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婚約者に愛されない悪役令嬢が予言の書を手に入れたら  作者: 山田露子 ☆ヴェール小説4巻発売中!
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39.走る


「もうやめてください」


 紫野惠理香がこうして盗みを働いてしまったことが、悲しかった。


 できればこの前の段階で思いとどまってほしかった――夏樹のために。


 夫を裏切ったことについては、つべこべ言うつもりはない。夫婦のことは他人には分からないことだ。


 けれど夏樹に対しては、もっと誠実でいるべきだったのでは? 息子に対して、申し訳ないという気持ちはなかったのだろうか。


「ここは関係者以外、立ち入り禁止よ」


 彼女はまだ綾乃を糾弾するつもりらしい。


「それは惠理香さんも同じですよね」


「何を言っているの、あなたは」


 紫野惠理香の声は普段からハスキーで潰れているが、今日は一段とそれがひどいように感じられた。


 彼女の怒りと驚きを正面から受け止めて、急に心細くなる。


 とんでもないことに首を突っ込んでいるのだと、ここに来てやっと実感が湧いた。


 ヒロインならきっと上手く収めるのだろうけれど……綾乃にその自信はない。できることなら今からでも、住吉忍に代わってほしかった。


 だけどそれはもう望めないし、綾乃がやるしかない。


 自らの意志でここに立っている――誰も助けてくれないのは承知の上で、それでも『やる』と決めたのでしょう? しっかりしなさい!


 震えそうになる足を、しっかりと肩幅に開く。


 負けるな、立ち向かえ……!


「あなたが今夜、会社の機密情報を盗むつもりだと知ってしまったんです」


「は、なんですって? どうやって?」


「嵯峨野重利とあなたが話しているのを、たまたま聞いてしまって」


 実際に聞いたのはヒロインであるが、それを自分に置き換えて話を進める。ここで住吉忍の名前を出しても、ややこしくなるだけだ。


「そう……そうだったの……」


 どこかぼんやりした様子で、紫野惠理香が呟きを漏らした。魂が抜けたような顔をしている。


 彼女が何を考えているのか、綾乃には窺い知れない。


 けれど事前に得た予備知識を元に、思い切って踏み込んでみる。


「差し出がましいようですが、まだご主人のことを、大切に想っていらっしゃるのではありませんか?」


 予言の書にはそう書かれていた。


 これは真実のはずだけれど、紫野惠理香がすぐに認めるはずもない。


「あなたに何が分かるの? 愛してもらえなかった女の気持ちが」


「私だって、いつも不安で仕方がない。でも、相手に不安や不満を埋めてもらうことが、愛ではない――そう気づいたんです」


 これは本心からの言葉よ、お願いだから届いて。


 愛してもらえなかった女の気持ちなら、私にだって痛いほど分かる。


 とてもつらくて、心が凍りそうで、自分のすべてがだめに思えて、自己嫌悪に陥って。すべてが悪いほうに回り出す。


 その責めを相手にぶつけても、思うとおりにならなくて。苦しくて。苦しくて。


 誰だって、陽だまりにいるような心地を味わっていたい。大切な人に慈しまれ、愛される特別な自分でいたい。


 けれど相手も人間だから――愛し返してもらうことは、とても難しい。


 正直に言えば、目の前の紫野惠理香には、これっぽっちも同情できなかった。


 それでも彼女の気持ちはよく分かる。


 そして綾乃は今この瞬間、夏樹のことだけを想っていた。夏樹のために、この人が彼の母だからという理由で、真剣に対峙した。


 綾乃は懸命に、不器用に言葉を紡ぐ。


「たとえ嫌われていても、私は夏樹が好きです。だから全力でぶつかるって決めたんです。あなたは彼の大切な家族だから、思いとどまってほしい。彼をこれ以上傷つけないで」


「それって……見逃してくれるってこと?」


「あなたがここで手を引けば、見逃すも何もありません。何も起きてないんですから」


 私はここで誰とも会っていないし、彼女はここへ来なかった――それでいい。ここで起きたことは、ふたりの秘密だ。


 紫野惠理香が深いため息を吐いた。


 疲れたように髪をかき混ぜると、放心したようにしばらくのあいだ視線を彷徨わせていたのだが、やがて小さな声で呟きを漏らす。


「……分かったわ。私にも大切なものがある」


 デスクを迂回しこちらに歩み寄って来た彼女は、綾乃の瞳をしっかりと覗き込み、手に持っていた茶色い革のファイルボードを差し出してきた。


「これは、夫の会社と新規顧客との契約書雛形よ。これを盗み出して、嵯峨野に渡すつもりだった。契約は三日後の予定だから、それ以前に契約内容を把握して、顧客に接触して、横槍を入れるのが嵯峨野の計画だったの。これ――あとでデスクの引き出しに戻しておいてくれるかしら。一番上の引き出しよ」


