25.おかしなランチ
元町悠生はすでに着席して待っていた。
トレイの上を見ると、シーフードのパスタに、サラダ、コーヒー……それから、え、やだ、デザートまで?
組み合わせも完璧だし、どれも美味しそう……本当は今日、パスタの気分でしたの。
内心悔しい思いでいっぱいだったが、お蕎麦も美味しそうだからと、気持ちを切り替える。
この葛藤は絶対に相手に悟られてはならない――綾乃は澄まし顔で着席した。
「お待たせしました」
「……また色気のないものを」
ぼそりと呟く声が聞こえてきて、思わず口元が緩む。
やったわ、作戦どおり。
上機嫌になって対面席を見遣ると、元町悠生が毒気を抜かれたような顔でこちらを見つめてきた。
「――さあ、冷めないうちに、いただきましょう」
お料理はベストな状態でいただくのが、作ってくださった方への礼儀ですものね。
ああ、そうそう……麺を食べる時って、髪を下ろしっぱなしだと邪魔なのよね。
食卓で髪をいじるのは行儀が悪いけれど、仕方ない。髪を後ろでひとつにまとめ、右手にはめていたゴムでとめる。……はぁ、すっきり。
注文する時にお蕎麦の種類で迷ったのだけれど、温かい天ぷら蕎麦にしてみた。
海老が大きくて見栄えがするわ。汁に浸かっていない部分の衣はパリッと、浸かっている部分はおだしが染みていて、なんて素敵な光景なのかしら。
椅子に座り直して、
「いただきます」
と言ってから、箸を手に取り、蕎麦をすする。
わぁ、美味しいー!
ところで食堂って割り箸を使わないのね……それを今日初めて知った綾乃。ここで使われているのは、黒いプラスチック製の丈夫そうなお箸だった。洗ってまた使うのだろう。エコよね。
しばらくは食事に専念することに。
「おい……! 食べてばかりいないで、何か喋ったらどうなんだ」
対面から呆れ声がしたので顔を上げると、驚いたことに、元町悠生はまだ食事に手をつけていないではないか。
綾乃は箸を揃えて置き、ハンカチで口元を拭ってから、やっと返事を口にした。
「どうしてあなたは召し上がらないのですか?」
「あのな、お前――普通はいきなり食べ始めないだろ? こういう時は会話を楽しむのもマナーだ」
「口にものが入っている時には喋らない――そういう教育を受けております」
「だったら口にものを入れなきゃいいだろうが。箸はしばらく持つな」
食事をする場で、口にものを入れるなとは、これいかに?
引っかけクイズか何かですか? けれど私、あなたとゲームをするつもりはないのですが……。
「馬鹿をおっしゃらないで――私のメニューをよくご覧になってください。温かいお蕎麦ですよ? 箸を置いたまま悠長にお喋りなどしていたら、麺がのびてしまいます」
「そもそもの話、なんで温かい蕎麦なんか選んだんだよ! せめて冷たい蕎麦にしろよ!」
その言いがかりに絶句し、しばし動きが止まってしまう。
綾乃が突然フリーズしたのに驚いたのか、相手は眉を顰めて、こちらの様子を窺いながら慎重に口を開いた。
「おい……なんだよ、何か言えよ」
「いえ、だって……なんで温かい蕎麦なんか選んだんだよ……なんて言うものだから」
お蕎麦の温かさ、冷たさが原因で発生する喧嘩ってあるのですね。
ていうか、そもそも――温かい蕎麦を選ぶなって、どういうことですか? 冷たいせいろ蕎麦だったなら、なんの問題なかったとおっしゃる?
右の頬がピクピクと引きつっているのが、自分でも分かった。
だめよ綾乃――笑っちゃだめ。この男の前で、素で笑ったりしたら、絶対になめられるわ。嘲笑するような笑みならいいけれど、吹き出す系の笑い方をしてはだめ。
だからもう考えないほうがいいのに……でも……!
