35.バトンタッチ
住吉忍はひとつ息をついてから説明を始めた。
「――今週の金曜日、新社屋のお披露目パーティーがあるでしょう?」
夏樹の父、紫野博史氏は不動産開発の会社を経営している。
業種が被っているので、久我家とはしのぎを削る間柄ではあるが、あちらがホテルやレジャー関連など何かと派手であるのに対して、紫野系列の会社はオフィスビルや公的案件など、堅めなものを多く扱っているようだ。
紫野氏は今、川の西側の開発に力を入れているらしい。
古いビルが多いその区域は現状街としては停滞しているが、上手く開発の手を入れれば、爆発的に成長する可能性を秘めていた。その主軸として据えているのが、新社屋の建設であり、そこを足がかりに開発を進めていく計画らしかった。
紫野家――そして傘下である当家の命運をも左右する大事業となる。
その大切なパーティーが、今週金曜日に開かれる予定なのである。
当然綾乃も夏樹の婚約者として招待されている。
ふたりのあいだがどんなにぎくしゃくしていても、それが社交の場である限り、当初の予定どおり綾乃は婚約者として出席することになるだろう。
「ええ、私も出席する予定です。……今のところは」
少し複雑ではある。心の繋がりがよりも、利益が優先されるこの世界。
それは歪であるのに、時にあまりに都合が良いから、この世界で生きていると少しだけ傷つくことになる。夏樹との結びつきを強めてくれるものならなんでもいい――そんなふうにありがたく感じてしまう自分が悲しくなるのだ。
住吉忍はなんともいえない表情で綾乃を見つめたあとで、小さく息を吐いて続けた。
「そのパーティーで、夏樹の母が会社の機密情報を盗むつもりよ」
「なんですって?」
問い返す声が自然と大きくなった。
そんなことは予言の書に記されていなかった。
……これはゲームどおりの展開なの? それともシナリオから逸脱しているの? 分からない。
もしかすると自分は、不測の事態に弱くなっているのかもしれない。
今の自分は予言の書に依存している。それだけあの予言の書が的確だということだろう。
きっと今ヒロインが語った話も、次の三冊目が届けば、ちゃんと書いてあるはずだ……。
「夏樹の母が盗んだ機密情報は、嵯峨野重利という実業家の手に渡る」
嵯峨野重利……ここにきて、また嵯峨野重利か。
彼は元々、深草楓ルートで出て来る敵役だった。深草楓の父の会社を狙っていたはずだが、まさか紫野家までターゲットにしていたとは。
「どうしてそんなことまで知っているのですか?」
「それは夏樹のお母さんが、嵯峨野本人と話しているのを聞いたから」
「どういう経緯で?」
「私は別件で嵯峨野をマークしていたのよ」
その台詞でピンと来た――深草楓のためか。
ということは、住吉忍は深草楓ルートに乗ったのだろうか?
住吉忍が続ける。
「夏樹の母はこれまで新社屋に立ち入ることができなかった。夫から信用されていないからね。ところがパーティーが開かれる金曜なら、新社屋に入ることができる。計画はこうよ――嵯峨野が夏樹の父を呼び出しているあいだに、彼女が社長室に侵入して情報を盗む」
「あなたはそれに介入しないの?」
「初めはなんとかして止めるつもりでいた。でも今は、お節介を焼くつもりはない」
もどかしい。ヒロインのあなたが行動してくれれば、すべて上手く運ぶことが分かっているのに……。
けれど彼女はそうするつもりはないと言う。
「私がそれを頼んだとしても?」
勝手なようだが、そう尋ねずにはいられなかった。
想定していたよりも難しい事態で、自分の手には負えそうにない。
ビジネス上の影響を考えれば、紫野社長に打ち明けるのが一番良いのかもしれないが、それを信じてもらえる保証はどこにもない。証拠もないのに社長夫人を一方的に貶めることになるし、話の展開によっては、紫野氏の逆鱗に触れる可能性もある。
それに上手く運んでこの話を信じてもらえたとしても、まだやってもいない罪で、夏樹の母が断罪されるのは、果たして正しいのか。
当日までに思い直すかもしれない――けれど現時点で家族に彼女の裏切りを告げれば、その時点で更生の可能性を潰してしまう。
予言の書には、夏樹の母は最後の最後に改心して、家族の仲が修復されると書いてあった。
更生する未来を知っているのに、その芽を摘み取ってしまうことが、どうしても引っかかる。
そして夏樹にこれを打ち明けた場合、彼は母を絶対に許さないだろう。
まだ犯してもいない罪で、彼に母を憎ませてよいのだろうか?
分からない……夏樹に対して正直でいたいという気持ちと、彼の心を護りたいという気持ち。
どちらも彼を想うがゆえの気持ちなのに、どちらを優先させるかで、選ぶ行動は正反対になってしまう。
「悪いけれど、私が助けるのは無理よ。夏樹のために、そこまでする義理はないわ」
住吉忍に手助けを断られた。
「そうですか……」
しばらくのあいだ考えを巡らせ、綾乃は結論を出した。
やはり嘘はつけない。夏樹が何か隠しごとをしているせいで深く傷ついたし、今も前に進めずにいる。すべてが終わったら話してくれる約束になっているけれど――……この状態で、綾乃のほうがさらに多くの秘密を抱え込むのは苦しすぎる。ただでさえ予言の書について話せていないのに。
だから住吉忍に告げた。
「私、やっぱり……今の話は、夏樹にするべきだと思います」
「それはやめておいたほうが」
「どうしてですか?」
住吉忍がポケットからスマートフォンを取り出し、操作してからこちらに見せて来た。
それはホテルで密会している男女の写真だった。
ひとりは見覚えがある――夏樹の母、紫野惠理香だ。
もうひとりは四十代とおぼしき男性で、誰かは分からない。
「彼が嵯峨野重利よ」
「ああ、なんてこと……」
ふたりは男女の関係なのか。
考えてみるとそんなに不思議なことでもない。夏樹の母は初めて会った日も、行きずりの相手と火遊びをしようとしていた。幼い夏樹が見ているのに、平気な顔で男を誘っていたのだから。
住吉忍が綾乃を見据えて言う。
「こんな写真を見せておいてなんだけれど、惠理香さんは、ご主人にまだ愛情があると思う。だからああやって派手に遊んで、アピールしているのよ。私を見て、って。でも、これが明らかになれば……」
「修復の機会は永久に失われる」
……ああもう、どうすればいいの?
「紫野社長、今、お手伝いさんと良い仲になりかけてる。だけどそれだって、どう転がるかは分からない。夫婦のことなんて外からは絶対に分からないんだもの。だからお願い――惠理香さんに最後のチャンスをあげて」




