21.僕は君をすぐに見つけられる
……というようなことが、先日車中であったわけです。
* * *
細部まで思い出したせいで動悸が激しくなり、夏樹がこちらに辿り着いた時には、綾乃はフルマラソンを走り終えたあとのように疲れきっていた。
……あの日眠ってしまったことを責められるのかしら?
しかしその心配は杞憂に終わった。夏樹はベンチに腰かけると、隣に座っている綾乃のほうに体を向け、先日のことには一切触れることなく、紳士的な態度で明日のことを話し始めたからだ。
「明日のポスト・パーティーだけど、迎えに行くのは七時でいいかな」
約束はしていなかったのだけれど、彼が誘ってくれて嬉しかった。
もしかすると彼はほかの人をエスコートするつもりなんじゃないかと思っていたから。
頬が緩みそうになるのをこらえようとしたけれど、たぶんそれは失敗に終わっただろう。綾乃はウキウキした気分で、ある提案をしてみた。
「せっかく仮面をつけるのですから、現地集合にして、お互いを探すのはどうでしょうか」
「……あまり気が進まないな」
そう答える夏樹は思案顔だ。
「あら、どうしてですの? 探すのが無理そうですか?」
「僕は君をすぐに見つけられると思うよ」
彼がそう言ってのけたので、綾乃は意外に感じた。
「そうかしら? 私のほうはすぐに夏樹を見つけられますけど、あなたは……」
好きな相手を大勢の中から探し出すのは、案外簡単だと思う。
普段からその人のことを視線で追っていれば、動きの癖や雰囲気が頭にインプットされている。
加えて綾乃は視力も良い。夏樹は目立つから集団に埋没できないし、綾乃が本気で探せば、おそらく数分とかからずに彼を見つけ出せるだろう。
――逆に、夏樹が綾乃を探し出すことは可能だろうか?
女の子は服や髪型で印象がかなり変わる。メイクで別人になることも可能だ。ヒールを履いた場合は、背丈だって普段とは違う。
そして明日のパーティーは仮面着用。仮面だけでも厄介だが、そのデザインに負けぬよう、アイメイクをしっかり施すことになるので、普段のイメージに囚われていると、一生探し出せないかもしれない。
第一、夏樹は婚約者にさほど関心がないですし……不用意にそんなことを考えてしまい、ズキリと胸が痛んだ。
ああ、だめ、やめましょう。後ろ向きなことを考えて落ち込むのは、時間の無駄だわ。
予言の書には嵐が近づいていると書いてあったけれど、それがなんだというの?
人生とはすなわち戦いなのだから、障害があるならば、立ち向かうまで。
ふと横から視線を感じて瞳を向けると、夏樹がなんともいえない表情を浮かべてこちらを眺めていた。
少し呆れたような、憐れむような、それでいてどこか楽しそうな……彼の瞳はいつも、言葉よりも雄弁に何かを語っている。
「どうかしましたか?」
小首を傾げて尋ねると、彼が薄く笑んで答える。
「いいや。……それじゃあ、どちらが先に相手を探せるか、競争しようか」
「いいですね」
「勝負なら、何か賭けたほうが楽しめるよね」
ええ、確かに。
実はそれについては考えがあった。勝ったら「ランチを一緒に」とお願いしようかと思っていたのだ。
この学園には食堂があるのだけれど、綾乃も夏樹も普段はそこを利用していない。昼休みを一緒に過ごすほど仲睦まじくないので、彼と一緒にランチというのは憧れのイベントのひとつだった。
それでは互いにひとつずつ、自分が勝った場合の条件を提示して……と思っていたら。
「勝ったほうは負けたほうの言うことを、なんでもひとつ聞くというのはどうかな」
夏樹が驚きの提案をしてきたので、仰天してしまった。
「えっ……夏樹はそれでいいんですの?」
びっくりしすぎて、それだけ返すのが精一杯。
すると彼がいたぶるような視線をこちらに向けて言う。
「ふうん……君は、僕が負けると思っているんだ?」
「え、だって」
続く言葉が出てこない。……だってそのとおりなんですもの。この勝負は夏樹に不利すぎるわ。
「僕は勝負に負けるとは思っていない。負けることを心配もしていない。単に、君をひとりにしておくと、ほかの誰かに付け入る隙を与えそうで嫌なだけ」
「どういう意味でしょう?」
付け入るって、どの部分にですか? 特に弱点も隙もないですし、たとえあったとしても、そんなことをしたがる物好きは、この学園のどこにもいないと思いますけれど……。
「自覚がないの?」
夏樹は囁きを落して、気まぐれのように手を伸ばしてきた。そして綾乃の手を取り、握る――少し強いくらいに。
互いの顔が近づく。彼の瞳は透き通るように怜悧で、引き込まれてしまう。
繊細な鼻筋のライン、薄い唇、髪の一本一本に至るまでが綺麗だ。それらすべてが合わさると、人ならざるような独特のすごみがある。
彼に命令されたら逆らえない……ふとそう思った。
夏樹が言葉を重ねる。
「最近、困っていることはない? 誰かに何かを強要されている――とか」
「そんなこと、ありません……」
茫然と呟きを漏らす。……困っていることなら、もちろんある。それは予言の書にまつわる問題だ。
けれど夏樹には話せない――「あなたは乙女ゲーム世界の登場人物で、攻略対象者のひとりなんです」――そんなことを言えば、頭がおかしくなったと思われる。それに予言の書に関しては、誰かに何かを強要されているわけではない。むしろ助けてもらっているのだから。
「本当に?」
心の底から君を案じているという顔をされると、どうしてだか泣きたくなった。
「本当ですわ」
まごつく私に、彼がさらに距離を詰めようとする。
今何が起きようとしているのか理解できない……夏樹が何を考えているのかも。
瞳を揺らしながら彼を見つめていると、突然上から声が降ってきた。
「――その手をお放しなさい。さもなくば、強制わいせつ罪で突き出すわよ」




