36.そろそろ三冊目が
翌日、綾乃が廊下を歩いていると、ヒカルに呼び止められた。
「ちょっといいかな?」
声をかけられた綾乃は足を止め、真顔で彼を見返す。
「……今、たまたま私を見かけて呼び止めたのですか? それとも探していました?」
「どちらでもある」
「どちらでもあるって、それはどういう意味でしょう?」
綾乃がげんなりして尋ねると、彼が肩をすくめてみせる。
「七美に君の行方を尋ねたら、『ロッカールームに向かった』と教えてくれてね。ロッカールームを目指して歩いていたら、こうして途中で捕まえることができた」
まったくもう、ストーカー行為はいい加減やめていただきたいわ。今はヒカルにかまっている余裕がないので、「また今度」と言おうとしたのだが……。
「昨日さ、僕との電話を切らずに、住吉忍と話し始めただろう。だから彼女と君の会話を聞いちゃったんだ」
電話……?
そういえば、姉と久我奏が一緒にいるのを見て、ヒカルを問い詰めるために電話をかけた。ところが話の途中で久我奏が姉と話し始めたので、慌ててスマートフォンを耳から離し……そうだ、確かに通話を終了した記憶がない。
その後、住吉忍が背後から抱き着いてきたりして、ヒカルと電話をしていたことを忘れていた。
けれどあの状況なら、ヒカルのほうで電話を切るのが普通では? こちらの混乱した状況は、電話越しに伝わっていたでしょうに。
「盗み聞きをするなんて、マナー違反ですわよ」
「聞こえちゃったんだよ。電話を切らないほうが悪い」
いけしゃあしゃあと……。
会話続行を拒否して歩き始めようとすると、ヒカルが言葉を投げかけてきた。
「――やめたほうがいい」
綾乃はピタリと足を止め、少し不機嫌になってヒカルに問い返す。
「どうしてですか?」
「君が踏み込んでいい領域じゃない」
ヒカルにしては珍しく強い口調だ。
やめたほうがいい――綾乃も本心ではそう思っているからこそ、彼に反対していた。
「希望があるのに、それでも手を引けますか? 住吉忍さんの提案に従えば、夏樹を護れる」
「でも、やめるべきだ」
予言の書を知らない人には理解してもらえない。
人はこれから起こる出来事が分からないから不安を覚える。――けれど、未来があらかじめ分かっていたなら?
予言の書が最良の答えを示してくれる――あれはいつだって綾乃の味方をしてくれる。そのとおりに進むことの、何が悪いのか。
ヒロインは手を引いてしまった。けれど予言の書があれば、きっと綾乃でも住吉忍の代わりを務められる。夏樹を救える。
「ヒカルに分かってもらう必要はありません」
心配してくれる人はいらない。もっと確かな拠り所がある――私を導いてくれる本が。
もうこれを手放せない。
そろそろ三冊目が届く頃だ。きっとまたロッカーに入っている。
送り主は学園の関係者だろう。
一体誰が? なんの目的で?
それが気にならないといえば嘘になる。けれど最近は深く考えなくなっていた。
この本に助けられた、それがすべてだ。送り主を突き止めたら、予言の書を失う気がしていた。
今の状態が心地良いなら、決して知ろうとしてはいけない。
予言の書には『書き手を探るな』という警告は記されていない。けれど綾乃自身が真実を知ることに対して後ろ向きだった。
――もしもこの時点で視野を広げていたら、意外な光景を目撃することができたのかもしれない。
この時の綾乃はあまりに周りが見えていなかった。
たとえば今だって、高等部の片隅で何が起きているのかを、綾乃は知りもしなかったのだから。
* * *
高等部の廊下を足早に進む、花園秀行の姿があった。
予言の書によると、彼は四人目の攻略対象者ということになっている。
庶民の彼はひょんなことから西大路綾乃と知り合い、彼女から「あなた、私の姉の下僕になってくださいな」と頼まれた。その場の流れで「分かった、約束するよ」と答えたため、現状彼は、西大路桜子の下僕という立場だ。
――ところで花園秀行は中等部の二年生であるから、こんなふうに高等部の校舎をうろついているのは奇妙なことだった。
彼の右手には緋色の本が握られていて、その立派な革装丁は、学園で支給されている教科書や参考書のどれとも異なっている。
