1.チーズケーキと予言の書
ここはまるで世界の果てだ。
アクリル板を隔て、こちらとあちら、明暗ははっきりしている。
紫野夏樹は刑務所の面会室に来ていた。
対面にいるのは、幼女誘拐犯――当時五歳だった西大路綾乃をさらった男。
「私は彼女を追うことを、やめはしない」
仕切りのアクリル板に右手を当て、不気味なほど静かに、凪いだ瞳でこちらを覗き込んでくる。親指だけを水平に開き、長さが綺麗に揃ったほかの四指で、アクリル板をグッと押すようにして。
愛憎の果て……ギリギリ踏みとどまれるか、あるいは、真っ逆さまに堕ちるか。
それは本人次第。
夏樹は薄く笑んでみせた。
「僕とあなたは、とてもよく似ている」
* * *
月に一度、両家の取り決めにより、彼と会う。
面会日は大抵いつも雨が降っている。
落ち着いた内装の喫茶店。
窓際の席に腰を下ろし、西大路綾乃は外の景色を眺める。
まるで空が泣いているみたい。
「――アイスコーヒーをください」
注文し、壁にかけられた時計を眺める。
時刻は現在十六時半。
中等部の授業を受けたあと、家に戻って着替えをする時間はなかったから、制服姿のままここへ来た。
数分たったら、彼がやって来る。
そして対面の席に着き、アイスコーヒーとチーズケーキを注文するだろう。
綾乃にはそれが分かっている。
ふたり向き合って着席しても、会話は弾まない。
気まずい沈黙のあと、オーダーしたチーズケーキが届くと、彼はそれをこちらに押しやって、淡々とこう告げるはずだ。
「申し訳ないけれど、もう帰らないといけない。これは君が食べて」
オーダーした時点で、彼は自分で食べるつもりがなかった。
そう――分かっている。綾乃にはこの時点で、彼との面会がこのあとどうなるか、分かっていたのだ。
だってそう『書いてある』んだもの。
――彼女の膝の上には、革で装丁された緋色の本が載っている。
これは『予言の書』――私を正しい方向に導く、人智を超えた不思議な本だ。
彼が店先に着いたのが見えた。
黒い傘を畳み、店に入って来る。
「待たせてごめん」
対面席に着いた彼がそう言った。
「私も今来たところですわ」
綾乃は穏やかに微笑んでみせた。
けれど彼は笑みを返さない。
いつものことだった。
「――アイスコーヒーをください」
彼は店の人にそう注文したあとで、微かに目を細めた。それは一瞬のことだったけれど、なんともいえぬ不思議な空白に感じられた。
そしてつけ加えた。
「あと、チーズケーキをひとつ」
それを聞いた綾乃の口角がほんのわずか上がった。
……やっぱり。
笑うような気分ではなかったのに、なぜだろう。情けなくて、滑稽で、不思議な気分だった。
「綾乃?」
ふと気づけば、彼が真っ直ぐにこちらを見ていた。
珍しい。
彼はいつも綾乃と目を合わせるのを嫌がるのに。
「はい、なんでしょうか」
「君は」
何か言いかけた彼が、ハッとした様子で言葉を切る。
そしていつもと同じように、唐突に興味を失ったように視線を逸らした。
「……いや、なんでもない」
数分後、チーズケーキが届き、彼はそれを私のほうに滑らせた。
「申し訳ないけれど、もう帰らないといけない。これは君が食べて」
「分かりました」
彼が支払いをして、店から出て行く。
綾乃はそれを見送りながら、小声で呟きを漏らした。
「私……もうすぐ婚約破棄されてしまうわ」
このまま何も抵抗しなければ、きっとそうなるだろう。胸がズキリと痛んだ。
彼にはほかに好きな人がいる。
彼は付きまとってくる綾乃に、うんざりしているのだ。
婚約破棄を望んでいる。
『予言の書』にも、はっきりとそう書いてある。
けれどまぁ……たとえこの本がなかったとしても、彼の今の顔を見れば、分かり切ったことなのだけれど。
* * *
綾乃はテーブルの上に『予言の書』を置き、一ページ目を開いた。
そこにはこんなことが書いてあった。