12.お姉様と特訓
就寝前、綾乃は桜子の部屋にお邪魔した。
「つかぬことをお尋ねしますが、お姉様は明日の調理実習で、マフィンを作りますよね?」
パジャマ姿でデスクに向かっていた桜子はペンを置き、綾乃のほうにくるりと向き直った。
ちなみに家にいる時、桜子は眼鏡をかけないし、お下げ髪もほどいている。他人に見られていなければ、自分を偽る必要がないからだ。
桜子のありのままの姿は、妹の綾乃からすると、美しくてどこか浮世離れして見える。
姉妹は顔立ちのバランス――目、鼻、口の位置など――はかなり似通っているのだが、瞳だけが違う。
姉の瞳は父にそっくりだ。
思慮深く、慈愛に満ち、どこか詩的。
……姉を見ていると、脳裏にファンタジーな光景が浮かぶ。
人里離れた湖のほとりで、ユニコーンと戯れる乙女。
ユニコーンも姉のそばにいると、なんだかうっとりしているみたい……。
「調理実習?」
桜子はパチリと瞬きし、怪訝そうに尋ね返してくる。
「ええと……確かに明日調理実習でマフィンを作るけれど、どうして綾乃がそんなことを知っているの?」
「情報通のお友達が教えてくれたのです」
「そ、そうなの……?」
桜子はなぜかドギマギしている様子。
このリアクションはもしかして……料理が苦手なせいで、調理実習自体にプレッシャーを感じている、とか?
運動会の前日に、運動嫌いな子が腹痛を覚える、みたいな。
うろたえている姉も大変可愛らしいのだけれど、綾乃は心を鬼にして話を進める。
「それでですね、私、お姉様に提案がございますの」
「な、何かしら?」
「このあと、お菓子作りを特訓しましょう。明日はとびきり美味しいマフィンを焼いて、それを深草楓様にプレゼントするのですわ!」
「えっ、どうして?」
「このあいだお姉様が階段から突き落とされた現場に、深草様がいらしたでしょう? あのあとすぐに、深草様はお姉様を突き飛ばした女子生徒を拘束してくださったと聞いています。――お姉様が無事であると確認してから、その女子生徒がさらに危害を加えないよう、速やかに確保してくださったのだとか」
桜子を階段から突き落とした女子生徒は、現在、停学処分になっている。
桜子が無傷だったので、その程度の処罰で済んだようだが、あまりに軽すぎると思う。これは殺人未遂なのに。
ここはひとつ私が――と綾乃が考えていたところで、本件に関してひどくご立腹の父が先に動いた。
その結果どうやらその女子生徒は、停学が明けても学園に戻ることはなく、そのまま転校していくようである。
圧力をかけましたわね、お父様……。
けれどまあ、これで無駄な手間が省けたのも事実。空いた時間は前向きに使うつもりです。
「お姉様、深草様にお礼はしましたか?」
「あの……いいえ」
「早くしたほうがよろしいですわ。手作りのプレゼントを渡すのはどうでしょうか?」
「そ、それはどうかしら……? よく知らない人から手作りのものをもらうって、絶対気持ち悪――」
「お姉様から手作りのものをもらって、嬉しくないわけがありません」
自信満々だけど、おそらく間違っている妹。
「え……えー……?」
納得がいっていないけれど、圧の強い妹に逆らえない姉。
「お姉様――深草様にマフィンをお渡しする時は、今みたいに眼鏡を外して、髪はほどいてくださいね」
綾乃の提案を聞いて、桜子は拳をグーに握り込んで、困ったように頬を赤らめた。
「でも、でも……」
ほとんど半ベソ状態で、言葉が続かない様子。
なんでしょう、この可愛い女性は。
こんな無垢な人を振ろうとするなんて、ゲーム世界の深草楓は頭のネジが飛んでいると思います。
そういえば、予言の書によると、西大路桜子は根暗で美しくないという設定になっていた。
ところが実際の桜子は、引っ込み思案で地味にしているものの、顔立ちは美しく、性格は素直で可愛らしい。そうなると『ここ』は、乙女ゲーム世界とは微妙に異なるのかしら。
攻略対象の久我ヒカルも、ゲームではひとりっ子設定だったものね。
この世界に紛れ込んだイレギュラーは、転生者である綾乃だけでなく、本来いなかったはずのヒカルの兄、久我奏もそうである。
そもそも久我奏がいなければ、桜子は階段落ちで大怪我を負っていたはずなのだ。
怪我をしなかったので、現状、桜子と深草楓の婚約も成立していない。
すでにシナリオとの乖離が起きているから、最悪な未来は回避できるかも。
とにかく姉が自己改革に取り組むことは、良い結果を招く可能性が高い。
綾乃が「一生のお願いです、お姉様……!」と迫ると、桜子は悲しそうな顔で椅子から立ち上がり、しょんぼりと肩を落とした。
まるで歯医者に連れて行かれる子供みたい……。
ちょっと可哀そうになったけれど、気づかぬ振りを決め込んで、桜子を厨房に連行する。
マフィンの作り方はお手伝いさんに習うことにした。
姉をこのまま預けて去ると、なんだかさぼりそうな予感がしたので、綾乃もしっかり付き添った。
桜子の髪は作業の邪魔になるので、ツインテールにしてあげました。
か、可愛い……!
無駄にキュンを味わう綾乃。
そしてマフィンは上手に焼けた。
すると桜子が少し恨みがましそうに、綾乃を見つめて口を開いた。
「ねえ、いっそ……この上出来なマフィンを深草楓さんに渡したらよくないかしら?」
「だめ、だめ、だめですわよ! 授業で作ったものを渡すから、キュンを味わえるんじゃないですか! 調理実習は、午前中最後の授業でしたわよね。私、お昼休みになった瞬間、中等部をダッシュで抜け出して、高等部に向かいます。お姉様がマフィンをお渡しする場面を、遠くから見守りますので」
これにギョッとした顔であとずさる桜子。
「え? 何を言ってるの?」
「お姉様、頑張って!」
綾乃が抱き着くようにして励ますと、桜子の眉毛がこれ以上ないというほど、八の字に下がった。




