19.耳たぶに関する考察
近づいて来る夏樹を待つわずかなあいだに、先日の車中での出来事が、走馬灯のように脳裏に浮かんだ。
恐ろしさのあまり指先がすっかり冷たくなっている。強心臓で知られる綾乃であるが、このままでは緊張のあまり、心臓が止まってもおかしくない。
今さら悔やんでも遅いのだけれど、どうしてあの時、紫野家の車で寝てしまったのだろう。
その直前、夏樹に色々尋問されたことは、ほとんど記憶に残っていない。
脳があれを『悲惨な体験』に分類して、深層心理の奥深くに沈めてしまったのかもしれない。
それはまあいい……怖いからそのまま沈めておこう。
問題は、尋問の『あと』だ。
体調が悪いからと断りを入れて、目を閉じ、それから――……
* * *
枕が硬いわ、と綾乃は思った。
自分の好みはフワフワしていてボリュームのある枕なのよね。そしてひとつじゃ足りなくて、二、三個は欲しいの。並べて使えば、寝返りをいくら打っても平気だし、寝苦しい夜は抱き枕にしてもいいし。
だからこの枕は失格ね。
でも硬い枕が好きな人は、「これが理想の枕だ」と評するかもしれないわ。
そう――初めに気に入らない点を述べてしまったけれど、それは個人の感想ですものね。この枕が悪いわけじゃない。これはこれで暖かいし、その点は好ましいと思う。
それから、なんでしょう……先ほどからくすぐったいのよ。なぜかしら?
髪が少し引っ張られるというか、痛いわけではないのだけれど、不思議な感じ。
髪の毛に触れているということは、きっと美容師さんね?
クルクルと指先に巻きつけるようにして、毛先を弄ばれているような――ちょっと美容師さん、そんなことをして遊んでいたらだめですわよ。
いつもお世話になっている美容師さんは、四十代の落ち着いた雰囲気の女性で、こんなふうにふざけたりしなそうなんだけど……。
けれど今日は悪戯モードですわね。
ん……うん? 今度は側頭部が温かくなった。
気持ち良いー……。
もうこのままずっと寝ていられる。
もっと撫でてー……。お願いー……。
幸せすぎて口元が緩んでしまう。
するとなぜか、戯れのように触れていた手の動きがピタリと止まった。
もう終わりですの? 起きたくないなー……。
いやいやをするように枕にしがみつく。
……しばしの静寂。
絶対に起きませんわよ。こうなったら我慢比べですわ。
ふたたび指の感触が髪の上を滑り――……首を覆っていた毛束がふわりと掬い上げられてしまった。
掬った髪をそのまま背中のほうに流したらしく、首の辺りが涼しくなって、途端に心細くなる。
このタイミングで、急激に意識が浮上した。
え……ちょっと待って。
確か……ええと、確か、少し前まで夏樹と一緒に車に乗っていたような? 後部座席に並んで座っていて……それで、ええと……目を瞑ったのよね。
それから……どうしてなの、そこからの記憶がないわ。
うん……? 記憶もないのに、自分の部屋に戻れたということですか?
現状、ベッドで寝ているわけですものね。だってほら、こうして横になっているのですから、ベッドにいるという認識で合っています。合っているはずです。枕もこのとおり、ちゃんとあるのですから。
……でもこの枕は、好みの硬さじゃないのです。
……というかこの枕、私のものじゃないような?
……あら? そもそもこれは枕で合っています?
小さく息を呑む綾乃。
怖すぎる。これ以上深く考えてはいけない気がする。
混乱している綾乃をからかうように、誰かの指が、なんの脈絡もなく耳たぶをキュッと摘まんできた。
ひゃあーん、な、何が起きているの!
結構しっかり摘ままれている。綾乃は思い切り眉をひそめ、顔を真っ赤にして震え始めた。
ふたたび気まぐれのように指が動き、今度は耳たぶを揉み始める。
この頃になると綾乃の意識はだいぶはっきりしてきて、耳たぶを揉んでいる『誰か』は『夏樹』であると理解していた。
おそらく、こういうことだ――車中で寝入ってしまい、そのまま横に倒れ、図々しくも夏樹の膝を拝借したのだ。
それは本当にごめんなさい。申し訳ない気持ちでいっぱいです。
でもね。それはそれ、これはこれよね? この行為に一体なんの意味があるというの……?
――耳たぶの硬さを目安に――……
不意に、最近読んだテキストが脳裏に蘇った。
姉の料理下手を解消すべく、料理のテキストを何冊も読み込んだのだが、お菓子関連のレシピの中で、不可思議な表現を何度か目にしたのだ。
それは『耳たぶくらいの硬さ』に生地を仕上げろというものだった。パン作りかお団子作りかうろ覚えだけど。
もしかして……夏樹は最近お菓子作りにはまっている?
それで『耳たぶの硬さってなんなのだ』という疑問を抱いたのではないかしら?
気持ちは分かります。だって私も首を捻りましたもの。
それを確かめるべく、私の耳に触れていますのね?
几帳面な夏樹のことだから、自分の耳たぶの感触と、他人の耳たぶの感触の違いを調べている? ええと、だけど、調べてどうするのかしら?
なんてことを考えていたら、耳にフッと息がかかり、低く艶のある声が降ってきた。
「綾乃……二分前から狸寝入りしているの、バレてる」




