34.なんて可愛げのない女
「あたしね、ひょんなことから紫野夏樹の家庭の秘密を知ってしまったの。――それで、このままあたしが彼個人の問題に介入し続けるのは、よくないことだと思い始めて。彼を好きな、あなたに悪いし」
住吉忍の話から、綾乃はある気づきを得た。
綾乃はこれまでヒロインの心情というものを深く考えたことがなかった。
ヒロインは攻略対象四名の諸事情を知る立場にあり、彼らの心の機微を察する能力があり、困った人を放っておけないという愛情深い一面も持つ――ところがその身はひとつである。
つまり彼女は最終的に、誰かひとりに絞らなければならない。
その際にほかの三名を捨てることになるが、すでにその三名と関わってしまっているわけだから、これはなかなかつらいものがある。彼らは問題を抱えていて、住吉忍ならなんとかできるかもしれない――けれど彼女は全員を幸せにすることはできない。
これまでの綾乃はヒロインの気持ちなど考えず、都合良くルートを操作しようとすら考えていた。
ヒロインは攻略対象四名の誰とでも恋に落ちる可能性がある――つまり四名全員が『恋をしてもいい』と思えるタイプなのだから、彼ら全員といい感じになっても、まったく苦痛ではないのだろう、と。
けれど彼女はライバルである悪役令嬢に気を遣っているらしい。
夏樹のことを大切に想っているあなたを傷つけたくない、これ以上立ち入りたくない――住吉忍が言っていることは、そういうことだ。
その言い草が、綾乃の矜持を呼び覚ました。
彼女が火を点けたのだ。
いいでしょう――では、攻守交代よ。
あなたは確かになんでもできるし、私よりも賢い。けれど賢いがゆえに、俯瞰しすぎている。
人の感情はもっと泥臭いものでしょう? それなのに高みの見物を決め込むなんて、悪趣味もいいところだわ。
綾乃は背筋を伸ばし、悪役令嬢らしく冷ややかに、彼女の申し出を突っ撥ねてやった。
「もしかして、私に施しを与えるつもりですか? 私が夏樹のことを好きだから、それを取り上げたら可哀想だと思っています?」
「そんなこと言ってない! あたしは、ただ――」
「でも、突き詰めればそういうことでしょう? あなたは安易に夏樹の人生に踏み込んでしまった――けれど生涯のパートナーとして考えるほどには、彼のことを愛せそうになかった。だから持て余したわけですよね」
「ったく、なんて可愛げのない女なの……!」
住吉忍が小さく舌打ちをして、手のひらに額を埋める。
ええそうよ、私は可愛げのない女なの。そしてあなたは、こんな意固地な女から、唯一無二の存在を取り上げようとした。その罪深さをしっかり自覚すべきだわ。
そんなことをすればどんな目に遭うかなんて、少し考えれば分かったでしょうに。
――自分がなんでもできるから、上手く切り抜けられるとでも思った? 譲ってあげれば、感謝されるとでも思った?
あなたは賢いけれど、やはりとんだお馬鹿さんよ。ちょっかいをかけたからには、自分が傷つく覚悟で、もっと真剣に向き合いなさい。
「あなたは夏樹のことを、特別に思っていないのですか?」
綾乃が率直に問うと、住吉忍は混乱したように視線を彷徨わせた。
「……分からないわ。そんなの考えたこともない」
「恋愛感情は頭で考えるものじゃないでしょう。どうしようもなく好きか、そうではないか、そのどちらかしかない」
少なくとも綾乃はそうだ。夏樹を見ると、細胞のすべてが彼を求めているような、特別な高揚感に包まれる。
「私を責めないで……!」
住吉忍から余裕の仮面が剥がれた。
「本当に分からないのよ! 私はずっと周囲の都合に振り回されて生きてきたの! 自分自身をかえりみたことがないんだもの――自分の本当の気持ちなんて分からない。だからあなたのことを知った時、正直、ものすごく羨ましいと思った。私にないものをすべて持っているあなたが! ねぇ――私の気持ちがわかる? どうやっても、何をしても、あなたに敵わないと思うこの気持ちが!」
顔は歪み、赤みを帯びて、体裁も保てず声を荒げている。
もしかすると――現時点で彼女の感情を一番強く揺り起こしているのは、皮肉なことに、悪役令嬢である綾乃なのかもしれない。
攻略対象者よりも、敵役の綾乃のことを、ヒロインは強く意識している。
そして彼女が綾乃に対して抱いている羨望は、すべて反転して、綾乃が彼女に対して抱いている感情そのものなのだ。
なんという皮肉な構図だろう!
