50.深草楓が潤んだ瞳で見てくる件
ある夜のこと。綾乃が桜子の部屋にやって来て、
「お姉様は明日の調理実習で、マフィンを作りますよね?」
と切り出した時に、なんとなく嫌な予感はしたのだ。
桜子は長年にわたり周囲の空気を読みまくって生きてきたために、面倒事が起こりそうな気配を事前になんとなく察知できるという、便利な第六感を手に入れていた。
その便利な能力が『気をつけろ、何かある!』としきりに警報を鳴らしている。
その真偽のほどは、数分とたたずして、
「明日はとびきり美味しいマフィンを焼いて、それを深草楓様にプレゼントするのですわ!」
という妹のとんちんかんな提案が披露された時点ではっきりした。
何これ……想定していたレベルより、遥かにひどいんですが。
しかも。
「深草様にマフィンをお渡しする時は、今みたいに眼鏡を外して、髪はほどいてくださいね」
という正気を疑うような指示つきで、さらには、
「調理実習は、午前中最後の授業でしたわよね。私、お昼休みになった瞬間、中等部をダッシュで抜け出して、高等部に向かいます。お姉様がマフィンをお渡しする場面を、遠くから見守りますので」
という鬼畜のような駄目押しをしてくる始末。
綾乃……。
そりゃあ、ほかならぬ可愛い妹の提案だもの――可能ならば、叶えてあげたいですよ。
けれどね、人にはできることとできないことがあるのよ。
どうしてそんな苦労を――しかもよりによって深草楓相手にせねばならないのか。
半ベソ状態からようやく脱した桜子は回避計画を立てた。
プランは次のとおりだ。
* * *
一、綾乃に対しては、表向き従順でいる。
二、綾乃の願望どおり、プレゼント受け渡しの際は、ノー眼鏡・ノー三つ編みで臨む。
三、マフィンを渡し損ねるような、突発的なアクシデントを演出。
四、アクシデントに驚いたふりをし、マフィンをさりげなくその場に投げ捨て、速やかに撤退。
* * *
桜子はこれを『お姉ちゃん頑張ってみたけど、上手くいかなかったわ……ということで無理をするとこじれちゃうから、今後は無理に楓とくっつけようとしないでね』作戦と名づけた。
完璧だわ。
この作戦には住吉忍に協力してもらおう。彼女は演技が上手いから、これでもう九割方上手くいったも同然である。
あとは……そうか、当事者である深草楓にもプランを話しておくかぁ……。ちょっと気が進まないけれど。
楓もなぁ……ヘタレのくせに、直接絡むと案外面倒なところあるんだよなぁ……。
やっぱり楓に全部ぶっちゃけるのはなしで、桜子が得意とする『上から圧をかける』感じでいこう。
あいつはヘタレだから、
「私の言うとおりにしなさいよ。あなたは私に対して、『はい』とだけ言っていればいいのよ、でないと潰すから」
と脅せばなんとかなる。
なんとかなるどころか……きつめに圧をかけると、頬を上気させて、潤んだ瞳で見てくる時があるのよね。
たぶん無意識だと思うんだけど、あれはなんなのだろう? あいつ大丈夫なのかしら?
よくあんな感じで、今まで無事に生きてこれたわよねと、桜子は楓を見るたびに思ってしまう。
しかもあれで女の子に人気あるとか、すごく不思議……。
実は桜子は住吉忍と同じで、成藍学園には高等部から入学した。だから深草楓のことを詳しく知ったのは、ここ最近のことなのである。
桜子は中等部まで、ミッション系の女子校に通っていたのだ。
あの女子校の教育方針が桜子は嫌いではなかった。正直なところ、大学卒業まであそこにいたいくらいだった。
先の憂いさえなかったら。
予言の書計画のため、高等部からは成藍学園に入ることに決めた。
綾乃の近くで成否を見守りたい。父は桜子に甘いので、進路変更自体は問題にならなかった。
ちなみに生え抜きの成藍生ではないのに、桜子がこの学園の人間関係に精通しているのには理由がある。
それは桜子がだいぶ前からパーティーに潜入して、セレブの調査をしていたからだ。
そんなわけで成藍には上手く溶け込むことに成功したのだが、どうしても克服できない苦手なことがふたつほどあった。
――運動と、料理だ。
これはもう壊滅的にセンスがない。
妹の綾乃は、豪華絢爛な悪役令嬢ビジュアルなのに、なんでもこなせるのよね。
料理も上手。
喧嘩も強い。
美人で。
性格も良い。
綾乃を見ていると、二次元世界から飛び出してきた、完全無欠の美少女みたいだなと思う。
ちなみに桜子は時々、心の中で妹を『綾乃たん』と呼んでいる。




