20.この遊び、続ける?
羞恥の極み。今なら恥ずかしさで死ねる。
寝たふりをしていて、それを相手に見抜かれていたなんて。
綾乃は閉じた瞼にキュッと力を入れ、込み上げてくる衝動をこらえた。これからどうすべきか分からないし、泣きそうになる。
目を開ける勇気がない。居たたまれない。
……そしてなぜか、夏樹が耳を揉むのをやめてくれない!
ねえ、これ、耳たぶの硬さを今調べたとしても、実際にお菓子作りする時には忘れてしまいますよね? 直前に調べないと、意味がないのでは?
それになんだか……あの……耳に触れられていると、背筋がゾクゾクして、おかしくなりそうなので、やめてほしいのですが。
この状況で目を開けられる? ――絶対無理!
「まだこの遊び、続ける? 僕は別に構わないけれど」
夏樹の楽しそうな声。
もしかして……夏樹って意地悪ですの?
昔の彼ならこんなことは絶対にしなかった。それは断言できる。
彼はいつも優しかったし、こちらを尊重して慈しんでくれた。仲の良いお友達にそうするように、誠実に付き合ってくれた。
けれど一年前に関係がギクシャクしてからは、急に冷淡な態度を取るようになって、手を握ることさえしなくなった。
……それなのになぜ? 手は握らないけれど、耳たぶは揉むのですか?
夏樹がどういうつもりでこんなことをしているのか、まったく分からない。
混乱のあまり目を開けられないでいると、夏樹がやっと耳たぶから手を離した。
よ、よかったー! 解放された。これで助かったー……。
と思ったら、彼の左手がこちらの脇腹をこすりながら下りてきた。そして綾乃の左手を取って、そっと手を絡ませる。指と指を交差させる恋人つなぎだ。
訳が分からず、綾乃は恐々と息を吐く。
するとそのタイミングを狙ったかのように、
「……寝ているなら、ネクタイが苦しいよね」
夏樹がそう言って、空いている右手で綾乃のこめかみに触れた。
ツツ……と指が滑り、耳の近く……頬……首筋……襟元……と、段々下に向かって、優しく触れていく。
羽毛が肌を撫でるような感触に、背筋がざわつく。
とうとう彼の右手がタイを掬い上げたのが分かった。衣擦れの微かな音を、耳が一生懸命拾おうとしている。けれど心臓の音のほうが大きい。
目を閉じていて視界が利かないせいか、この世界にふたりしかいないみたいに感じられた。
ああ、もう、だめ……! もう限界。
綾乃は声を震わせながら降参した。
「ほ、本当は、起きています……ごめんなさい……」
思い切ってそうっと目を開けたら、初めに彼の膝が見えた。
……絶望した。
やはり夏樹に膝枕してもらっている……視覚で確認すると、ダメージがとてつもない。
加えて夏樹の左手がこちらのお腹に回されていて、抱え込まれているような体勢である。手を繋がれたことに一番狼狽してしまったけれど、全体的なふたりの絡みもかなり際どいものになっていた。
夏樹が綾乃のネクタイを指で弄びながら、低い声で囁く。
「……綾乃は僕の前でもぐっすり眠れるんだね。緊張感がないのかな」
「そんなことないです。むしろ緊張のあまり……」
眉間に皺を寄せ、視線を彼の膝に固定しながら呟きを漏らす。
へえ、と夏樹が笑った。
「緊張しているわりに、まだ寝転がったままだよね。もしかして、僕を試している?」
……試す、とは? 夏樹が禅問答のような、不可解な問いをしてきた。
どういう意味でしょう? 膝を拝借しているので、怒っているのは確かだろう。
彼は「こちらの忍耐力を試しているのか?」と問うているわけですね。
綾乃はすっかり怖気づき、腰が砕けてしまった。取り繕うように呟いた台詞は、ひどく弱々しく響いた。
「あの、すぐに起きます……」
「ひとりで起きられる?」
撫でるように優しい声なのに、若干の悪意を感じるのはどういう訳でしょうか。
夏樹の意地悪モードに触発され、綾乃の中に少しだけ反抗心が湧き上がった。
大きめの声を頑張って出してみる。
「お、起きれまふ……!」
か、噛んだー!
一番大事なとこで噛んだ!
綾乃はプルプルと体を震わせながら、肘をシートにつけて、一生懸命起き上がろうとして――……
力が入らなくて、一回失敗。タコのような軟体動物になったみたいだった。
夏樹の膝の上にヘニャリと墜落した綾乃は、「もう誰か私を殺してー!」と内心絶叫しながら、根性で背筋に力を入れ、ふたたび上半身を起こした。
潰れるような変な落ち方をしたせいで、胸やお腹を打って痛いし、何より恥ずかしいし。
羞恥のあまり、両耳が千切れそうなほどに熱い。
綾乃のお腹に回していた手を、夏樹がさりげなく解いたのが分かった。
もうこれ以上はひとことも漏らすまいと決め、なんとか体勢を整えた綾乃は、窓際いっぱいに体を寄せて座り直した。
ちらりと横目で窺ったら、夏樹は口元を手で押さえ、窓の外に顔を向けている。
き、気まずい……。
色々やらかしてしまった自覚はもちろんある。
耳に、何度も、何度も、噛んでしまったあの台詞がリフレインされる。
……「起きれまふ」「起きれまふ」「起きれまふ」「起きれまふ」……
髪をかきむしり、絶叫したかった。
「起きれまふって、なんだー!」