「それであなたはどうしたいのです?」
綾乃が発したその問いは、冷たく響いたかもしれない。
住吉忍は傷ついた顔でこちらを見つめた。
「私は……私はあなたたちの仲を裂くつもりはない。紫野夏樹の件からは手を引きたいと思っている。だけど放ってもおけないのよ――このままでは彼の家族はバラバラになってしまう。それは分かるでしょう?」
「ええ」
「だからあなたが私の代わりに、問題に立ち向かってくれないかしら。私の知っている情報を渡すから、彼の家族がバラバラになるのを止めてほしい……どう?」
手を引く条件は、綾乃がそれを引き継ぐことか。
心が揺れた。私だってできれば夏樹を助けたい。
けれど以前夏樹から、家族の問題には踏み込まないでほしいと言われている。
……どうしたらいいの?
膝の上で組み合わせた指に力が入る。今、とても難しい選択を迫られている。
「家族の問題に他人が口を出すのは、果たして正しいことなのかしら? 私には分かりません。あなたの知り得た情報は、夏樹本人に渡すべきじゃないかしら」
綾乃が迷いながら意見を述べると、
「私はそうは思わない。家族の問題ほど、自分では解決できないものなのよ。誰かが助けてあげないと」
住吉忍はきっぱりとそれを否定する。
綾乃は眉根を寄せた。
「他人なら解決できると、そうおっしゃるんですか? だけど助けてあげるって、傲慢な考え方ではありませんか」
「私は幼い頃、両親を事故で失い、親戚をたらい回しにされて育った。どん底だった。惨めで。どこにも居場所がなかったし、自分はお荷物なんだって思って生きてきた。今の私はだいぶ逞しくなったけれど、昔はずっと臆病だったのよ――……真っ暗な長いトンネルの中を歩いているみたいだった。出口があるのかさえ分からなくて……その時の私はずっとこう願い続けていた。誰でもいいから私を助けて、って」
「誰かが助けてくれたのですか?」
「ええ、今の養父母が」
住吉忍は口の右端を上げて、いつもの食えない笑顔を浮かべる。
彼女はこの顔が一番チャーミングだと思う。心の柔らかい部分を隠して、したたかに生きているから、こんなにも魅力的に映るのだろうか。
攻撃的だった綾乃の気持ちが和らいでいく。
こちらの変化を見て取ったのか、彼女は苦笑を浮かべて続けた。
「養父母に保護されて、私は強くなれた。目標も持てるようになったし、色々なことに立ち向かえる、知恵や勇気も持てるようになった。だからね――これは私の持論なのだけれど、人生で一番つらい時は、自分ひとりで頑張る必要なんて全然なくて、ほかの誰かに丸投げして、解決してもらったっていいと思う。完全無欠な人間なんていないの、弱っている時は誰かに縋りたくもなる。それで上手く助けてもらえたら、次は自分の力で頑張ればいい。全部自分で解決していたら、人は疲れてしまうもの」
彼女の考え方は、綾乃にはないものだった。
だから迷いが生まれる――一理あるかもしれないと。
どちらにせよ、今すぐ答えが出せないなら、取るべき行動はひとつだ。
「分かりました。まだ自分がどうすべきか決められないけれど、あなたが知っている情報を教えてください」
 




