10.夏樹とプレ・パーティー
ちょとした興奮を味わいつつ、綾乃は食い入るように住吉忍を見つめた。
事前に想像していたのと違った。ヒロインというからには、可愛らしい、シフォンケーキみたいな雰囲気の子だと思っていたのだ。
しかし考えてみると、攻略対象者の秘密を探り当てる抜群の嗅覚を持っているヒロインだから、おっとりした受け身のタイプではありえないだろう。
それに、そう――予言の書には住吉忍の過去が記されていた。
それによると彼女は幼い頃に交通事故で両親を亡くし、親戚をたらい回しにされて育ったのよね。その経験を経て、独立心旺盛な人間に育った。
今は裕福な家庭に引き取られているが、幼少期に培われた性格が変わることはなく、堅実な彼女は将来に備えてお金を貯めようと、高校一年になってすぐにアルバイトを始めている。
高校一年になって――ということは、働き始めてまだ数日のはずだが、そうとは思えないほど手慣れていて驚く。
きっと器用で柔軟なタイプなのね。
シナリオ上、敵対関係でなければ、お友達になってほしいタイプかも。格好良いし、彼女にならうべき点はたくさんありそうだわ。
少し心が揺れる。
いえ、だめ、だめ……ここは心を鬼にして、ヒロインをビシビシやっつけてやる、くらいの意気込みでいかなくては。
こちらは自分とお姉様、そして婚約者である夏樹の人生がかかっているんですもの。
そうこうするうちに、久我奏が『そこから出て来い』というようなジェスチャーをして、バーカウンターの向こうにいるヒロインに何やら詰め寄っているのが見えた。身振りから察するに、どこかに連れて行こうとしているらしい。
……何をしているのかしら?
その時、ヒカルに電話が入った。スマートフォンを耳に当てた彼は、ひとことふたこと応答し、すぐに通話を終えると、こちらに向き直り早口で告げる。
「まずい……! 君の婚約者が会場前に着いた」
「え、どうしましょう――私、ここにはいないことになっているのです」
夏樹には今夜のパーティーを欠席すると言ってある。だけどそれは彼も同じことで、出ないという話ではなかった? 予定が変わったのだろうか?
「早くこちらへ」
ヒカルがこちらの背に手を当てて誘導を始めた。
どうしても気になって入り口のほうを振り返ると、バーカウンターの奥から出て来たヒロインが、会場に入って来た夏樹にぶつかって、ひとことふたこと言葉を交わしているのが見えた。
ああ、何を話しているのだろう……?
ごった返す人混みの中、一瞬だけ夏樹と視線が絡んだ気がしたが、この距離でこちらに気づくはずもないと思い、そのまま背を向ける。
突き当たりの扉を開けて、バックヤードへ。
「すぐに車を回すから、そこの階段を使って、とにかく下へ――」
ヒカルがそう囁いた瞬間、スイング式の扉が勢い良く押し開けられて、夏樹が姿を現した。
彼にはちょっとした癖があって、少し怒っているくらいの時は冷ややかな一瞥をくれるだけなのだが、本気で怒っている時は瞳に熱がこもる。
今の彼は視線で絡め取ろうとするかのように、真っ直ぐにこちらを見ていた。
本気モードに感じられて、焦る。
「どうして君がパーティーに出ているの? 出ないと嘘をついて」
修羅場だわ……これまでギリギリ、ごまかしごまかしなんとか保ってきた砂上の楼閣が、ボロボロと崩れる幻影を見たがした。
確かにそう……彼に嘘をついたのはまずかった。逆の立場なら、とても嫌な気持ちになっただろう。
絶体絶命かと思われた、その時。
「――それは、私が一緒に来てって頼んだから」
凛とした女性の声が響いた
びっくりして振り返ると、螺旋階段から、姉の桜子が上がって来るではないか。
え、どうして? お姉様はパーティーには出ないと言っていたのに!
さらに驚かされたのは、姉が一分の隙もなく、白のドレスを完璧に着こなしていたことだ。
襟元は、鎖骨下に沿って真っ直ぐにカットされた、カッチリしたボートネック。保守的かと思えば、スカート部分はかなりのミニである。体に張りつくようなスレンダーなラインが美しい。
下地の丈はマイクロミニなので、挑発的になりすぎそうなのに、生地全体を覆う紗のレースが膝下まで綺麗に下りているから、品位も損なっていない。
とはいえレースだけに透け感があるため、形の良い足のラインは丸分かりである。
ドレスばかりでなく、頭の先から足の爪先まで、すべてが完璧だった。普段の大きな眼鏡もしていないし、三つ編みもほどいていた。
絹糸のような髪は本来真っ直ぐなのだが、毛先を巻いて分け目を大胆に変えてある。髪型とイヤリングのバランスも絶妙で、とても華やかに映った。
いつも内にこもりがちな性格なのに、今は堂々と胸を張り、よく通る声で告げる。
「せっかく綾乃に付き添ってもらって悪いのだけど、私は急用ができてしまったの。だからあなたたち、一緒に帰ったら? ……あなたがパーティーにまだ残るなら、話は別だけれど」
そう言って、少し冷たいような視線で、姉は夏樹を見据えた。
状況が分らないが、綾乃はこの場でひとことも発すまいと心に誓っていた。
――何しろ、口は災いの門である。
夏樹が小さく息を吐き、
「……もう用は済みましたので、綾乃と帰ります」
と慇懃に告げ、姉から視線を逸らした。
姉は綾乃に軽く微笑んでみせると、さっさと踵を返し、上がって来た螺旋階段をふたたび下りて行った。
なんだかすごく忙しそうだ。
ふと気づけば、いつの間にかヒカルもどこかへ消えていて……バックヤードには夏樹と自分のふたりだけが残されている。
おそるおそる顔を上げて夏樹のほうに視線を向けると、彼がこちらをじっと見おろしているのに気づいた。
「……すごく綺麗だ」
嘘をついた件を怒られるかと思ったのに、囁かれた台詞は予想外のもので。
物柔らかな視線を注がれると、勘違いしてしまいそうになる。
……こんな場面で、すぐに舞い上がってしまうのが、私の悪い癖よね。
都合の良い夢ばかり見てしまうの。
だけど今夜くらいは、そうしても構わないかしら。
「ありがとう」
素直に礼を言う。綾乃は頬に熱が集まるのを感じていた。
――ほかの誰にどれだけの賛辞をもらおうとも、彼のこの、たったひとことには敵わない。
お世辞であっても、天に上るほど嬉しいわ。
彼が差し出してくれた腕に手を添えながら、綾乃はふと、久我奏のことを思い出していた。
彼は階段落ちの時、姉の顔を見て「根暗女」と言ったのよね。
ああ……今夜彼は同じ会場にいたのだから、美しいお姉様の姿を見せてあげたかったわ。
そうしたらあの時吐いた暴言について、さぞかし後悔したことでしょうね。
逃した魚を惜しんでも遅いんですから。
暴言男をぎゃふんと言わせる機会を逃してしまったことは、とっても残念……そんなことを考えてしまう綾乃なのだった。




