40.君のことがずっと
「いいから、こちらへ」
夏樹は綾乃の肩を抱き、人目につかないよう、小さな部屋に連れて行った。
先ほど綾乃を制止しようとした警備員が「大丈夫ですか」と尋ねる声と、それに対し、夏樹が落ち着いて何か指示している声が、ひどく遠くに聞こえる。
簡易平机の上に座るよう促され、力なくそれに従った。
未開封の段ボール箱がたくさん積まれているこの部屋は、備品倉庫のひとつだろうか。
ノックの音がして、夏樹が中から扉を開くと、先ほどの警備員が立っていた。彼は金属製のバケツと救急箱を差し出し、部屋には入らず、そのまま去って行った。
夏樹は綾乃の足元に跪き、
「――ここに足を入れて。冷やしたほうがいい」
と言って綾乃の左足をそっと持ち上げて、氷の入ったバケツの中に入れた。
冷たさにピクリと体が震える。
ドレスの左側に入ったスリットが左足のつけ根からすべてを露出させていたが、綾乃はぼんやりしていて、自分がどんな格好をしているのか、今何が起きているのか、まるで分かっていなかった。
「……膝から血が出ている。可哀想に」
夏樹の手のひらが滑るように足を撫で、ふくらはぎから膝裏へと、密やかな感触が上がってくる。
膝裏で指が止まったかと思うと、夏樹は綾乃の膝頭にそっとキスを落とした。
その甘美な感触に、全身に電流が駆け抜けたような感じがした。
「だ、だめよ、夏樹――汚いわ」
声が震えた。
転んで汚れているし、血も出ている。手で触れるのも気持ち悪いはずなのに、唇で触れるなんて。
それに――この状況はかなり問題がある。
高い位置に腰かける綾乃と、その足元に跪く夏樹という構図は、あまりに非日常的で異常だった。
「君は世界一綺麗だよ」
何を言っているのか理解できない。頭の中がグルグル回っていて、眩暈がした。
考えがまとまらないまま、衝動的にすべてをぶちまけたくなった。
「私、私――あなたに殺されても文句は言えないわ。とても馬鹿なことをしたの。ほんと馬鹿みたい、あなたを護りたかったのに、トドメを刺したのは、この私なのよ。もうあなたに顔向けできない」
「大丈夫、落ち着いて。ゆっくりでいいから話してくれ」
夏樹の声は落ち着いていて、とても優しかった。
……もう限界だった。ひとりで抱え込んでいるのは。
罰してほしかった。あなたの役に立てると思っていたけれど、それはとんでもない思い違いだった。
泣きながらすべてを打ち明けた。
私はヒロインには決してなれないのに。もっとわきまえるべきだったのに。
夏樹は話の途中から隣に移動し、優しく背を撫でたり、手をさすったりして話に耳を傾けていた。
そして穏やかな眼差しのまま言ったのだ。
「母が持って出たのは、機密情報じゃない」
「でも……」
「僕も父も、今夜の企みはあらかじめ把握していた。母が果たすであろう役割も。だからわざと隙を作って、敵のシナリオどおりに動いて誘導したんだ。彼女が持って出たのは、偽のデータだ」
信じがたい気持ちで、綾乃は夏樹の瞳を見返した。
「どうしてそんなこと……だけどまだ修復の見込みがあったんじゃない? お母様はまだお父様のことを――」
だって予言の書にはそう書いてあったもの。愛は消えていない……それについては、間違いないはずでしょう?
