13.マフィン事件
待ちに待った、翌日の昼休み。
中等部を抜け出した綾乃は、高等部の敷地に潜入した。
姉の桜子には、
「深草楓様を体育倉庫前に呼び出してくださいね」
と指示しておいたので、決定的瞬間を見逃す心配もない。
抜かりなく、バードウォッチング用の双眼鏡も準備している。
あまり近寄ると誰かに見咎められる恐れがあるので、百メートルほど離れた敷地の隅っこで、広葉樹の後ろに身を潜めて待つことに。
双眼鏡越しに眺めていると、しばらくしてから、紙袋を手に持った姉が現れた。あの紙袋の中に、調理実習で作ったマフィンが入っているのだろう。
体育倉庫の前で、バツが悪そうに立ち止まる。
……あ、お姉様がチラリとこちらを見ましたわ。
とはいえ顔を向けただけで、実際のところ、こちらの姿は目視できていないはず。 距離があるし、完璧に身を隠しているので。
感心なことに、桜子は綾乃のアドバイスどおり、髪を下ろして眼鏡も外している。
なんて可愛いのかしら……!
シスコンの綾乃はその姿を見て、こっそり悶えてしまう。
屋敷ではいつも見ているのだが、高等部の制服を身に纏っている時はいつも三つ編みに眼鏡だったから、なんだか新鮮だ。あれにできればニーハイソックスを合わせてほしかったけれど、さすがにそこまでの贅沢は言えない。
綾乃が桜子に見惚れていると、ターゲットである深草楓が現れた。
校舎裏から屋外に出て来た彼は、桜子のいる体育倉庫のほうに足を向ける。
双眼鏡をズーム――……うーん……やはり麗しい外見をしているわ。
彼はどことなくお姉様に似ていると思う。月の光の欠片を集めたような、神秘的な雰囲気。
美形なのだけど、強く訴えてくるような圧がない。古代ギリシアの長衣とか着せたら、すごく似合いそうだ。
……なんだか、心臓が痛くなってきました。
姉の恋の行く末が他人事とは思えなくて、苦しくなってくる。
双眼鏡越しに見えていた深草楓が、不意にフレームアウトした。
ズームして追っていたので、彼が急に立ち止まったか何かして、見失ったようだ。
慌てて双眼鏡を顔の前からどけて肉眼で確認する。
よかった、いらっしゃいました……でも、待って。
校舎を出てすぐのところで足を止め、背後を振り返っている深草楓の姿。
彼の視線の先には、ある女子生徒の姿が。
綾乃はふたたび双眼鏡を構え、今度はその女子生徒に焦点を合わせた。
ブレザーの袖口をまくり、ネクタイをラフに緩めた彼女。だらしなく見えるかどうか、際どい着こなしではあるけれど、そうしていても不思議と品がある。
好奇心が強そうな瞳と、繊細な顔立ち、人を食ったような余裕の態度、それらが絶妙にミックスされている。
――ヒロインの住吉忍だ。
これはお姉様のイベントなのに!
眉根を寄せる綾乃。まさかヒロインに割り込まれるとは思ってもみなかった。
住吉忍は深草楓のもとに歩み寄り、マフィンを押しつけている。離れた場所にいる綾乃が『マフィンだ』とすぐに分かったのは、それが透明な袋に入れられていたからだ。透明な袋だけだと簡素すぎるが、上部が赤いリボンで留めてあるので、プレゼントらしくはなっている。
成り行きを見守っていた綾乃はハッと我に返る。
……お姉様は?
桜子のほうに双眼鏡を動かすと、目を丸くして深草楓とヒロインを見つめている。
ああ、手からマフィン入りの紙袋が滑り落ちて……。
「これはもう、私が出て行くしか――」
勢いよく立ち上がろうとした瞬間――ぐい、と肩に重みがかかった。
――気配を感じなかった。
ゾクリと背筋が冷たくなる。武道をたしなんでいるため、綾乃は気配に敏感である。それなのに、こんなに簡単に背後を取られるなんて!
「――綾乃、何をしているの?」
地を這うような、低い声。
それを聞いて、綾乃は目を丸くした。背後にいるのが誰か分かったからだ。
……な、夏樹?
半身捻るようにして振り返る。
なぜでしょう……周囲の気温が数度ほど下がったような……?
彼の冷ややかな双眸がなじるようにこちらを見おろしているのに気づき、冷や汗をかく。
「あ、これは、その……」
「ふうん、口ごもるんだ……僕に説明できないことをしているの?」
「な、夏樹はなぜここに?」
質問に質問で返してしまい、彼の機嫌がさらに悪くなったのを実感。
しくじったのは理解している。この迷宮の出口が見えない。
こんな展開、予言の書にはなかった。
だけど、そうか……予言の書に記されていない行動を私が選択したせいね。
どうするのが正解なのでしょう?
予言の書について彼に話すことはできないし、かといって姉の片思いをここで暴露するわけにもいかない。大切な人の秘密は墓場まで持っていく――それが綾乃のポリシーだ。
追い詰められた綾乃が分かりやすく顔を引き攣らせていると、彼はどうしたものか……と思案顔になった。
そして一旦追及の手を緩め、先ほどの問いに答えてくれた。
「君が双眼鏡を持って中等部を飛び出すのを見たんだ。様子が変だったから、探しに来てみたんだけど……迷惑だったかな」
「いえ、そんな、滅相もございません」
「そう? でもなんだか、まずいところを見られた、って顔をしている」
「ま、まずくなんてない、です……」
「放課後、時間を作るから――じっくり説明してくれる?」
久しぶりに見る、すごく良い笑顔だ。
このあと夏樹により中等部へ強制連行されました。
帰りがけに振り返ると、体育倉庫の前にすでに桜子の姿はなく……。姉が落としたはずのマフィンの紙袋もなくなっていたようだけれど、目視したのは一瞬のことで、しっかりとは確認できなかった。
紙袋は、去り際に桜子が回収して行ったのだろう。……というか、焼き菓子の心配をしている場合ではない。
昼休みが終わりかけていたせいで、尋問が放課後に持ち越されてしまった、この恐怖といったらもう……。蛇の生殺しとは、このことだと思いました。
その日の授業が終わり、紫野家の車で護送されながら、みっちり取り調べを受けた綾乃は、終始生きた心地がしなかった。
緊張のあまり途中で気が遠くなり、体調が悪いと言い訳して目を瞑っているうちに、いつの間にか寝てしまったようだ。それで有耶無耶にすることができた。
――綾乃はこの日、『困ったら寝てしまえば、大抵のことはなんとかなる』ということを学んだ。




