29.ヒカルと紙飛行機
あれからずっと綾乃は夏樹を避け続けている。
電話がかかって来ても無視したし、学園ではうっかり鉢合わせしないように、細心の注意を払った。
こういう時は、同じクラスじゃないので助かる。
お昼休みになり、綾乃は空き教室に入り込み、窓際の席に腰を下ろした。
ひとりぼっちでいると、気持ちが落ち着く。
カバンを持ってきたので、ふと思いついて、中から上質紙を一枚取り出した。それを丁寧に折り畳んで、紙飛行機を作る。
――できた。
椅子から腰を上げ、窓を開ける。風が吹き込んで、髪を乱した。
窓枠に左手を突き、右手で紙飛行機を構え――タイミングを見計らって、それを飛ばす。
初めは真っ直ぐに飛び始めたそれは、すぐに大きく曲がり、きりもみ状態で落ちて行った。
綾乃は無表情にそのさまを眺めていた。心が鈍くなっているような感じがする。
ふたたび席に着いて、淡々とふたつ目を折り、立ち上がって、それを飛ばす。
ふたつ目で距離が伸びることもなく、先ほどと同じように落ちて行った。
そして、三つ目の紙飛行機は、前のふたつとは違う運命を辿ることとなった。
旋回し落下を始めたところまでが一緒で、地面に落ちる前に、それをキャッチした人がいたのだ。
――なんと、久我ヒカルだ。
このところ妙に縁がある人物である。予言の書によると攻略対象者のひとりで、中性的な美しい顔を持つ、同じ学年の男子生徒。
元々「君の顔が好き」と言われて付きまとわれていたのだけれど、少し前に彼にエスコートされてプレ・パーティーに出席したこともあり、少しだけ距離が近づいた。
けれど現状は『友達未満』みたいな感じで、親しいとはいえない間柄なのだけれど……。
ヒカルが紙飛行機片手にこちらを見上げ、ブンブン手を振っている。
……なんなのかしら。
数分後、教室の扉が開いてヒカルが入って来た。
「ねぇ綾乃――お姉さんとデートさせて」
呆れた……開口一番、言うことがそれ?
綾乃は椅子の上で体の向きを変え、近づいて来るヒカルに向き合った。ゆったりと足を組み、さらに腕も組んで、圧をかけながらヒカルを見つめる。
傷心し、ひとりになりたくてここにいるのに……放っておいてくださらない?
「――ヒカル」
精一杯怖い声を出すのだが、
「何かな――あ、後ろ、失礼するね」
ヒカルはまるで気に留めた様子もなく、綾乃のひとつ後ろの席に腰かけた。
ふたりとも窓のほうに背を向けて座る形で、前後席ではあるけれど、机をひとつあいだに挟んで、お隣同士みたいな並びになっている。
しかしこの男――同席の許可を取っているようで、実は取っていないというのが、何気にすごい。「後ろ、失礼するね」と、単に自分の意志を伝えただけで、こちらは「イエス」と言っていないのだ――それなのに先の声かけにより、礼儀は果たした感じになっている。
そう見えないから皆は騙されているけれど、ヒカルの押しの強さは、実は学園一じゃないかと思うことがある。
ヒカルがニコニコ笑ってこちらの顔を見つめてくるので、綾乃は苛々してしまった。
「一応確認しておきたいのですが……あなたは私をストーカーしていらっしゃいます?」
「してないよー。したいけど」
「じゃあ、さっき紙飛行機をキャッチしたのは、ただの偶然ですのね?」
「綾乃――偶然なんてものは、世の中にはないんだよ。すべては運命なんだ」
電波発言は面倒なので流すことにする。
「とにかくストーカーではないということですね? 外を散歩していたら、たまたま私の飛ばした紙飛行機に気づいた、と」
綾乃がしつこく確認すると、ヒカルは片眉を上げて説明を始めた。
「実はだね――綾乃に用があり、まず七美を捕まえた。そしたら彼女、『行き先は知らない』ってしらばっくれるもんだから、『お昼休み中、君にずっと付きまとうけど、それでいい?』って提案してみたの。途端に彼女は協力的になってね――『綾乃はたぶん別館三階の空き教室じゃないかしら』と教えてくれたんだ。僕は本館から外に出て、こちらに向かった。その途中で、紙飛行機が窓から落ちて来るのに気づいたってわけ」
