24.食堂のルールは難しい
元町悠生とのランチは、『現地集合』『現地解散』ということにさせてもらった。
あの男と並んで歩きながら、「今日のおすすめは何かしら?」というような会話を交わしたくなかったからだ。
元町悠生からは、「東の窓際、一番良い席を取っておく」と言われている。
そんなわけで、ひとり食堂にやって来た綾乃は、入口付近で戸惑ってしまう。
……あら? ウェイターが迎えに来ませんのね?
入り口は解放されており、生徒たちは整然と列を成し、慣れた様子で入って行くのだが……。
綾乃も見よう見まねで最後尾に並んでみたのだが、すぐに列が分岐してしまったので、どうしていいのか分からなくなった。
そこで前に並んでいる男子生徒の背中を、ちょいちょいと指で叩く。振り向いた男子生徒はネクタイの色から判断するに、先輩のようだ。
彼はこちらを見おろし、ギョッとした様子で固まった。
……そんな、幽霊でも見たような顔をしなくても。
彼のリアクションに少し呆れながらも、声をかける。
「ごめんなさい、食堂のルールが分からないのですが、どうしてこの先で列が別れているのですか?」
男子生徒はうろたえながら、
「れ、列、ですか? 今、何が起きているんだ……?」
混乱したように呟きを漏らす。
綾乃は落ち着いた声で続けた。
「そうです、列――皆にならって並んでみたのですが、この先で別れてしまうでしょう? どうしたらいいのか、分からなくて」
「ええと……あの、西大路さんは、ここに来るのが初めてですか?」
彼のほうが上級生なのに、敬語で質問される。
あら、名前をご存知ですのね。綾乃はこくりと頷いてみせた。
「そうなんです」
「ええと、じゃあ……このトレイをまず持ってください」
彼は大変親切な人で、ラックに積まれていた白いトレイをひとつ手渡してくれた。
なるほど……料理を注文する前に、このトレイを持つのがルールですのね?
感心してトレイを見おろしていると、男子生徒が躊躇いがちに促す。
「あの、説明しますので、ちょっと横に避けましょうか……並んでいる人の邪魔になっちゃうから」
彼が後ろを気にしているので、綾乃も振り返ってみた。
すると綾乃が立ち止まって話しているせいで、流れをせき止めてしまっていることが分かった。後ろには二十人ほどの生徒が並んでいて、皆、困ったように立ち尽くしている。
「――あら、気がつかなくて、ごめんなさい。お先にどうぞ」
お詫びを入れてから、男子生徒と一緒に横に避けると、辺りが変な空気に。
列の後方にいる距離が遠い生徒は、物珍しそうにこちらをジロジロ見ているのに、近くにいる生徒は視線を下げて、そそくさと早足に通過して行くのだ。
どちらにせよ好意的なリアクションではないように思えた。『好奇心』と『恐怖』――ふたつの感情のあいだで揺れ動いている彼らは、距離が遠くて安全が確保されているなら『好奇心』を表に出し、距離が近くて危険を感じているなら『恐怖』を表に出している。
私、反社会的勢力に属する人間ではないのに、そんなに怯えなくてもいいじゃないの……綾乃はちょっぴり悲しくなった。
そういう反応を見てしまうと、綾乃の案内をする破目に陥った彼は、ネガティブな感情を表に出さないのだから、よくできた人だと思う。
「あなたはとても気遣いができる方ですのね」
感心して笑顔を浮かべると、男子生徒はビクリと肩を震わせ、トレイを手から落としそうになった。
慌ててしまったのが恥ずかしいのか、見る間に顔が赤くなり……。
「いえ、そんなことは……まったく……ええと、何を話していましたっけ?」
「列がこの先で分岐しているのはなぜかと、私が質問しました」
「ああ、はい、そうでした」
男子生徒は小さく咳払いしてから、
「注文するメニューによって、受取のカウンターが変わるんですよ。ええと――西大路さん、希望のメニューはありますか? 洋食、和食、麺、パン、わりとなんでもありますが」
メニュー……そうねぇ、パスタとかサンドイッチとかだと、デートっぽくてなんだか嫌よね。
空気がぶち壊れるようなものがいいわ。手っ取り早く、いただけるものがいい。
「あの」綾乃は男子生徒に尋ねてみた。「たとえばですれど――年齢層高めな男性は、お昼に何を召し上がると思います?」
「え?」目を丸くする男子生徒。「な、なんでしょうね……ええと、お蕎麦とか?」
「お蕎麦!」
綾乃は瞳を輝かせた。テンションが上がって来たので、ニコニコして答える。
「いいですね、私、それにします。お蕎麦がいいです」
「えっ、西大路さんが、お蕎麦?」
男子生徒がギョッとした顔を向けてきた。
そしてなぜか背後もどよっ、と騒がしくなる。
……なんでしょう? 不思議に思って振り返ると、並んでいる生徒たちも目を丸くしてこちらを見ている。
ちょっと皆さん――見世物じゃなくってよ。
綾乃が真顔で右手のひらを上に向け、『どんどん前にお進みなさい』とジェスチャーで示してやると、皆途端にササッと目を伏せ、物言わぬ人々に戻った。
「それじゃあ……お蕎麦はこちらなので、行きましょう」
親切な案内役の彼が、列の切れ目を見計らって、綾乃を促す。
そして分岐したルートのひとつ――お蕎麦を出してくれるらしき列の最後尾に、綾乃を連れて行ってくれた。彼も一緒に並んだので、綾乃はびっくりして尋ねた。
「あの――これだと、あなたもお蕎麦を食べるようになってしまいます。よろしいのですか?」
世間知らずの綾乃でも分かる。たぶん彼は自分が食べたいものよりも、綾乃を案内することを優先している!
自分だったら、他者への親切のために、ここまでの自己犠牲を払えるだろうか?
いいえ、無理。
ものすごく崇高なことをしているにもかかわらず、彼はなんてことないというように自然な笑みを浮かべ、はにかんだように答えた。
「僕もお蕎麦が食べたかったので、かまいませんよ」
まあ、なんてこと!
親切を押し売りしない、気高さと気遣い――……世の中、まだまだ捨てたものではありません。このように素晴らしい若者が、明日の日本を支えていくのですね。男子生徒のさりげない親切に、綾乃は心打たれた。
カウンターでお蕎麦を注文し、受け取りが完了。
「東の窓際の席はどの辺でしょう?」
と彼に尋ねて、
「左のほうですよ」
と教えてもらったので、フロア手前で別れることに。
今度すれ違ったら挨拶くらいはしたいと、別れる前にまじまじと男子生徒の顔を見上げていたら、彼の顔が真っ赤になった。
「あの、西大路さん……僕の顔に何かついていますか?」
「いえ、ご親切にしていただいたので、お顔を憶えておこうかと思いまして」
「そんな、そんな、恐れ多い。気にしないでください、僕も楽しかったので」
え……楽しかった? そんなはずはありません。絶対、面倒だったはず。
綾乃が驚いていると、彼が小首を傾げて続けた。
「あの……今度すれ違ったら、挨拶とかしてもいいですかね?」
綾乃は心がほぐれて、思わずにっこりと笑った。
「ええ、もちろんです。むしろ私から挨拶させていただきますわ」
「そ、そうですか……なんて日だ、今日は……」
モゴモゴ呟く彼に別れを告げて、綾乃は待ち合わせ場所に向かった。




