41.終わりと始まり
足首の状態は思ったよりもひどくなく、夏樹が丁寧に湿布と包帯を巻いてくれたおかげで、なんとか歩けそうな感じだった。すぐに冷やしたこともよかったのかもしれない。
擦りむいた膝も、夏樹が消毒して包帯を巻いてくれた。彼が真剣な顔で怪我の手当をするさまは、大いに綾乃を照れさせた。
そして恥ずかしさと同じくらい――いえ、もっと大きな幸福を感じた。大切にされているのが分かった。
こうなってみると、なぜ今まで彼の気持ちに気づかなかったのか、自分でも不思議なくらいだった。ずっとサインは出ていたのに。
……私は鈍感だったのかしら。
彼の本質はずっと変わっていなかった。冷たくされていた時ですら、夏樹の瞳は綾乃を求めていた。
それに、本当に綾乃が困っている時は、いつだって手を差し伸べてくれた。それは彼が綾乃をずっと見守ってくれていた証拠だろう。
夏樹がふたたび床に跪き、綾乃の左足の指を手で包み込んだ。
「指先が冷たいね」
「あの、夏樹……そんなことしないで」
綾乃はなんだか申し訳なく感じてしまい、足をそっと引き抜こうとするのだけれど、彼がやんわりとそれを引き止める。
そして悪戯な視線でこちらを見上げて言うのだった。
「君の足を見ていると、キスしたくなる」
「だ、だめよ!」
慌てて声を上げる。そんなことをして何が楽しいのか分からない。
それともこれは……単にからかわれている? 夏樹が楽しそうに口元に笑みを浮かべているのを見て、綾乃はそう確信した。
「……夏樹って意地悪、よね?」
赤面しながらなじると、彼が立ち上がり、こちらに覆いかぶさるような体勢になって、机の上に手を突く。
自然と綾乃の首筋に彼の顔が近づく。鎖骨から首筋……頬……耳元……と彼の唇が触れるか触れないかという距離感を保ちながら上がって来た。
綾乃はどうしていいか分からなくなって、彼のジャケットの襟首を掴んだり、反対に押したりを繰り返すのだが、腕にまるで力が入らなくて困った。
「意地悪なんてしていない。したいけど……我慢してる」
耳元で囁かれると綿毛でくすぐられているみたいにムズムズして、身をよじりたくなった。
我慢してるって、これで? 嘘だわ、と悲鳴を上げそうになる。
「夏樹……節度って大事だと思うの」
このような危機感を夏樹に対して覚えるなんて……綾乃は盛大に混乱していた。
自分でも何を言っているのかよく分からなかったが、ここでしっかり線引きしておかないと、なんとなくまずいかもしれないと感じたのだ。
すると彼はピタリと動きを止めた。数秒考えるような間が空き、やがて深く息を吐く。
耳にそれが甘くかかり、綾乃は身を震わせてしまう。
「そうだね……このままここにいると、まずいかもしれない」
確かにそうだった。彼は本来会場にいないといけない立場だ。
「えっと……私は大丈夫よ、パーティーに戻って? ひとりで帰れるわ」
「まさか、送るよ」
夏樹が体を起こし、呆れたようにこちらを見おろす。微かに眉間に皺が寄っているのが見てとれた。
「君をこの状態で放り出せない。足の怪我が心配だし、靴もないから抱き上げるよ」
そう断ってから、こちらの膝裏に手を回そうとしたので、仰天した綾乃は悲鳴を上げた。
「えっ、ちょっと待って! 歩ける、歩けますから!」
「だけど」
「抱っこされてここを出たりしたら、誰に見られるか分からないわ!」
「ここはパーティー会場の裏側だから、大丈夫」
全然大丈夫じゃない! 両手を突っ張って必死に抵抗する。
色気も何もあったものではないが、いつになく夏樹が強引で焦った。
ずっと冷たかったのに、反動がすごい! もしかしてこっちが地なのかしら? だとしたらこれまでよく偽れていたものだと思う。
「きゃあ、嫌だってば――抱き上げたりしたら絶交よ。もう夏樹と喋らないし、キスもしない……!」
背中と膝裏に彼の腕が回り、ほとんど抱き上げられていたけれど、綾乃が早口にそう脅すと、夏樹はそっと机の上に綾乃を戻した。
「……本当に歩ける? よろけたりしたら、もう君の言うことは聞かないからね」
「ええ、大丈夫よ」
本当は頭の中がフワフワしていて、ちゃんと立てるか不安だったけれど、かなり気合を入れて、彼が見守る前でそっと床に降り立った。
素足で踏む床はヒヤリとしたが、それはおくびにも出さない。表情に出して、『やはり無理だね』と抱き上げられたら困る。
女の子としては、お姫様抱っこというものに憧れはあるけれども、『それは今じゃない』感がすごかった。こんなボロボロの状態で、しかも警備員に見られるかもしれない状況で、なんて絶対に嫌だ。
ゆっくり左足に体重をかけてみると、微かに鈍い痛みはあるものの、耐えられないほどではない。
ホッとしつつ彼に頷いてみせる。
「平気みたい……ありがとう」
夏樹の腕を借りて、ゆっくりと歩く。
エレベーターで地階まで降り、彼の家の車に乗せられた。
運転手が不在で、夏樹が電話して呼ぶと言ったきり――……ふたりの時間が名残惜しいのか、なかなか電話を手にしようとしない。
綾乃もまだ甘え足りない気持ちが強くて、手を繋いで彼の肩に寄りかかった。
そして言わなければならないことがあるのを思い出した。
姿勢を正し、夏樹のほうに向き直るようにして、ずっと打ち明けたかったことを思い切って告げる。
「私ね……もうひとつあなたに聞いてほしいことがあって。実はね、少し前に予言の書という本が届いて、私はしばらくのあいだ、そのアドバイスに従って行動していたの」
説明が長くなりそうだけれど、時間はたっぷりある。
話す順序を頭の中で整理していた綾乃は、
「そのことなら知っている」
彼の言葉に唖然としてしまった。
「え、どうして?」
「以前、君が車で寝てしまったことがあっただろう。あの時に、大切そうに緋色の本を抱えているのが気になって――中を見た」
車で寝てしまったこと……それってかなり前よね?
