58.花園秀行-4 『綾乃のルーツ』
和訳して明日渡せばいいのかと思ったら、彼女はここでやれと言う。
特に予定もなかったし、少々戸惑ったものの、素直に従うことにした。
一方、桜子のほうは、こちらが苦労していた元町悠生の雑用を簡単に――いとも簡単に、これまでにかけてきた時間は一体なんだったのかと脱力してしまうくらい、あっさり瞬殺で片づけてしまった。
そして、
「眠いから、ちょっと寝る」
と言い出した。
寝るってどうやって……? と訝しんでいると、ベンチをまたいで座るように指示してくる。ようは馬の背にまたがるような感じだ。
背もたれのないタイプのベンチなので、そうすること自体は問題ないのだが……なぜ桜子が眠るのに、こちらの座り方が関係あるのだろう? スペースが足りないなら、別のところで作業するけれど。
意図は分からないものの素直に従い、彼女に背を向ける格好で、ベンチをまたいだ。そして足のあいだにテキストを広げた瞬間――背中にトン、と重みがかかった。
びっくりして肩越しに後ろを振り返ると、彼女もベンチをまたいでいて、なんとこちらに背中を預けている。
「――あ、あの、西大路先輩?」
問いかける声は動揺しまくっていて、いつもよりずっと早口になってしまった。
「え、ええと、どうしてこちらに寄りかかるのですか?」
「眠い……ちょっと背中貸して……あなたもこっちに体重かけていいわ。そしたら力が相殺される」
力は相殺されるかもしれないけれど、心はバランスを失うぞ。
慌てているのはこちらだけで、彼女の声はダウナーで落ち切っている。……くっつくのに、意識とかしないのかな……弟に接するような感覚なのか?
そのまま桜子はしばらくうたた寝していたらしいのだが、おもむろに身じろぎしてお菓子を食べ出した。
「……細長いビスケット棒をチョコレートでコーティングしたこれって、世界で一番美味しいお菓子だと思うんだ」
そんな呟きが背後から聞こえてきて、『知らんがな』と心の中で突っ込みを入れていると、肩越しにニュッと赤い箱が突き出てきた。そして、
「あげる」
と肩の下あたりから声をかけられた。
「どうも」
かなり戸惑ったが、箱の中から一本抜き出し、ありがたくいただくことにした。
そのなんてことないやり取りにまで、妙にどぎまぎしてしまう。お菓子を口に入れると、いつもより甘くて、いつもよりほろ苦く感じた。
気まずさを誤魔化すように、彼女に尋ねてみる。
「そういえば、ずっと気になっていたんですが、妹さんはどうしてあんな喋り方なんです?」
「あんな喋り方って……ああ、あのお嬢様言葉?」
「そうです。僕は上流階級に属する人間じゃないので、『桁外れのお金持ちって、あんなフィクションみたいな喋り方するんだな』と感心していたんですが……お姉さんは普通ですよね」
「そうね。ずっとそうだから、当たり前すぎて考えたこともなかった。綾乃は生まれた時から、ずっとあんな感じよ」
嘘だ。それは絶対嘘だ。「ミルクが欲しいですわ」なんて言う赤ちゃんはいない。
「それは信じがたいです。何かきっかけがあって、ああなったのではありませんか? というかあれは、おうちの教育方針ではないのですね」
「あのね、うちの教育方針だとしたら、私はどうなるの。家の教えに背いた、野生児か何かだか思っている?」
野生児……なんだか可笑しくなり、吹き出す。彼女は野性味のかけらもない。
砕けた態度を取っていても、同じクラスの女子と比べればうんと上品だ。
……なぜだろう? 結構乱れた言葉も使っているのにな……生粋のお嬢様って、やはり打ち消せない品格みたいなものを持っているのかな。彼女はたぶん下ネタを言ったとしても、下品にならないタイプの人間で、こういう人を『本物のお嬢様』と言うのかもしれない。
