15.名前を教えてもらえる?
「ちょっとやめて――やめてってば!」
キスの合間に女子生徒がもがき、元町悠生の胸を拳で叩く。
しかし男のほうは抵抗されてもおかまいなしで、角度を変えて、さらに深く口づけようとする。
綾乃は気配を消しながら、素早く階段を駆け上がった。あっという間にふたりの元へ辿り着く。
女子生徒に覆い被さっている元町悠生の肩をポンポンと叩いてから、彼の膝裏を蹴る。
足の裏で踏み抜くように、強く。
関節って便利な代物ですわよね――膝の関節は足を曲げるためについているので、そこに本人の意思があろうとなかろうと、正しい方向に押せば機能どおりに働いてくれるのです。
次の瞬間には、床に跪く元町悠生の姿があった。
この場面だけ切り取ると、彼は何かの許しを乞うているかのようだ。
実際は、膝を強打した衝撃と、『何が起きたんだ』という驚きとで、固まっているだけなのだが。
綾乃は彼の正面にいた女子生徒の腕を引き、スペースを開けてもらった。
……ちょっと退いていてくださいね、壁を使いたいので。
「おい、お前……!」
やっと頭が回り始めたらしい元町悠生が体を捻り、こちらを睨み上げてきた。
おそらく彼は今、あれこれ考えを巡らせているはずだ。
いきなり後ろから蹴られた――相手は誰だ? なんだ、女ひとりか。さあどうしてくれようか……。
怒りの中に値踏みするような冷めた感情が混ざっているのが、見て取れる。
……でも残念。どうするか判断するのは、あくまでこちらですの。
「女性に無理強いするのは最低ですわよ」
冷ややかに告げると、元町悠生が思い切り顔を顰めた。
「いきなり他人を蹴るのは最低じゃないのかよ」
「迷惑行為を得意とする方って、他人の揚げ足取りが得意ですわよね……初撃と迎撃は違いますからね」
「はぁ?」
「あなたが女性に乱暴していたので、私はそれを力ずくで止めたまで。――納得できないという顔をしていますが、お分かりにならない? でしたら、その頭は飾りですわね」
綾乃は元町悠生の頭を掴んで、容赦なく壁に叩きつけてやった。
これはかなり効いたようで、元町悠生は四つん這いになり、うめき声を漏らしている。
はぁ……やれやれ。
身だしなみを整えた綾乃は、傍らで目を丸くしている女子生徒に忠告した。
「先輩――でよろしいですわよね? ネクタイが三年生の色ですもの――ねえ先輩、ひとけのない場所で殿方とふたりきりになる際は、相手を選びませんと」
女子生徒は口をパクパク開け閉めしたあとで、声を荒げた。
「あ、あなたね、今のって暴力よ!」
「あら、そうですかしら?」
尋ねながら、元町悠生が立ち上がりかけているのを横目で見遣る。サッと日傘を突き出し、先端で彼の肩を強く押さえた。
「動かないでください。今はこの方と話しており、取り込み中です」
まだ脳が揺れているのだろう。さして抵抗することもなく、床に腰を落す。
ただし射殺さんばかりにこちらを睨んでいるから、あとでもうひと波乱ありそうだけれど……。
この成り行きに、さらにむきになる女子生徒。
「ぼ、暴力行為は問題よ! 元町君だって、きっと黙っていないわよ、こんなにやられて!」
「もしかして、彼が先生に告げ口すると思っていらっしゃいます?」
「そりゃそうでしょ、だって」
「彼は先生になんて言うんですか? ――痴漢行為を楽しんでいたら、見知らぬ女子生徒が邪魔に入って、蹴られたんです! ひどくないですか? 先生――とか?」
綾乃が怪訝な顔をすると、女子生徒が目を剥く。
「だって、それは――だって、普通は――」
「あのですね。『普通は』とおっしゃいますが、『普通は』やんちゃな男子生徒が女子生徒にこっぴどくやられた場合、それを自分から言いふらしたりしませんわよ。メンツが丸つぶれですからね」
「そ、そう? でも――私は目撃しちゃったわけだし、黙っていられないっていうか……」
「あら、びっくりです。私を突き出すおつもりで? 一応私、あなたのピンチを助けたつもりなのですが」
ハッとする女子生徒。
「ピンチ――そ、そうだわ、元町君! あなたが無理矢理キスしてきたって、先生に言うからね!」
うーん……この方、覚悟があっておっしゃっているのかしら?
綾乃は難しい顔で小さく息を吐く。
「それはやめたほうがよろしいかと」
「彼をかばうの?」
「いいえ、あなたの名誉のために言っています」
暗がりにのこのこついて行ってキスされました――……それを訴えたら、あなたも批判にさらされる。
もちろん痴漢するほうが悪い――けれどそれはそれとして、『あなたに隙があったからでしょ』という意見は絶対に出てくる。それでも『私は何ひとつ悪くない、痴漢撲滅!』の勢いで戦う気概があるかどうか……問題はそこだ。確固たる覚悟があるならすべきだが、そうでないならやめたほうがいい。
案ずるような綾乃の視線を受け、女子生徒はむぐぐ……と口をへの字に曲げた。
このあいだに回復したらしく――元町悠生が立ち上がり、こちらを見おろしてきた。
「……俺にこんなことをして、ただで済むと思っているのか」
脅しの台詞は静かめのトーンだ。
激昂してこないあたり、本気の怒りが垣間見えますわね……綾乃はそんなことを考えていた。
「大袈裟ですわね、手加減して差し上げましたのに」
「ふざけんな」
「もっとキツめのお仕置きをいたしましょうか?」
日傘をくるりと回し、先端を彼の喉元に突きつけてやる。
「――くそ、覚えていろよ」
あら、なぜですの?
彼の言い草がおかしくて、思わず笑みを浮かべる。
「おあいにくさま。こちらがあなたのことを覚えている義理はございません」
さあ、これでもう用はありません。
女子生徒の肩を抱き、この場から離脱する。
女子生徒はドギマギしながら隣を歩いていたのだが、廊下まで戻って来たところで、意を決したように口を開いた。
「あ、あの、助けてくれてありがとう……!」
お礼を言う気持ちはあったのですね。
融通がきかなそうなタイプなので、先ほどの迷走ぶりは、単にてんぱっていただけなのかもしれない。
「それであなた――後輩よね?」
と彼女が尋ねてきたので、
「ええ」
と頷いてみせる。
「名前を教えてもらえる?」
これには少し驚いた……中等部で私を知らない人間がいるだなんて。
家柄的にわりと有名人だと思っていたのだけれど、そうでもなかったみたいね。
軽く片眉を上げ――ふと――いいことを思いついて口の端を上げる。
もしかしてこれは、あの台詞を口にする、千載一遇の機会が巡って来たのではないかしら?
「――わたくし、名乗るほどの者ではございませんわ」




