26.私たちがずっと誤魔化してきたこと
「どういうこと、とは……?」
時間稼ぎのような問いを返していた。
そもそも綾乃が元町悠生と顔見知りになったのは、予言の書がきっかけだ。あれを読んで彼の動向を調べようと思い立ち、関わることになった。
けれど夏樹にすべてを話すわけにはいかない。
予言の書のくだりは省くしかないから、辻褄が合うように、何か上手い説明を考えないと……。
でも待って……それは夏樹を騙すってことよね? いつから彼に平気で隠しごとをするようになってしまったのだろう?
今この瞬間、彼に手を握られているけれど――物理的な距離は近くても、心はこんなにも遠い。
これはこちらに問題があるの? すべてを正直に打ち明けたら、この溝は埋まるの? ……本当に?
「元町悠生とふたりきりで過ごしていた理由を教えてほしい」
「それは……私……来年、希望のゼミに入れないかもしれなくて。一橋亜季奈が在籍権の譲渡を拒否したせいなのですが、その件で元町悠生があいだに入ってもいいと言ってきました」
「先日、僕は訊いたはずだ――困っていることはないかと。誰かに何かを強要されているなら、相談してほしかった」
あれはこのことを指していたのか。ゼミの在籍権について、夏樹はあの時点で、なんらかの情報を掴んでいたのかもしれない。
けれどあの質問をされた時は、まだ元町悠生から話を持ちかけられていなかった。
あとで夏樹に相談することはできたけれど、正直なところ、そこまで困った事態であるとは考えていなかったのだ。
「私、自分で解決できると思ったのです」
「それでデートしたわけだ」
「デートというか、ランチミーティングです」
あくまでゼミの在籍権について話し合う場だと、こちらは考えていた。
「あれがミーティング? どこが? あの男は君をあんな目で見ていたのに」
なじるような口調。
綾乃は恥じ入り、思わず目を伏せてしまう。
考えてみると、もしも立場が逆で、夏樹が別の女性とふたりきりでランチをしていたら、とても嫌な気持ちになっただろう。
彼に対して失礼なことをしてしまったのかもしれない。
――と、そんなことを考えながら、同時に別の思いも湧き上がってくる。
だけど、おかしくないかしら? 『彼に対して失礼』というのは、相思相愛の場合よね? 我々の場合は、少し違うのではないかしら?
こちらは彼に心のすべてを捧げてきた。愛情と、誠意を。
けれど彼は? 彼はずっと冷たかった。それなのにこの場面では、ほかの男子生徒と一緒にランチをしたことを、裏切り行為だと叱責するの?
そもそも、そうだわ――彼が何に腹を立てているのか、まだはっきりしていない。
もしかすると夏樹は元町悠生と何か因縁があるのかもしれない。敵対している男と婚約者である綾乃が同席するのは困る――単に、そういうことなのかも。
「――あんな目で見ていたって、何?」
綾乃は顔を上げ、夏樹としっかり視線を合わせた。
綾乃の瞳には強い意志が込められている。
けれどそれは夏樹も同じだった。
「本当に理解できていないのなら、鈍感にもほどがある。相手が視線で君を求めていることに、まるで気づかなかったと言うのか?」
「そんなの――気づくわけないじゃない! あなたが私にそれを教えないのだから!」
何かが爆発しそうだった。
どうして私を責めるの? そんなの知らない、知らない……!