――桜子が小声でぶつぶつと、
「あれ? でも、まさか……?」
と呟くのが聞こえた。
「どうかしましたか?」
「いえ――よくよく記憶を辿っていくと、あの子が三、四歳の頃は普通の喋り方だったなと思って。『お姉ちゃん、アイスクリーム食べようよー』とねだってきた、可愛いチビ綾乃の姿が突然フラッシュバックした」
どうでもいいが、『フラッシュバック』って、怖い場面を思い出す時に使うんじゃなかったっけ? まあ、雑談時の言葉の使い方なんて、適当でいいんだけどさ。
「じゃあ、そのあと『お姉様とアイスクリームをいただきたいですわ』に変わるきっかけがあったはずですね」
「あっ! もしかしたら、あれかもしれない」
そうして桜子は姉妹の思い出を語り始めたのである。
* * *
きっかけはハロウィンだった。
誘拐事件が起こるより前だから、桜子が六、七歳、綾乃が四、五歳くらいの頃か。
ハロウィンの時に仮装をしたのだが、その遊びに綾乃がドハマリした。手芸の得意なお手伝いさんがいたおかげで、十一月になっても、姉妹は様々なコスプレをして楽しんだ。
そのうちにコスプレよりも、物語性に重きを置くようになった。シンデレラが特にお気に入りで、姉妹は登場人物になりきって遊ぶ。
しかし配役で少々揉めることになり……。
桜子としては年齢的にも性格的にも、自分が意地悪な義姉、もしくは継母を演じたいと考えていた。――絶対に、シンデレラは綾乃だ。
しかし綾乃は自分が『意地悪な義姉をやる』と言って聞かない。
「お姉ちゃんは絶対シンデレラなのー! かぼちゃの馬車でぶとうかいに行くのー! 王子さまとけっこんするのー!」
可愛くむくれるもので、綾乃こそシンデレラだろ、可愛すぎるだろ、こんにゃろー! と悶える桜子だったが、次第に妹がぐずり出したので、焦った。
う……妹には逆らえない。
桜子は灰かぶりの衣装を身に纏い、小っちゃな竹箒を持った。……妙にしっくりくる。
綾乃は姉がきらびやかな舞踏会のシーンから始めずに、スタート時の汚い格好をしたので、露骨にがっかりしていた。
けれど、
「ねぇ綾乃――最初から丁寧に演じるのよ」
となだめれば、瞳に闘志を燃やしてやる気を出した。
ワインレッドの綺麗なドレスを着て、髪をカチューシャで留めたチビ綾乃が、桜子をいびる演技をする。
「シンデレラったら、おそうじもちゃんとできないなんて、いけませんわね!」
たどたどしく一生懸命意地悪を言おうとする綾乃が可愛すぎて、桜子の頬が赤らむ。
「か、可愛いー! 綾乃、お願い――これからはお姉ちゃんの前で、ずっとそうやってお嬢様言葉で喋ってくれる?」
「へへ、そお? ……んっ、あ、そうですの? おねえさまは、このしゃべりかたが好きですの?」
幼い綾乃がちょいちょい語尾を甘噛みするもんだから、「そうでしゅの?」「好きでしゅの?」って聞こえて、もう胸キュンが止まらない。
「大好きー、綾乃可愛いー、ねえねえ、『私のくつをお舐め』って言って?」
「……わたしのくつを……おなめ?」
「いいー! すごくいいわー」
パチパチと手を叩き、絶賛!
すると綾乃は頬っぺたを薔薇色に染めて笑った。
そこからは桜子の趣味全開で、綾乃にゴシックな服を着せつつ、聞きたいセリフを次々言わせるという遊びを、十二月、一月、二月……半年弱は続けた気がする。
おそるべき、幼少期の反復練習の成果……。
こうして誕生したのだ、ニュータイプ綾乃が。
回想から現実に引き戻された桜子は、そっと息を吐いた。
「まさか……すべての元凶が私だったとは」




