学校に行こう!お家に帰ろう!
本日も拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。
親の顔より見たと揶揄されるざまあのスタンダードテンプレに、「××(パーティ内、学園、家庭)などで否定、追放された主人公が外の世界へでて活躍する。慌てて肯定してきたけどもう遅い」的なものがあります。
というわけで、今回のお題は【ナーロッパにおける学校と家庭】です。
まずは学校から見てみましょう。
読者のみなさんにとって、学校とはどんなところでしょうか。
たぶん、イメージされる要素としては……。
・教育に必要な施設が敷地の中に揃っている。教室棟、運動場など。大人の目の届かない死角も多い。
・一種の治外法権領域であり、司法権も敷地内に立ち入りするためには許可が必要。
また、生徒は校則という独特の規則に束縛されている。
そのため、生徒は制服を着なければいけない。
その一方で、成長のため、校則の範囲内で生徒には一定の自治が認められていることもある。
・授業は一斉授業。一人の先生が数十人単位の生徒に授業をする。
てなところでしょうか。
しかし、前回もちょこっと書きましたが、史実の中世ヨーロッパには、研究機関としての大学はあるんですが、ナーロッパでイメージされるような、王侯貴族の子女が通う学校というものはありません。
もっと正確に言うと、身分差を超え、一定範囲の年齢層の子どもを集め、大人数で画一的な指導を受ける学習の場というものがないんです。
史実上、中世ヨーロッパ都市における学校制度は、教会と密接に結びついていました。
中世初期には主に修道院だけが学校を作っていましたが、中世の中期及び後期には、修道院に住まない任俗司祭たちが、大聖堂付属学校や修道院付属学校を作りました。
ですが、これらの高等教育を受けられるのは男性のみ。男女共学とか、もってのほか。
時代が下がると市会学校や市立学校というものが加わり、市民の子どもたちに、より年少期から読み方、書き方、算術、唱歌、宗教、そしてラテン語も少々教える学校が作られました。
これらについては、都市によっては女の子も授業を受けることができましたが、結婚式や葬式の場に校長先生に引率されて歌を歌いに行ってたりしてたようです。
自主性?生徒の自治?なにそれですよ。
また、学校を作る力のない都市の子弟、より高等な教育を受けたい子弟は遍歴生徒というものになって、年上の生徒にくっついて大きな都市へ行き、学生寮から学校に通ったそうです。
質の悪い上級生に当たると路銀をくすねられて、物乞いをさせられる、という羽目にあったり、その土地の市立学校の生徒と、刃物で大立ち回りをすることもあったそうですが。
かろうじてナーロッパにおける学校ぽいと言えるかな、というのは、17世紀初頭のフランスのコレージュでしょうか。
イエズス会が宗教上の戦略により、プロテスタント優勢な地域周辺の大都市に男子の中等教育機関として設置したものだそうです。
これには貴族だけでなく、官吏、弁護士、医師、教師などの子息も生徒として在籍し、かのデカルトもその一人だったとか。
とはいえ、17世紀って、ばっちり近世なんですよねぇ……。
デカルトに至っては近代哲学・科学の基礎を築いた人ですし。
まあ、絶対王政下にはあったので、中世の精神的尻尾をひきずってないとはいいませんが。
しかし、ここでも男女共学というのはありえません。
女性が初等教育以上の学問を修めることができたのは、ごく一部の尼僧院=女性修道院に入り、修道女となった場合のみ。
それも宗教学とそれに付随する哲学、ラテン語、音楽。施療院としての役割から得られる薬学、動物学、植物学などの分野に限られるわけです。
ヒルデガルト・フォン・ビンゲンのように女性として教会博士となった修道女もいたようですが、これは極めてまれなケースでしょう。
では、なぜナーロッパに学校が設定されるのか。
あるはずのないものがある理由の一つは、現代日本社会の事物を入れることで、イメージがしやすくなるというメリットがあるからだと筆者は考えています。
フィクションなのだから、ナーロッパ世界に現代日本的な学校、それも高校相当レベルのものが、あってはならないという理由はない。
それによって作者が書きやすく、読者が読みやすくなるのであれば、ナーロッパの学校・学園ものは優れたテンプレだと言えるでしょう。
では、学校を――それも、現代日本の学校文化を持ち込んだ結果、何が起こったのでしょうか?
