28.仮面舞踏会
新入生歓迎会の後夜祭に当たる『ポスト・パーティー』は、生徒主催のお祭りである。
毎年このパーティーは羽目を外す傾向にあるので、当然、生徒の出席率も高まる。
これを大成功させた幹事は以降、学園での権威が高まると言われているくらい、生徒たちも注目しているイベントなのだ。
――ホテルの車止めには次々に高級車が乗りつけ、若い男女を降ろして行く。
タクシーで乗りつける者もちらほらおり、そちらは自家用車組に比べて、ファッションもカジュアルめだ。
久我ヒカルが仕切る今回のイベントのテーマは、『仮面舞踏会』。
仮面舞踏会といっても、クラシックなワルツを踊るわけではない。
会場にはクラブミュージックが流れていて、踊りたい者は適当に体を動かしている。
会場は薄暗いエリアと、ゴールドとシルバーの煌びやかな電飾飾りのあるエリアが上手く組み合わされていて、混沌としながらも洗練されていた。
青やピンク、黄色のドリンクが飛ぶようにはけていく。中身はもちろんノンアルコールだ。
現地に着いた綾乃は藤森七美にメッセージを送り、自分の居場所を伝えた。
待っているあいだに会場を見回していると、特徴的な緑のドレスを着た女性が視界に入った。
――後姿しか見えないが、なんだか妙に気になる。
後ろ身頃は背中の上半分がかなり露出しており、大きなリボンが二箇所――首の後ろと、肩甲骨の下とで結ばれているのだが、その隙間が大胆に開いているという面白いデザインだ。スカート部分はエンパイアラインで優美に広がり、つま先まで隠れていた。
下手をすると野暮ったくなりそうな、着る者を選ぶドレスなのに、あれだけ美しく着こなすというのは、ただ者ではない。前から見てみないと完成度は分からないが、少なくともバックラインは完璧に近かった。
視線で追うが、謎の女は人混みに紛れてどこかへ消えてしまった。
「――今夜のドレス、決まってるわね」
聞き慣れた声がして振り返ると、七美が綾乃を見つけて歩み寄って来た。
「ありがとう。――あなたも素敵」
綾乃は七美の姿を眺め、感嘆の笑みを浮かべた。
青地に紺の刺繍が入ったドレスは、オフショルダーで両肩が出ており、体のラインを強調するデザインだ。かなりのミニ丈で、健康的なふくらはぎがドレスをより魅力的に見せている。
「これ、谷間がポイントね」
七美は自分の胸元を指差して、澄まし顔で言ってのけた。確かにそのとおりで、デコルテが大きく露出しているので、胸元のボリュームが強調されている。
彼女は羽飾りのついた黒い仮面をつけているが、顔を隠していても、これでは胸を見ただけで、一体誰なのか判別がつきそう……。
「そういえば」
ドリンクを手配し、カウンターに寄りかかりながら七美が口を開く。
「あのね、さっき、あなたのダーリンらしき男と、ヒロインの住吉忍らしき女が喋っているのを見かけたけれど」
それを聞き、綾乃は思わず眉根を寄せる。
「そんなわけない」
「……そうね、見間違いかも。皆、仮面をつけているし、はっきりしないものね」
確信がないのか、あるいは関心がないのか、七美はあっさりと引き下がった。
綾乃は少し落ち込みながら考える――夏樹と住吉忍が喋っていたと聞いて、私はどうして「そんなわけない」なんて言ったのだろう?
あってもおかしくないことなのに。
だってあのふたりは乙女ゲームのヒーローとヒロインで、互いに惹かれ合う運命なのだから。運命なら、仮面をつけていても、人混みに紛れていても、あのふたりは絶対に出会う……。
ぼんやりと考えを巡らせていると、不意に会場の照明が落ちた。
蝋燭がいくつか灯されているおかげで、完全な闇というわけではないが、ほとんど視界が利かない。
会場の隅などは、もっと暗そうだ。
「これ、何かの趣向? ――照明が落ちたら、隣の人とキス、とか」
隣で七美の声がする。
「どうかしら」
事前に告知されていないし、それはないんじゃないかしら?
