23.元町悠生の華麗なる逆襲
その日の午後、嵐が到来した。
綾乃は現在、ある男と対峙している。
その男は愉悦の表情を浮かべ、
「俺に絶対服従しろ」
そんな馬鹿げた台詞を口にした。
……さて、どうしたものかしら。
綾乃は腕組みをして、考えを巡らせる。
対面に佇む男は、クズ界の王子こと、元町悠生。
もう一度跪かせて、その空っぽの頭を壁に叩きつけてやってもいいのですが……。
* * *
この男がどうしてここまで偉そうなのか?
時は数分前に遡る。
綾乃がひとりで廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「――おい、暴力女」
綾乃はこれを当然無視した。ひとけのない廊下で、前方には誰もいなかったけれど、『私に話しかけているはずがない』と思ったからだ。
もしも自分の姓が『暴力』で名が『女』なら、「はい、なんでしょうか」と答えただろうけれど、そうではないですし。
「おい、暴力女! 無視すんな!」
綾乃は無表情のまま足を止め、クルリと振り返った。
すると元町悠生が歩み寄って来るのが見えた。――女子生徒に無理矢理キスするようなイカレた男に、『暴力女』と言われるのは納得がいかない。
「……もしかして私に言っています?」
「お前以外に誰がいる」
「あなたに『お前』呼ばわりされる筋合いはございませんが」
綾乃が静かに言い返すと、シン……と沈黙が落ちる。
取りつく島もない綾乃の態度に、元町悠生が「くそ」と呟きを漏らした。顔を顰めてさらに悪態を吐く。
「ったく可愛げのない」
「それはどうも」
「あのな――聞いて驚け、お前、来年、希望のゼミに入れなくなったぞ」
元町悠生が顎を少し持ち上げ、唇の端に笑みを浮かべた。瞳の奥がトロリと揺らぐ。
綾乃は小首を傾げて元町悠生を見返した。
「ありえませんわ」
「それがありえるんだなー……一橋亜季奈がお前に在籍権を譲るのをやめた」
え……これには意表を突かれた。
驚きが顔に出てしまったのだろう、対面する元町悠生の顔に満足そうな笑みが広がる。
「知らなかったようだな」
「考えられません――私を敵に回して、彼女になんの得があるのです?」
「お前を敵に回すデメリットよりも、目の前に無視できない脅威があったってことだろう。たとえばだな……公になると即破滅のスキャンダルを誰かに握られていて、その件で脅された、とかね」
なるほど……普通に考えれば、一橋亜季奈が西大路綾乃に逆らうなど、天地が引っくり返ってもありえない。
けれど。
彼女は致命的な弱点を、目の前の男にがっちり握られているというわけですか。
しかし私もコケにされたものです……綾乃は瞳を細める。一橋亜季奈はこちらに義理立てすべきでした。
元町悠生の脅しに屈した時点で彼女は終わった。
そもそも上流社会に身を置く者ならば、降りかかる火の粉は自分でなんとかしなければならない。それは最低限のマナーだ。上位者に迷惑をかけるなんて、切腹ものの大罪であるといえる。
彼女が脅しに屈したりせず、こちらへの義理立てを優先していれば、助けてあげられたかもしれないのに。
まぁそれはさておき。
この男、ゼミの在籍権をネタに喜々としてコンタクトしてきたということは、何か欲しいものがあるということかしら。
笑えますわね。段々楽しくなってきましたわ。
いいでしょう……ポスト・パーティーは明日の夜ですし、少し暇を持て余していましたので、遊んで差し上げましょうか。
「それで?」綾乃は微笑みながら促す。「ゼミの在籍権、あなたが代わりに融通してくださるのかしら?」
「そうだな。条件によっては」
「条件とは?」
「俺に絶対服従しろ」
元町悠生はそう言って、唇の端を吊り上げてこちらを覗き込む。
ふうん……こういう顔で、女の子に悪戯するわけですね。
綾乃が片眉を上げるにとどめると、彼は拍子抜けした様子で肩を竦めてみせた。
「なーんてな……おい、怒るなよ。なんとか言え」
「怒っていませんわ。呆れているのです」
「まぁあれだ、絶対服従しろとまでは言わない……だけど少しくらいは、こちらの遊びに付き合ってくれるんだろう?」
「どうしようかしら。今、考えているところです」
「そんなふうに上から目線でいいのかな? 少しくらい下手に出らどうだ?」
元町悠生の瞳に怪しい光が灯る。
それを見た綾乃は「七美の言ったとおり、学園内にケダモノがいるわ」と考えていた。
「あなたは分かっていないようですけど、私は別に、一橋亜季奈しかパイプがないわけではありませんのよ。私に在籍権を譲りたいという方は列をなしていますし、最悪、あのゼミでなくても、別のゼミに変更すればいい話です」
綾乃はすでに所属するゼミを決定しているが、そこに特別な思い入れがあるわけではない。
講師が憧れの人であるとか、そこで特別なコネクションを築きたいとか、そういった強い動機は特にないのだ。そもそもの話、そこで築かなくとも、コネクションはすでにある。極論、綾乃の立場ならば、ゼミ自体に参加する必要もないくらいだ。
しかし元町悠生がそれを聞いて鼻で笑った。
「かもしれない――けれどあのゼミに入らないと、紫野夏樹との接点がひとつ減るぞ」
何もかもお見通しだ、というこの男の態度に、初めて苛立ちを覚えた。
確かにそう――夏樹があのゼミに参加するというただその一点のみで、あそこを選んだ。
私は花園秀行とは事情が違う……彼ほどの真摯さ、勤勉さはない。
そのことに思い至った瞬間、激しい衝撃を受けた。
この場面で動揺すらできないというのは、人としてどうなのだろう? 花園秀行だったら、ゼミに入れないとなったら、ものすごくショックを受けたはずだ。だって彼には学ぶ意欲があるから。真剣だから。夢があるから。
けれど私にはその情熱がない――夏樹のことしか眼中にない。
そのことを疑問に感じたことすらなかった。
けれど今は、そんな生き方がひどく薄っぺらく感じられる。
だから夏樹に飽きられたのかしら……ふとそんな考えが浮かんだ。
ヒロインの住吉忍は、もっと色々なことに真摯で貪欲なのだろう。自分をしっかり持っている女性のようだから。
彼女だったら、ゼミの選択も自らの意志で行うし、欲しいものを手に入れるために必死になる。
誰だって、中身が空っぽのお嬢様よりも、ヒロインのような女性を選ぶはず。
胸が痛い。傷ついていたし、それ以上に苛立ってもいた。
表面上は優雅な態度を取り繕っていたけれど、たぶん冷静な判断力を失っていたのだろう。
「何が望みなのです?」
「とりあえず、デートしようか――今夜」
これを聞き、綾乃は冷ややかに瞳を細める。
少しだけ彼の遊びに付き合うのは構わないけれど、思いどおりになる気はない。
「ありえません。でも、そうね――……食事を一緒にとおっしゃるなら、ランチまでなら」
「それなら日曜に?」
「あなたと日曜日を過ごすなんて、まっぴら御免ですわ。学園の食堂でランチを一緒に取るだけなら、付き合ってもいい」
夏樹ともまだなのに、この男と食堂でランチだなんて……正直業腹だ。
だけどまぁ、これは在籍権をどうするかの話し合いであり、デートではない。ランチミーティングと考えれば、そう身構える必要もないかも?
何か文句を言ってくるかと思ったが、元町悠生は意外にも愉快そうに笑った。
「OK――想定していたよりも、悪くない成果だ。じゃあ明日、一緒にランチを」




