54.それは荒くれ者の度胸試し
うわ、食べた……!
桜子が「ひっ」と喉を引き攣らせて固まっていると、ブツを咀嚼していた奏が不意に動きを止め、真顔になった。
一拍置き、微かに眉を寄せ、視線を彷徨わせる。
「え……どうしたの? 吐く? 大丈夫?」
ビクビクと様子を窺う桜子に、奏が訝しげに告げる。
「いや……なんだこれ? 不味くない」
「は?」
「意外に味が普通でびっくりした」
そんな馬鹿な。このビジュアルで不味くないなんて、絶対にありえないから。
半目になる桜子を見て、奏の困惑がさらに増す。
「お前、まさか味見してねえのか?」
「するわけないでしょう。こんなやばいものを口に入れるなんて、荒くれ者の度胸試しでしょ」
「そんなもんを他人様に食わせるなよ。悪魔かお前」
「あんたが勝手に食べたんでしょ!」
「まあいいや、お前も食ってみ」
全然話聞かないな、この男……苛々して文句を言おうと口を開いたタイミングで、奏がグイとマフィンを押し込んで来た。
「ふぐ……」
気づいた時にはもう、淵の部分が歯に当たっている!
桜子はいやいやするように首を横に振ってみせるが、奏は無邪気な表情でさらに押し込んでくる。
これはどんな拷問なんだ……顔を顰めながら、渋々端っこのほうを噛み切って咀嚼する。
うん……あれ?
味わって飲み込んでから、奏の顔を見上げる。
ふたり、しばらく無言で見つめ合った。
「な?」
な、じゃないわよ。でも言いたいことは分かる。
「確かに不味くない。不思議……」
地球の神秘……。
「でもこれ、中は生焼けだな」
マフィンを半分に割り、奏がそう言った。
「焼けてないだけだから、もう一回焼き直せば、人が食って大丈夫なものに進化するぞ」
「……何その発見、別段嬉しくないけど」
「おい、食べものを粗末にすんなよ。富豪気取りかよ」
「いや、どっちかっていうと奏のほうが富豪でしょ」
「本物の金持ちは食べものを粗末にしねえんだよ」
え、そうかなぁ? セレブってパーティーで盛大に食べものを廃棄しているよね。
「そうと決まったら、行くぞ」
ぼんやり考えごとをしていたら、腕を引かれて戸惑いを覚える。
「どこに行くの?」
「調理実習室だ。これを焼き直す」
「はあ? ちょっと、なんでそんなことをするのよ」
「お前、さっきまでの会話を初めからやり直す気かよ? 面倒だから『富豪気取りかよ』のところから自力で思い出せ」
「そうじゃなくて、嫌だって言ってるの! お昼休みが潰れちゃうじゃない!」
桜子の悲痛な叫びを聞き、奏が口の端を吊り上げる。
「時間が潰れてよかったな。入学以来、一番まともな時間の使い方だろ?」
「あんたと過ごすとか、最悪だわ」
「まあそう言うな。マフィンを焼き直すあいだに、パンケーキを焼いてやる」
「頼んでないし……ていうか、パンケーキ焼けるんだ」
何その無駄な能力。呆れる桜子に、奏が小首を傾げて言う。
「昔、シェフに習った。好きだろパンケーキ」
「そりゃまあ……嫌いじゃないけど」
確かに桜子はパンケーキというものに昔から目がない。なぜだろう……無性に心惹かれるのは、あの丸い形のせいだろうか。そういえば、どら焼きも好きだ。
奏はもちろん桜子の好みを知っているわけではなく、『女子はパンケーキが好きだろ』という意味で言ったのだろうけど。
ブレザーのポケットに両手を突っ込み不貞腐れた態度を取る桜子を、奏が眺めおろす。不思議と物柔らかな視線だった。
「じゃあ決まりな、行くぞ」
「えー……」
「もしかすると、お前が使ってたオーブンが壊れていたんじゃないか? 焼き直してまともになったら、それが証拠になるだろう。先生にかけ合ってみろ」
え……本当に? まさかの『オーブンが壊れていたかも説』は負け犬の耳に大層魅力的に響いた。
桜子の瞳がピコンと輝いたのを見て取り、奏がくすりと笑みを漏らした。
「お前、その姿を他人に見られるの嫌だろ。誰にも会わない秘密のルートを知っているから、ストレスなく現地まで連れて行ってやる」
桜子はなんだか照れくさくなり、視線を彷徨わせた。
降り注ぐ陽光がポカポカと暖かで、風は爽やか。
「今日はいい天気だな」
桜子の心を読んだみたいに、奏がぽつりと呟く。
こんな麗らかな日は、大抵のことを許せるかもしれない。
お昼休みが潰れちゃうけれど……まあいいか。