「綾乃――」
「あなたは私にずっと無関心だった。あなたが私を無視するから、私を愛さないから、私は子供のままなのよ。そのことで、あなたが文句を言う筋合いなんてない」
「無関心なんかじゃない。君は僕のすべてだ」
「それは嘘よ――あなたは長いあいだ私によそよそしかったし、ずっと何かを隠している。私はふたりの問題から目を逸らしてきた。でも分かったの――私たちに問題があるとするなら、それは互いに嘘ばかりついているせいだと思う。あなたの隠している秘密はなんなの? たとえそれが私にとってつらいことでも、ちゃんとあなたの口から聞きたいし、受け止めたい。もう嘘はたくさんなの」
視界が歪んだと思ったら、涙がこぼれ落ちた。
吐き出してしまえば、気が楽になった。
……ずっと何に怯えていたのだろう? 目を逸らし続けているほうが、何倍もつらいのに。
もしも夏樹がほかの女性に惹かれつつあるなら、そう言ってほしい。
私はやっぱり夏樹が好きだ――彼に嫌われていても、それは関係ない。この気持ちはたぶん一生変わらないと思う。
けれど同時に、綾乃は自分自身のことも好きなのだ。自分らしくあることを曲げられない。
彼に好かれるために、正反対の性格に変わることはできない。
自分を偽ることしか修復の可能性がないのなら、ふたりに未来はないのだろう。
いい加減、その事実を受け止めなければならない。
夏樹が手を伸ばしてきた。綾乃の頬に手のひらを当て、親指の腹で涙の痕を拭う。
それは壊れものに触れるような慎重な手つきだった。
彼はこちらの瞳を覗き込み、先ほどとは打って変わった、穏やかな声で語りかけてきた。
「事情があって、今は詳しい話ができないんだ。でも……君に聞いてほしい話がある。すべてが片づいたら、きちんと話すから、しばらく待ってほしい」
不思議ね……ふたりのあいだにあった見えない壁が消えて、まるで昔に戻れたような感じがした。
ずっと欲しかった台詞を言ってもらえたわけじゃない――このとおり問題は先送りだし、何も解決していない。
けれど先ほどの言葉に嘘はないと思えたから――待ってほしいと彼が言うなら、待ちたい。
「……約束ですね」
柔らかに微笑むと、夏樹が心底ホッとしたような顔になった。
彼がこんな表情を浮かべるのはかなり珍しかったし、それを見せてくれたことが嬉しくて、胸が温かくなる。
「……約束だ」
そういえば、ちゃんとした喧嘩をしたのは初めてかもしれない。
ふたり視線を絡ませたまま、幸福な気持ちで微笑みを交わす。
彼の指が綾乃の頬を撫でる。綾乃は自分の手を持ち上げ、彼の手に重ねようとして――……
「ねえ、おふたりさん。お昼休みはもう終わっているわよ」
突然声をかけられ、驚いて視線を巡らせると、テーブルの向こう側に藤森七美が立っていた。卓上に両手をつき、こちらをじっと見据えている。
途端に夏樹の機嫌が急降下。
「少しは空気を読むとか、できないのか」
「冗談じゃないわよ! ふたりが痴話喧嘩を始めた時、近くにいた野次馬たちをこっそり追い払ってあげたのは、誰だと思っているのよ? 公共の場でふたりの世界に浸るのも、大概になさいよ」
「僕は別に、誰に何を見られても困らない」
「は――笑わせないで」
七美は鼻で笑い、椅子を引いて対面の席に腰かけると、綾乃のトレイからショコラムースを取り上げ、フォークで掬って口に入れた。
ゆっくり舌で味わっているのか、喉を撫でられた猫のように瞳が細まっている。
「ええと、七美……なんか怒っている?」
綾乃は違和感を覚えた。
七美はいつも何かに怒っているけれど、悪態をついている時は、実はそんなに本気じゃない。本当に腹を立てている時は、かえって大人しくなるのだ――そう、今みたいに。
七美は瞳をすがめたまま綾乃を見つめ、次に夏樹へと視線を移した。
「私はね、紫野夏樹――あんたにマジで腹を立てている。どうしてだか分かる? それはあんたが、綾乃をつまらない女みたいに扱っているからよ。私から見て綾乃はね、この世界で二番目にいい女なの。ああ、ちなみに一番はこの私だけどね。とにかく――あんたは究極にいい女を粗末に扱っている、大馬鹿者よ。だから私はあんたを許さない」
「それは僕と綾乃の問題で、君には関係ないはずだ」
「そうかもね。でも私の心の問題は、あんたには関係ないでしょ。あんたを嫌う権利が私にはある」
七美は苛立った様子でショコラムースを切り分けながら、夏樹を忌々しげに睨んだ。
「でも、ま――綾乃が許すって言うなら、私もあなたを許すことにする。やっぱり嫌いだけどね」
「……そのショコラムースをやるから、お願いだから今はふたりにしてくれないか」
「そ・れ・は・い・や」
頬杖を突き行儀悪くデザートを食べながら、憎まれ口を叩く七美。
そんな彼女を見ているうちに、綾乃は些細なことがどうでもよくなり、ホッとした笑みを浮かべていた。