「はい、アウトです――世間ではそれをストーカーと呼びます」
要約すれば、結構なしつこさで探し回ったということじゃないの。
七美がヒカルのことを苦手に思っているのを逆手に取り、『知っていることを言わなきゃ、付きまとうぞ』と脅して、情報を引き出す。なんて悪辣な手口なのかしら。
綾乃が怒っているのに気づいているはずなのに、ヒカルは我関せずで、手に持っていた紙飛行機を机の上に置き、一旦開いてから折り直し始めた。
……というか、外で拾ったあれを持って来たのね。
綾乃は一番シンプルな折り方をしていたのだが、ヒカルの作り方はかなり複雑だ。
「……そのほうが飛びますの?」
眺めているうちに綾乃の機嫌も直り、見入ってしまう。
「航空力学的には」
ヒカルの指はピアニストみたいに綺麗だった。その指が繊細に動いて紙を折り、気づいた時には、ニュータイプの紙飛行機が彼の手のひらに載せられていた。
「――いくよ」
ヒカルは窓から上半身を乗り出すようにして、白い紙飛行機を空に放った。
「わぁ……!」
綾乃も窓から身を乗り出して思わず歓声を上げた。
紙飛行機は滑空するツバメのように飛んで行く。どこまでも進み続けそうだと期待してしまうほどに、真っ直ぐ。
綾乃は振り返り、はしゃいだ声でヒカルに話しかけた。
「見て――鳥みたいに飛んでいる!」
こちらを見返すヒカルの瞳が、陽光を反射してキラキラ輝いていた。
「どこまで飛ぶかな」
「きっと、敷地の外まで――……」
「それは無理かも」
そうかしら? でも、風が上向きに吹いたら?
ワクワクしながら紙飛行機の行方を見守る。
初め順調だったそれは、急に高度を落とした。もしかすると綾乃が先に折り目をつけていたせいで変な癖がつき、重心が狂ったのかもしれない。
それがフワリと地面に着地した時、綾乃はため息を漏らしていた。
「頑張りましたわね。すごかったです」
ヒカルのほうを向くと、彼はこちらを見ていた。
……いつから見ていたのかしら? 飛行機が落ちてから? それとも、飛んでいる最中も?
「元気が出たみたいで、よかった」
今日のヒカルはなんだか優しい。
だからだろうか……綾乃は彼を旧知の友人のように錯覚してしまい、警戒心を解いて、彼に本心を告げていた。
「私……限界を感じているところですの」
「らしくないね」
「らしくない、ってなんですか? あなたは私のことを、よく知らないじゃない」
ヒカルは少し困った顔になり、考えを巡らせてから口を開いた。
「そうかもしれない。だけどこう思う――ひとりで抱え込んで悩んでいるより、伝えるべき相手に全部吐き出したほうが、ずっとマシだよ。それとも君は、夏樹が何かを与えてくれるのを、ただひたすら待つ気なの? けれど待ち続けても、結局何も与えられなかったら? 今の君が抱えている、その溢れそうな感情を、すべて墓場まで持って行くつもり?」
この苦しい気持ちを、死ぬまでずっと抱えて? ――それはひどく滑稽なことのように思えた。
夏樹を好きな気持ちに、恥じるべきことなど何ひとつないのに。
思いを伝えて、それで手ひどく振られたとして、何か問題がある?
たとえこの思いが報われないとしても。夏樹に何か秘密があるとしても。
こちらから気持ちを伝えることは、自由なはずだわ。
「確かにそうですね。まだ、すべきことが残っている。結果は分からないけれど、私らしく、きちんと決着をつけます」
「その意気だよ。玉砕したら、僕が面倒をみてあげる」
綾乃はヒカルに対し、心からの笑みを向けた。
「ありがとう、ヒカル。そうだ――お姉様にあなたとデートする気があるか、訊いておきます。上手くいくといいですわね」
ヒカルは苦笑を浮かべ、右手を挙げて「どうも、ご親切に」と答えた。