花園秀行とすれ違いかけた住吉忍が、ふと彼の手にしている本に目を留めた。
「――ねえ、君」
声をかけられた花園秀行が足を止める。
「はい?」
住吉忍は彼の顔をじっと見つめ、微かに眉根を寄せつつ、唇の右端を持ち上げるようにして笑みを作った。
「あたし、あなたのこと知ってる」
その言葉に小首を傾げた花園秀行は、一拍置いてから、人懐こい笑顔を浮かべた。
「ああ、もしかして……このところ僕は深草先輩と何度かお会いしているのですが、その時に見かけたとか?」
「そうかも。あたしが楓――深草楓に会いに行った時、すれ違ったのかな」
「深草先輩とお知り合いなんですか?」
「友達なんだ」
そう答える住吉忍の瞳は、どこか茫洋としている。
花園秀行は軽く眉を上げ曖昧に微笑んでから、「それじゃあ、これで」と挨拶して立ち去ろうとした。
それを住吉忍が引き留める。
「ねえ、あなたが持っているその本なんだけど……」
と革装丁の本を指差したので、花園秀行は手を持ち上げてそれを見おろした。
「ああ、これですか?」
「どうしたの?」
「届けに行くところなんです」
「え、誰に? 代わりに届けてあげようか?」
その申し出は少し不自然であったが、花園秀行はにっこりと笑った。
「いいんですか? すごく助かります、実は――」
彼が事情を説明し始める。
「ゼミの用事で高等部に来たんです。先ほど深草先輩と食堂で打ち合わせをしたんですが、彼がこの本を置き忘れてしまったみたいで。届けようにもクラスが分からないし、困ったなと思いながら歩いていました」
「中は見た?」
「いいえ……?」
変なことを訊くものだと、花園秀行は苦笑を浮かべる。
「だって人のものですし。――持ち主がはっきりしているので、誰のものか確認するため、中をあらためる必要もないですしね」
「そうだね。じゃあ私が預かるわ」
緋色の本が、攻略対象者の手から、ヒロインの手に渡る。
そういえば――と住吉忍が視線をしっかりと花園秀行に合わせた。
「まだ名乗ってなかったね。私は住吉忍」
「僕は花園秀行といいます。中等部の二年です」
「そう……ゼミの用事でここへ来たってことは、来年度入るゼミはもう決まっているのよね? 楓と同じ系列のゼミ?」
中等部と高等部のゼミはそれぞれリンクしている。ちなみに高等部のゼミは一年と二年のあいだが活動期間となるので、高等部に上がったばかりの深草楓もすでに活動を始めている。
花園秀行がこうして高等部にお使いに来ているのは、あの不良問題児――元町悠生に雑用としてこき使われているせいであった。
「いいえ、僕はまだ。これはただの手伝いで――入りたい気持ちはあるんですが、難しいです」
「そう。……いずれ風向きが変わると思う、だから頑張って」
それは聞きようによっては無責任な励ましであったが、花園秀行は気を悪くした様子もなく、
「ありがとうございます」
と微笑んで、踵を返した。
彼と別れた住吉忍は、難しい顔をしてひとり廊下を急いだ。
いつもの待ち合わせ場所に顔を出すと、彼はすでにそこにいた。
ここは空き教室のひとつで、鍵は以前住吉忍が手に入れた。以降、それを使って自由に出入りしている。
彼に緋色の本を差し出しながら、住吉忍が呆れたように問う。
「どうしてこんなことをしたの」
本を受け取った深草楓は、気まぐれに視線を彷徨わせた。物思う表情を浮かべると、神秘的な彼の美しさがより一層際立つ。
「そろそろ花園秀行を仲間に引き込んだらどうかな……と思ったんだ」
「相手が悪かったわね。中を見てすらいない」
深草楓の顔に驚きが広がる。こういう表情を浮かべても麗しさが損なわれないのはどういうことよ……住吉忍はこっそりそんなことを考えていた。
彼女の顔に痛みをこらえるような表情が浮かんだのに、彼のほうはそれに気づかない。
「本当に? 普通、怪しい革装丁の本があったら、中を見るよね?」
「皆が皆、あなたやあたしみたいな人間じゃないのよ」
「……まあ、いいか。手は足りているし」
呟きを漏らす楓を見つめ、住吉忍は手を伸ばして、そっと彼の肩に触れた。
それはとても慎重な手つきで、いつも大胆な彼女らしくなかった。




