思いを馳せると、キラキラ輝く宝石箱を眺めているような気持になる。
人はたぶん、一度でも激しい恐怖と絶望を知ってしまうと、その後の人生はモノクロの世界に生きているみたいに、どこか煤けてしまうのではないだろうか。
今の自分は、美味しいものを食べれば美味しいと感じるし、馬鹿話をすれば愉快な気分になり、時には声を立てて笑ったりもする。
けれどやはりどこか、無邪気だった頃とは決定的に違っているようで――それはふとした瞬間にやって来る。自分だけこの空間で浮いているような、そんなおかしな感覚に陥るのだ。
だから、ありのままの自分でいられた頃の思い出は、誰にも穢されていない宝物と同じだ。
その中でもさらに輝きを放っているのが、初めて異性を好きになった思い出だった。
桜子は懐かしさを感じながら、ヒカルに思い出話を語った。
「――彼はイギリス人で、名前はコーネリアス。覚えづらかったら、『鉄道王』コーネリアス・ヴァンダービルトと同じファースト・ネームだって覚えるといいわよ」
と名前の覚え方をレクチャーしてあげたら、ヒカルに微妙な顔をされた。
「いやあの、勉強不足で申しわけないけど、誰それ?」
「あら、知らない? 百年以上前に亡くなってるけど、アメリカの鉄道王。めちゃ金持ち」
正直、ヒカルがコーネリアス・ヴァンダービルトを知らないことに驚いた。
これって社交上、必要な部類に入る情報だと思うのだけれど。
桜子も社交上の知識はないほうだが、根が守銭奴のため、古今東西の金持ちのデータはしっかり頭に入っていた。
「めちゃ金持ちとか砕けた表現使われても、なるほど彼かーってならない。――まあいいや。それで馴れ初めは?」
「父がこのホテルに連れて来てくれたの。それで父が所用を済ませているあいだ、ひとりになった私はホテル内を探検して、そこでコーネリアスくんと運命的な出会いを果たした」
「コーネリアスくんて、どんな子?」
「めちゃ紳士。で、めちゃ美形」
さっきの流れで、分かりやすいように砕けた表現にしてみた。私ってめちゃ親切。
「そう……そうなんだ……」
遠い目になるヒカル。
珍しく動揺しているようだが、なぜだろう。
「六歳当時の私はものすごく生意気で、可愛げのない子供だった。それなのに、私に好き勝手されても、コーネリアスくんはとっても親切だったなぁ……。彼ってば、同い年なのに、なんであんなに紳士だったんだろう?」
「そんなに?」
「ええ、私はこれまで生きて来て、彼ほど心の広い男の人には会ったことがない」
少し癖のあるふわふわした金髪に、青みがかった灰色のような、色素の薄い瞳。
お人形さんみたいな可愛らしい顔立ちなのに、立ち居振る舞いは大人のように落ち着いていて、洗練されていた。
今、めちゃくちゃ格好良くなっているだろうなぁ……。
礼装で白手袋して、明るい芝生を背景に、ガーデンテーブルに着いて、優雅に紅茶とか飲んでてほしいわぁ……。
――と、そこまで考えたところで、不愉快なことを思い出してしまった。
芋づる式、というやつだろうか。
コーネリアスくんを思い浮かべると、その隣に――いやむしろコーネリアスを押しのける勢いで、グイグイ前に出て来る太目な影が……。
「今、ふと思い出したんだけどね。コーネリアスくんの友達で、ものすごく感じの悪いやつが一緒にいた気がする」
つい苦い顔になると、それを聞いたヒカルがなぜか絶望的な表情を浮かべた。
「え、あの……それって、どんな人?」
「ちょいポチャで、すっごい俺様タイプの、超鼻持ちならない男の子。そっちは日本人ね。うーん……ぽっちゃりしていたけど、顔のパーツはたぶん……そうね、今思い返してみると、綺麗だったかも。でもしかめっ面がデフォルトの、とにかく偉そうなやつだった。コーネリアスくんは、彼に逆らえない感じだったかな。きっと家同士の上下関係がそうさせていたんでしょう。あの鼻持ちならない子供ったら、使用人に対しても偉そうにするから、私とうとうキレちゃったのよね。女性に優しくできない人間はクズよって言ってやったわ」
「そ、そうなんだ……」
うなだれ気味に口元を押さえるヒカル。
彼がここまでストレートにダメージを食らっているのを見るのは、これが初めてかもしれない。
……あれ?
「もしかして、知り合いだった? あ、そうか、このホテルはあなたのホームだものね。あれだけ傍若無人にこのホテルに出入りしてたってことは……あなた方、昔一緒に遊んだ仲だったりするの?」
「特徴を聞くと、まあ間違いなく……でもあの、ちょいポチャ君の話はもうやめようか。なんか僕、聞いているだけで、心臓痛い」
「そう? そうね」
コーネリアスくんの美しい思い出だけを表層部分に残し、ポチャ男くんの悪しき思い出のほうは、重しをつけて記憶の底のほうに封印してしまおう。
これは揺り起こしてはいけない記憶だったわ。




