39.走る
「もうやめてください」
紫野惠理香がこうして盗みを働いてしまったことが、悲しかった。
できればこの前の段階で思いとどまってほしかった――夏樹のために。
夫を裏切ったことについては、つべこべ言うつもりはない。夫婦のことは他人には分からないことだ。
けれど夏樹に対しては、もっと誠実でいるべきだったのでは? 息子に対して、申し訳ないという気持ちはなかったのだろうか。
「ここは関係者以外、立ち入り禁止よ」
彼女はまだ綾乃を糾弾するつもりらしい。
「それは惠理香さんも同じですよね」
「何を言っているの、あなたは」
紫野惠理香の声は普段からハスキーで潰れているが、今日は一段とそれがひどいように感じられた。
彼女の怒りと驚きを正面から受け止めて、急に心細くなる。
とんでもないことに首を突っ込んでいるのだと、ここに来てやっと実感が湧いた。
ヒロインならきっと上手く収めるのだろうけれど……綾乃にその自信はない。できることなら今からでも、住吉忍に代わってほしかった。
だけどそれはもう望めないし、綾乃がやるしかない。
自らの意志でここに立っている――誰も助けてくれないのは承知の上で、それでも『やる』と決めたのでしょう? しっかりしなさい!
震えそうになる足を、しっかりと肩幅に開く。
負けるな、立ち向かえ……!
「あなたが今夜、会社の機密情報を盗むつもりだと知ってしまったんです」
「は、なんですって? どうやって?」
「嵯峨野重利とあなたが話しているのを、たまたま聞いてしまって」
実際に聞いたのはヒロインであるが、それを自分に置き換えて話を進める。ここで住吉忍の名前を出しても、ややこしくなるだけだ。
「そう……そうだったの……」
どこかぼんやりした様子で、紫野惠理香が呟きを漏らした。魂が抜けたような顔をしている。
彼女が何を考えているのか、綾乃には窺い知れない。
けれど事前に得た予備知識を元に、思い切って踏み込んでみる。
「差し出がましいようですが、まだご主人のことを、大切に想っていらっしゃるのではありませんか?」
予言の書にはそう書かれていた。
これは真実のはずだけれど、紫野惠理香がすぐに認めるはずもない。
「あなたに何が分かるの? 愛してもらえなかった女の気持ちが」
「私だって、いつも不安で仕方がない。でも、相手に不安や不満を埋めてもらうことが、愛ではない――そう気づいたんです」
これは本心からの言葉よ、お願いだから届いて。
愛してもらえなかった女の気持ちなら、私にだって痛いほど分かる。
とてもつらくて、心が凍りそうで、自分のすべてがだめに思えて、自己嫌悪に陥って。すべてが悪いほうに回り出す。
その責めを相手にぶつけても、思うとおりにならなくて。苦しくて。苦しくて。
誰だって、陽だまりにいるような心地を味わっていたい。大切な人に慈しまれ、愛される特別な自分でいたい。
けれど相手も人間だから――愛し返してもらうことは、とても難しい。
正直に言えば、目の前の紫野惠理香には、これっぽっちも同情できなかった。
それでも彼女の気持ちはよく分かる。
そして綾乃は今この瞬間、夏樹のことだけを想っていた。夏樹のために、この人が彼の母だからという理由で、真剣に対峙した。
綾乃は懸命に、不器用に言葉を紡ぐ。
「たとえ嫌われていても、私は夏樹が好きです。だから全力でぶつかるって決めたんです。あなたは彼の大切な家族だから、思いとどまってほしい。彼をこれ以上傷つけないで」
「それって……見逃してくれるってこと?」
「あなたがここで手を引けば、見逃すも何もありません。何も起きてないんですから」
私はここで誰とも会っていないし、彼女はここへ来なかった――それでいい。ここで起きたことは、ふたりの秘密だ。
紫野惠理香が深いため息を吐いた。
疲れたように髪をかき混ぜると、放心したようにしばらくのあいだ視線を彷徨わせていたのだが、やがて小さな声で呟きを漏らす。
「……分かったわ。私にも大切なものがある」
デスクを迂回しこちらに歩み寄って来た彼女は、綾乃の瞳をしっかりと覗き込み、手に持っていた茶色い革のファイルボードを差し出してきた。
「これは、夫の会社と新規顧客との契約書雛形よ。これを盗み出して、嵯峨野に渡すつもりだった。契約は三日後の予定だから、それ以前に契約内容を把握して、顧客に接触して、横槍を入れるのが嵯峨野の計画だったの。これ――あとでデスクの引き出しに戻しておいてくれるかしら。一番上の引き出しよ」
こちらに託したファイルボードの表面をポンと撫でてから、紫野惠理香は部屋から出て行った。
ひとりになった綾乃はそっと息を吐く。
できた、私、彼を護れた……。
力が抜けて、ソファにフラフラと腰を下ろす。足が震えて、しばらく立てそうになかった。
ホッとして革製のファイルボードを眺めおろした綾乃は、かなり前に見た、住吉忍のウェイトレス姿が脳裏に蘇って――心臓が凍りつくような心地を味わった。
……これと同じものを、彼女も小脇に抱えていなかったか。
慌てて中を開くと、そこには契約書のコピーなど挟まっていなかった。
代わりにあったのは、
「ワインリスト……!」
呟きと共にブワッと鳥肌が立つ。
やられた……! そうよ、データはPCから抜き出すはずじゃない、紙ベースのわけがなかったのに!