姉の桜子が深草楓にマフィンを渡すことになり、高等部に見学に行った。それを夏樹に見咎められ、放課後、彼の車に乗せられ……高等部で何をしていたのか尋問されるうちに、緊張がピーク達して、具合が悪くなり……目を閉じているうちに、眠ってしまった。
確かにあの時、綾乃は予言の書を抱えていた。
けれどあれって一見、日記帳に見えなくもないのだけれど……そういうものを勝手に読んでしまうのって、どうなのかしら。夏樹ってもしかして束縛が強いタイプなのだろうか。
ふとそんな考えが浮かんだが、たとえ日記帳だったとしても、夏樹に見られて困るものなどないし、別にいいかとすぐに思い直した。
「予言の書に書かれていた内容はほとんど全部当たっていたのに、あなたのお母様の件だけは外れたみたい。ううん……私が対応したせいかな……ヒロインの住吉忍さんだったら、きっと……ごめんなさい」
「謝ることはない。住吉忍が何をしても、結果は同じだったよ」
「……なぐさめてくれるのは嬉しいけれど」
「これはなぐさめなんかじゃない。僕はあの本がまやかしであることを知っている」
まやかしとは穏やかではない。綾乃は軽く眉を顰める。
「どういう意味?」
「あれを書いた人間と直接話をした。あれは予言の書なんかじゃない。といっても――呆れたことに、四名の個人情報はおそらく大部分が真実で、そこが性質の悪いところでね。九割の真実に、一割の創作が混ざっている。この世界は正真正銘『現実』だし、君は転生者なんかじゃない」
頭が真っ白になる。ショックを受けたというよりも、夏樹との認識が違いすぎて、話が呑み込めないのだ。
彼は何か大きな間違いをしている……そう思った。だってそんなことはありえない。
「だけど――あんなに緻密な仕かけが、人の手で行えるわけがないわ」
「でも僕は本人に確認した」
綾乃は息を潜めて、じっと彼の顔を見つめることしかできない。
夏樹は小さく息を吐いてから、疲れたように語る。
「あれを読んだあと、荒唐無稽ではあるものの、真実を記しているという可能性についても考えてみた。――予言の書が真実を語っている場合、僕はゲーム世界の登場人物ということになる。すると本人にはその自覚がないわけで、自問自答していても一生答えは出ない。だからあの本の作者を突き止めて、真偽を直接確認するのが、一番確実で手っ取り早いと思ったんだ」
「どうやって突き止めたの?」
「それは長くなるから、今度話すよ。とにかく――数名の候補者の中から、少し時間はかかったものの、最終的にひとりに絞り込んだ。そして今夜その人物と直接話し、あれが虚構であることを認めさせた」
「その人は何がしたかったの?」
「僕らの婚約を壊したかったそうだ――あの人は僕のことが嫌いだから」
寒気がする。知らないあいだに蜘蛛の巣に絡めとられていたような心地がした。
誰かから悪意を向けられていたことに、遅れて気づいた時の、空恐ろしさ。
あれだけの大がかりな仕かけをコツコツ作り上げていく周到さ――狂おしいほどの妄執――どこかずれている狂気。
なぜ、どうしてそんなことを、それが分からない。
「あの人って誰なの?」
尋ねる声は掠れて、弱々しく響いた。
だって私はたぶん気づいている。
断片的に繋がる、たとえばあの――仮面舞踏会で見かけた人。
どうしてあの時、気づかなかったのだろう。
あれはだって、見間違いようもなく――……
「予言の書を書いたのは、君が世界で一番大切に想っている人だ」
「そんなわけないわ、だって」
その先が続かない。これ以上聞きたくなかった。
知ってしまったら、もう戻れなくなる。
優しい夢は終わる。
夏樹は綾乃を真っ直ぐに見据え、残酷な真実を告げる。
「すべてを仕組んだのは、君の姉――西大路桜子だ」
side-A(終)