 こちらに託したファイルボードの表面をポンと撫でてから、紫野惠理香は部屋から出て行った。


 ひとりになった綾乃はそっと息を吐く。


 できた、私、彼を護れた……。


 力が抜けて、ソファにフラフラと腰を下ろす。足が震えて、しばらく立てそうになかった。


 ホッとして革製のファイルボードを眺めおろした綾乃は、かなり前に見た、住吉忍のウェイトレス姿が脳裏に蘇って――心臓が凍りつくような心地を味わった。


 ……これと同じものを、彼女も小脇に抱えていなかったか。


 慌てて中を開くと、そこには契約書のコピーなど挟まっていなかった。


 代わりにあったのは、


「ワインリスト……!」


 呟きと共にブワッと鳥肌が立つ。


 やられた……! そうよ、データはPCから抜き出すはずじゃない、紙ベースのわけがなかったのに!


 紫野惠理香から『これが契約書雛形よ』と先に言われたことで、なんの違和感も覚えず信じてしまった。


 紫野惠理香は少し前までバーカウンターにいた。あそこでワインリストを眺めていた彼女は、緊張のあまりそれを手にしたままエレベーターに乗り込み、ここへ来てしまったのではないか。


 綾乃に問い詰められた彼女は咄嗟に機転を利かせ、ワインリストを契約書だと偽り、こちらに押しつけた。


 中身がワインリストだということはすぐにばれる。けれど時間稼ぎが目的だから、ばれても別にいい。


 綾乃を少しだけここに足止めできれば、彼女は悠々とエレベーターに乗って、脱出することができるのだから……。


 本物の機密データはきっとUSBか何かにコピー済みだろう。


 ああ――住吉忍ならば、これがワインリストだとすぐに見抜けたはず! 綾乃のように、まんまと一杯食わされることはなかっただろう。


 あの場面で、ワインリストであることを指摘できていたら、結果が変わった?


 それとも説得したのが綾乃だったから、紫野惠理香はまったく心を動かされなかったの?


 綾乃が夏樹のことしか考えていなくて、紫野惠理香の気持ちに寄り添えなかったから? 彼女は『私のことなんて分かってくれない』とがっかりしたのだろうか?


 ……だけど、どうして? どうして紫野惠理香に寄り添わなくてはならないの?


 気持ちを汲むなんて、無理よ! だって綾乃は彼女にこれっぽっちも同情していないのだから。同情どころかそう――ずっと憎んでさえいた。


 六歳で夏樹に出会ってからずっと、彼に寂しい思いをさせてきた紫野惠理香が嫌いだった。好きになれそうなところなどひとつもない、そう思ってきた。


 こちらが軽蔑しているから、紫野惠理香にもそれが伝わっていたのかも。それで上手くいくわけがない。


 過呼吸ぎみに息遣いが速まっているのを、どこか他人事のように認識しながら、ソファから立ち上がる。よろけるように、エレベーターホールに向かった。


 紫野惠理香を乗せたエレベーターはとっくに下に降りている。ボタンを叩きつけるようにして呼び寄せるけれど、どれもすぐには来そうにない。


 間に合わない、もう間に合わないわ……!


 いてもたってもいられなくて、階段室に駆け込んだ。震える足で階段を駆け下りる。


 半フロアほど下りたところで、足がもつれて転んだ。数段、階段を踏み外して、無様に踊り場に転がってしまう。


 邪魔なヒールを脱ぎ捨て、立ち上がる。足がズキズキ痛んだが、何もかも現実味がない。頭がフワフワして、自分が今何をしているのか分からなくなっていた。


 さらに半フロア駆け下りるのに、だいぶ時間がかかってしまい、結局、一階下のエレベーターホール前にふたたび出て、呼び寄せた箱によろけながら乗り込んだ。


 一階に着くまで、ソワソワと箱の中を歩いた。


 ああ、どうしよう……どうしよう。


 私のせいだわ。私が、私が――……


 エレベーターの扉が開くと同時に駆け出す。


 膝から血は出ているし、ドレスの袖が裂けていて散々な有様であったが、綾乃は自分の状態を正しく認識できていなかった。


 心臓の音がうるさい。エレベーターホール前に立っていた警備員が、取り乱した綾乃を見て、制止するようにすぐさま手を前に出した。


「止まってください」


 そこを退いて、早く紫野惠理香を探さないと、早く――……


 警備員の腕を払いのけようとした瞬間、綾乃の体を横手から誰かが抱きとめた。


「――綾乃!」


 綾乃はもがき、前に進もうとする。


 離して、私は行かないといけないの。


 でもどこに? もう紫野惠理香は行ってしまった。もうすべてが遅い。


 私は、どうすれば――……


「綾乃――僕を見て――僕だけを見るんだ」


 なだめるような声音に力が抜ける。


 気がつけば、綾乃は夏樹の腕の中にいた。



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