「せめて冷たい蕎麦にしろよ……?」
どうしてもその部分がツボにはまり、実際に言葉に出してみたら、声が震えてしまった。
もう、だめ……! せめて冷たい蕎麦にしろって、なんですの?
俯いて額を押さえ、肩を震わせていると、対面からオロオロした言葉が聞こえて来た。
「おい……? お前、まさか……泣いていないよな?」
あのね……泣くわけないでしょ!
どうして蕎麦の温かい冷たい論争で、泣かなければならないのですか!
もうこれがトドメだった。とうとう綾乃はお腹を抱えて笑い出してしまった。
気が済むまで散々笑い、目尻にたまった涙を指で拭いながら口を開く。
「ああ、可笑しい……お腹が痛いですわ……あの、とりあえず食べませんか? パスタが冷めますわよ」
「……そうだな」
脱力した様子で素直に同意した元町悠生は、この男でもこんな顔をするのねと不思議になるくらいの、穏やかな気配を漂わせている。
もしかすると、『先日やられた恨みをどう晴らしてくれようか』と肩肘張っていたところに、綾乃が先に笑い出して緊張感を台なしにしたので、怒りが持続しなくなったのかもしれない。
ふたりはしばらくのあいだ黙って食べることに専念した。そして結局、綾乃のほうが先に食べ終えてしまった。
それはまあ当然だろう。あちらが一口も手をつけてない段階で、綾乃はお蕎麦の半分以上を食べ終えていたのだから。
そっと箸を置くと、元町悠生が絶妙なタイミングでデザートプレートを手に取り、こちらのトレイに移した。
「これをやる。女子はデザートが好きだろ」
ひとつしかないデザートを、くれるですって?
ふ、ふん……こんなことで私は懐柔されなくってよ。
内心強がるものの、体は正直なもので、不覚にも頬が緩んでしまった。そして笑んでしまうと、強がる気も失せる。
「ありがとうございます。美味しそうですわね」
ショコラムースかしら……表面は艶やかに煌めくコーティングが施されている。
目を輝かせてプレートを眺めていると、
「……紫野夏樹の前でも、そんな顔で笑うのか」
そんなふうに言われて、思わず顔を上げた。
真顔の元町悠生がこちらを真っ直ぐに見ている。
視線が絡んだ。
一体、何を――……
空気が変わったのが分かった。元町悠生の瞳に、焦りと苛立ちが浮かんでいる。そしてたぶん、不思議な熱も。
綾乃は戸惑いを覚え、相手を見返すのが精一杯。
なんともいえない居心地の悪さ――相手の強い感情に引きずられて、暗い場所に迷い込んでしまったような気分だった。
「何を、言って……」
綾乃が混乱しながら呟きを漏らした、その時。
「――大きなお世話だ」
冷ややかな声が割って入った。
驚いて視線を横に向けると、夏樹が歩み寄って来るのが見えた。
え、夏樹、どうしてここに……?
彼は元町悠生を注視しており、面白くもないという顔で続ける。
「彼女は僕の前ではよく泣くが、あんたには関係ない」
夏樹はゆっくりと元町悠生のそばに近づき、耳元に何か囁きかけてから体を起こした。
――元町悠生の顔に驚きが広がる。
ふたりはしばし無言で見つめ合っていたのだが、先に視線を逸らしたのは、元町悠生のほうだった。
無言でトレイを持ち上げ、席を立ってしまう。
綾乃が言葉もなくそれを眺めていると、夏樹がテーブルを迂回してこちらに向かって来た。
無言のまま隣の椅子を引き、そこに腰かける。
夏樹が手を伸ばしてきた。彼に手を握られ、引き寄せられた綾乃は、椅子の上で少し体が滑った。
強制的に彼のほうを向かされ、膝と膝が接触してしまう。
「――これはどういうこと?」
夏樹の問いは端的で、苛立っているというよりも、余裕を失っているように感じられた。