「修復できる見込みなんてどこにもないんだ」
痛みをこらえるような夏樹の表情は、現状をしっかりと受け止めている者のそれだった。
苦さと悲しみ、そのどちらも内包しているけれど、それでいて凪いだように落ち着いている。
彼が続けた。
「もうずっと前に家族は壊れていた。君とはまるで関係ないところで。だけど僕は、君さえいればいい――そんなふうに簡単に割り切れてしまうような、自分勝手で冷たい人間なんだ。だから君が僕のために泣く必要はない」
次の瞬間、夏樹に強く抱き締められていた。綾乃も彼の背に手を回した。
耳元で夏樹の声が響く。
「僕のそばにいて、僕を想ってくれる君のことが、ずっと好きだった。好きすぎてつらいほどに。だけど僕は傲慢で――君はどんなことがあっても僕のそばにいてくれるものだと思い上がっていた。それどころか、試すようなことすらした。君に冷たくしたのには、ある特殊な事情があったのだけれど――僕はそれすらも利用して、君を試し続けた。君が僕の言葉に傷ついて、僕のことで頭がいっぱいになるのを見て、心が痺れた。息をするのも苦しいほど、僕のことでいっぱいになればいい。だって僕がそうだから。君がいなければ死んでしまうほどに、君に溺れている」
出会ったあの日、綾乃は彼に絡め取られ――あなたのことで胸がいっぱいになった。
月日を重ねても、苦しさが増していくばかりだった。
底なしの深海に沈んでいくみたいに、どこまでも深みに嵌っていく自分が怖かった。
……けれどあなたも私に溺れていたの?
私たちは互いに互いをがんじがらめに縛って、息も満足にできないほど愛して、脇目も振らずただ互いを求めていた。
それは苦しいはずなのに、どこか甘く痺れるような快感を私たちにもたらした。
全身のすべてがあなたを求めている。
あなたもまた――私を求めていると言う。
それはなんという奇跡だろう。
このまま何ひとつ成し遂げられず死んだとしても、これだけで私はこの世に生を受けた意味がある。
あなたと出会い、視線が合い、共に笑い、泣いて、言葉を交わし合った。
次から次へと涙がこぼれ落ちる。
「あなたのことが好きすぎて、あなたが人生のすべてなのだと、過去の私はなんの疑いも持たずに生きてきたの。……だけど最近、そんな自分を嫌いになりそうだった。あなたに依存しすぎている自分が、人として未熟な気がして。だけど気づいたの――私がこれから何かを学び、今よりずっと賢くなったとしても、それでも変わらないものがきっとある。それがあなたへの気持ちよ。私はずっとあなたが好きで、この強い感情は、この先もずっと色あせることはない。理由なんてもう分からなくなってしまったくらい、たまらなくあなたが好きなの」
ふたりは互いの額を擦り合わせた。鼻の頭が触れて、なんだかくすぐったい。
夏樹は綾乃の耳の下に手のひらを当て、頬を挟むようにしてこちらを覗き込んだ。
彼が指を微かに動かすたびに、触れられた箇所が熱を持つ。
「もう、君がいない日常に耐えられない。こんなふうにずっと君に触れていたいし、声を聞いていたい。僕が間違ったら、君に正してほしいし、君がつまずいた時は、僕がそばにいて支えたい」
「これからはずっと一緒ね?」
「喜びも悲しみも、一緒に分かち合おう。これから先、ずっと」
彼が身じろぎしてポケットからリングケースを取り出すのを、綾乃はぼんやりと眺めていた。
「僕はまだ半人前で、本物を贈るには早いから、これは」
夏樹は綾乃の左手をそっと持ち上げ、細く長い小指にリングを滑り込ませた。綾乃の指の形は少し特殊で、薬指と小指がほとんど同じ長さだ。
……左手につけるピンキーリングは、確か『幸せを逃がさない』というおまじないの意味がなかったかしら。
彼は視線を絡ませ、心地の良い低めの声で、熱を込めて一途に語りかけてくれる。
「約束のしるしだ。僕の心は君のものだ。だから君もずっと変わらず、僕を想い続けてほしい」
指をからめ、ふたりは初めてのキスをした。
触れて離れる合間に、何度も「大好き」と伝えた。
彼もそれと同じくらい、綾乃に愛を返した。
涙の味は次第に甘くなり、胸がいっぱいになった。