もしも本当にキスイベントをする気なら、『参加したくない人は、事前にこちらのエリアへ移動を』のように、回避策を用意しておかないと苦情が出る。
音楽は止まっていないので、照明が落ちたのは事故なのか、イベントの一環なのか、判然としない。
……これ、なんなの? 会場にざわめきが広がる。
しかし本格的に不安を感じる前に照明が復活した。特にアナウンスもないので、電気系統の不具合かもしれない。
辺りを見回していた七美は何かを発見したらしく、狩人のような目つきになった。少し前かがみになり、呟きを漏らす。
「あら……あそこに山ノ内小百合がいるじゃない。あの子、春休みに鼻をお直ししたらしいのよ。他人がお直ししたら、たとえホクロの除去でも辛辣なことを言うくせに、あの女、まさか自分がやるとはね」
「他人のことをけなすのは、コンプレックスが強いからじゃない?」
行動的に、何も矛盾はないように思えるけれど。
大抵の人はドライだから、取るに足らないものに対しては、けなす労力すら惜しむ。だからわざわざけなしている時点で、いじめっ子にとっては、そこに歪んだこだわりがあるのだろう――山ノ内小百合の場合は、それが『美』にまつわることなのかも。彼女は自分を『美しくない』と思っているから、その言葉がそのまま他者をけなす際に出てくる。
綾乃の冷めた見解を聞き、七美の顔つきが邪悪になる。
「悪口の原理はどうでもいいのよ。私はね――山ノ内小百合みたいに、他人に恥をかかせて喜んでいるいじめっ子を、こっそりいじめ返すというボランティア活動を続けているの」
「どんな活動よ? 真面目にボランティア活動を頑張っている人に、謝ったほうがいいわ」
「心外ね、私の行動だって、立派な社会奉仕でしょ! 世直しの一環よ」
「それって、あなたが新しいいじめっ子になっているような……」
「相手は手下を煽って大勢でいじめをやるけど、私は一匹狼でそういうクソどもと戦っているんだから、全然違うし」
そんなことをしていたら、いつか刺されるわよ……若干引いている綾乃に対し、七美の顔つきは悪魔そのもの。
「ああいう連中は『パブロフの犬』方式で躾をしてやらないと」
「どういう意味?」
「意地悪をしたら、なぜか痛い目に遭った――これが何度も繰り返されると、ふたつの事象を関連づけて覚えるようになる。するとそのうちに恐怖が体に刻み込まれて、意地悪をしなくなる」
やだ……すごく無茶苦茶な理論。綾乃は呆れ果てた。
鬱憤がたまって意地悪をしているわけだから、その『パブロフの犬』方式とやらで痛い目に遭わせ続けると、さらに鬱憤がたまって邪悪にならないかしら?
七美がしている行為は世直しなんかじゃなくて、反対に、地獄の門を開け放っているだけなのでは?
ところが七美は謎の使命感に燃えているようで、椅子からサッと腰を上げた。
「山ノ内小百合のお直しをからかってやらなくちゃ――私、ちょっと行ってくるわ」
お義理程度に右手を軽く振って別れの挨拶をし、七美はどこかへ突進して行った。
ひとりになった綾乃は、正直なところ、山ノ内小百合の些細なお直しなんてどうでもいいと考えていた。彼女の鼻の変化よりも、夏樹とヒロインの動向のほうが気になる。
そうだ――彼を探そう。
カウンターから離れ、会場の人混みのあいだを縫うように進んでいると、突然後ろからグイと手を引かれた。
「――住吉忍」
呼びかけられた名前は「住吉忍」――悪役令嬢が、ヒロインと間違われるなんて!