紫野惠理香から『これが契約書雛形よ』と先に言われたことで、なんの違和感も覚えず信じてしまった。
紫野惠理香は少し前までバーカウンターにいた。あそこでワインリストを眺めていた彼女は、緊張のあまりそれを手にしたままエレベーターに乗り込み、ここへ来てしまったのではないか。
綾乃に問い詰められた彼女は咄嗟に機転を利かせ、ワインリストを契約書だと偽り、こちらに押しつけた。
中身がワインリストだということはすぐにばれる。けれど時間稼ぎが目的だから、ばれても別にいい。
綾乃を少しだけここに足止めできれば、彼女は悠々とエレベーターに乗って、脱出することができるのだから……。
本物の機密データはきっとUSBか何かにコピー済みだろう。
ああ――住吉忍ならば、これがワインリストだとすぐに見抜けたはず! 綾乃のように、まんまと一杯食わされることはなかっただろう。
あの場面で、ワインリストであることを指摘できていたら、結果が変わった?
それとも説得したのが綾乃だったから、紫野惠理香はまったく心を動かされなかったの?
綾乃が夏樹のことしか考えていなくて、紫野惠理香の気持ちに寄り添えなかったから? 彼女は『私のことなんて分かってくれない』とがっかりしたのだろうか?
……だけど、どうして? どうして紫野惠理香に寄り添わなくてはならないの?
気持ちを汲むなんて、無理よ! だって綾乃は彼女にこれっぽっちも同情していないのだから。同情どころかそう――ずっと憎んでさえいた。
六歳で夏樹に出会ってからずっと、彼に寂しい思いをさせてきた紫野惠理香が嫌いだった。好きになれそうなところなどひとつもない、そう思ってきた。
こちらが軽蔑しているから、紫野惠理香にもそれが伝わっていたのかも。それで上手くいくわけがない。
過呼吸ぎみに息遣いが速まっているのを、どこか他人事のように認識しながら、ソファから立ち上がる。よろけるように、エレベーターホールに向かった。
紫野惠理香を乗せたエレベーターはとっくに下に降りている。ボタンを叩きつけるようにして呼び寄せるけれど、どれもすぐには来そうにない。
間に合わない、もう間に合わないわ……!
いてもたってもいられなくて、階段室に駆け込んだ。震える足で階段を駆け下りる。
半フロアほど下りたところで、足がもつれて転んだ。数段、階段を踏み外して、無様に踊り場に転がってしまう。
邪魔なヒールを脱ぎ捨て、立ち上がる。足がズキズキ痛んだが、何もかも現実味がない。頭がフワフワして、自分が今何をしているのか分からなくなっていた。
さらに半フロア駆け下りるのに、だいぶ時間がかかってしまい、結局、一階下のエレベーターホール前にふたたび出て、呼び寄せた箱によろけながら乗り込んだ。
一階に着くまで、ソワソワと箱の中を歩いた。
ああ、どうしよう……どうしよう。
私のせいだわ。私が、私が――……
エレベーターの扉が開くと同時に駆け出す。
膝から血は出ているし、ドレスの袖が裂けていて散々な有様であったが、綾乃は自分の状態を正しく認識できていなかった。
心臓の音がうるさい。エレベーターホール前に立っていた警備員が、取り乱した綾乃を見て、制止するようにすぐさま手を前に出した。
「止まってください」
そこを退いて、早く紫野惠理香を探さないと、早く――……
警備員の腕を払いのけようとした瞬間、綾乃の体を横手から誰かが抱きとめた。
「――綾乃!」
綾乃はもがき、前に進もうとする。
離して、私は行かないといけないの。
でもどこに? もう紫野惠理香は行ってしまった。もうすべてが遅い。
私は、どうすれば――……
「綾乃――僕を見て――僕だけを見るんだ」
なだめるような声音に力が抜ける。
気がつけば、綾乃は夏樹の腕の中にいた。