弾かれたように振り返る。
綾乃は内心驚愕していた。息が止まるほどに驚いたのは、人違いされたことだけが原因ではない。呼びかけてきた声に聞き覚えがあったからだ。
「……夏樹」
綾乃の口から小さな呟きが漏れる。
綾乃は婚約者と間近で対面していた。
黒のフォーマルなジャケットに、右目を覆う黒とシルバーの精巧な仮面を着けた夏樹。
彼はなぜか薄青の封筒を手にしていた。この封筒……以前にも彼が持っているのを見たような気がする。
こんな形で夏樹彼と対面して、綾乃は衝撃を受けていた。
そして不意を突かれているのは、彼のほうも同様だった。
もしかすると振り向いたら私で、がっかりしたのだろうか……そんな考えが浮かび、綾乃は傷ついた。
「私……住吉忍さんじゃない」
「違うんだ、これは……」
何が違うの?
不信感を滲ませて彼を見つめていると、彼の後ろから住吉忍がやって来た。
彼女の仮面はかなり簡素で、レース飾りに等しかったので、すぐに住吉忍その人だと分かった。
こちらと似たようなドレスを着ている。ただし丈はもっと長めで、シルエットはふんわりしたプリンセスラインに近い。
綾乃の着ているドレスはフレアスカートで、前がミニだが後ろはかなり長いので、後ろから接近した夏樹は、それが原因でふたりを間違えたのかもしれない。
そういえば住吉忍はもともと髪の長さがミディアムボブであったから、ヘアスタイルに関しては、綾乃のほうが彼女に寄せてしまったようである。
……それにしても。
六歳からずっとそばにいた婚約者に対して、違う女性の名前で呼びかけるなんて。
その事実はとんでもないショックを綾乃に与えた。
過去に色々あったけれど、それでも彼を信じて待とう――そう思えたのは、積み重ねてきたふたりの歴史があったからだ。
子供の頃は、彼がこちらを見る目に特別な親密さがあった。その記憶だけが綾乃の支えだった。
今は試練の時だが、あれだけ密度の濃い時間を共に過ごしたのだから、きっとまた戻れるはずだと。
それは自信というよりも、願望に近いものだった。それでも恋する人間が縋るには十分すぎる根拠だったのだ。
……けれど彼にとって、私は特別なんかじゃなくて、ほかの誰かと見間違う程度の存在なのね……それは綾乃を徹底的に打ちのめした。
潰れそうなほどに、胸が痛む。
綾乃が見ている先で、住吉忍が夏樹の腕を引き、彼の耳元で囁いた。
「――ちょっと来て、大事な話があるの」
「今は遠慮してくれないか」
夏樹が少し声を荒げても、彼女は手を離さない。
それどころかさらに彼の耳元に顔を寄せ、今度はこちらに聞こえない小声で何か告げる。
ふたりの視線が絡んだ――見つめ合うだけで、たくさんの言葉をやり取りしているみたいだった。
やがて夏樹がこちらに向き直って言う。
「――綾乃、あとでちゃんと話そう」
「あとで? 今は彼女を選ぶの?」
カッとなって、反射的に言い返していた。
いけない――どうしてこんなことを。
絶対に言ってはいけない台詞を、自ら口にしてしまったことに気づく。
彼にどちらかを選ばせてはだめ。だって、そんなことをしたら……。
夏樹は瞳を揺らしてこちらを見つめたあとで、
「……ごめん。今は彼女と話がある」
綾乃にとってそれは、最後通牒にほかならなかった。『僕は彼女を選ぶよ』――そう聞こえた。
綾乃は返事をせず、踵を返した。
予言の書に勇気づけられて、自分はやれるのだと勘違いしていた。
……ヒロインを完膚なきまでにやっつける、ですって?
どうやって? これじゃ負けっぱなしじゃないの。勝てるビジョンが見えない。
涙が頬を伝う。
家の車を探すのも億劫で、客待ちをしていたタクシーに飛び込んだ。
硬い声で自宅の場所を伝えてから、背もたれに寄りかかる。
流れ去る景色を眺めているうちに、涙が次から次へとこぼれ落ちた。