もちろん、王侯貴族の子女が体育着にジャージを着たり、文化祭や運動会といったイベントをこなしたりするだけではありません。
平民であるにもかかわらず、国内外の政治情勢理解に必要な外国語、地理歴史、政治や法律といった知識といった、国や家門を動かす貴族の必須教養を叩き込まれるだけでもありません。
ドレスがロココ調だったりするように、剣と魔法の世界であったとしても、ナーロッパの文化はヨーロッパはヨーロッパでも、中世よりも近世に寄った描写が多いようです。
そのあたりは、たぶんいろんな作品でも指摘されているところだと思います。
ですが、たぶん学校と言われてほとんどの人がイメージするような一斉教育が一般化されたのは、産業革命後の19世紀。近世通り越して近代に入ってます。
なぜかというと、一斉授業が一般的になるということは、それだけ大勢の子どもに安定した質の教育を施す必要があるということだからです。
それも、たまたまある年に出産が集中して、同い年の子が多かったから、では、制度として成立するに至りません。
一つの学校が存続し続けると想定しただけでも、毎年数百人はコンスタントに入学者がいるわけです。
学校制度が対象とする子どもの数が、どれだけ膨大なものか、わかると思います。
子どもの数が多いということは、大人の数も当然多い。都市などに相当な人口集中が発生しているか、それとも国内全体で人口が増加しているか、どちらかということになるわけですが、それが起きたのは近代になってから、産業革命により大量の労働者が都市に集中するようになってからのことです。
つまり、学校に通うのは基本的に平民の子どもであり、それも都市化が進んで人口が増加するという社会状況がなくてはなりません。
しかもこの近代に始まった学校、先生がいて、生徒がいるというものだけではありません。
いるのは生徒と、生徒という状況も多かったようです。
なんのこっちゃと思うかもしれませんが、当時の学校で、年下の子を教えていたのは、年長の優秀な生徒だったそうです。
優秀な生徒を助教として採用、先生が知識を助教に教え、助教がさらに他の生徒に教えるという方式を、モニトリアル・システムといいます。
間接的であれ、一人の教師が大勢の子どもに一斉授業を行えるというので、効率性が高いと言われてたそうなんですが、どこかで伝言ゲームが発生したら大惨事発生装置にしかなりませんな。
それでも教育が受けられるだけマシな方。行政主導で教育が提供される学校というものが作られるようになったのは、相当最近のことだったりします。
そのうえ、学校ができても子どもを通わせない親というのも多かったらしいですね。
授業料が払えないから、だけではありません。
労働力としての子どもが学校に取られてしまうからなんです。
前回にもちょっと書きましたが、ルソーが子どもを発見するまで、子どもは「未熟で小さな大人」扱いだったのです。
……まあ、世界的に見れば、現代社会においても労働力として搾取されている子どもというのは多く存在しているわけですが……。
そういった諸事情を、現代日本の学校文化をぶっこむことで『存在しなかったこと』にしてしまう。
それにより、ナーロッパにおける学校にもたらされたのは、ある程度の均一性であると筆者は考えています。
これにはいろいろ理由もあるのですが、教室に数十人の子どもを入れ、同じ学習内容を、同じくらいの時間をかけて理解させ、身につけさせるという一斉学習の特性を考えてもらうと、一番わかりやすいと思います。
一斉学習が成立するためには、生徒の知能や学力、心身の成熟過程というものが、ある程度揃っている必要があります。
一足す一をお勉強している子と、九九の暗唱に挑戦している子といっしょの教室にいる子ができるからって、全員に人工衛星の軌道計算式を立てて解けと言っても無理なわけです。
筆者だったらしろと言われた時点で泣きます。投げ出します。
そこで、学校ではこの均一性を保持するために、子どもたちがカテゴライズされていきます。
生まれ年で一年ごとに分けて学年制が作られ。
学習内容をどれだけ理解しているかで能力別クラス分け、場合によっては飛び級が認められ。
場合によっては生徒の方から自発的に、得意分野、性格や活動傾向、スクールカースト内の位置などによってカテゴライズをしていたりするかもしれません。
ナーロッパだと、能力や趣味以外にも、別の細分化が生じて当然でしょう。
政治や宗教、家の問題であるなら、派閥。
貴族か平民か、貴族の中でも爵位はどのくらいか、王族とのつながりはあるかなどの身分など。
学力というカテゴライズだって、現代日本でも経済的に恵まれてる家庭の子どもの方が、塾に通えたりするぶん学力は上がりやすいというデータがあったかと思います。
つまり、貴族であれば教育費に割り当てられるお金も多くなり、それは高位だったり富裕だったりする家ほど、その傾向が高くなるわけですね。
いきおい貴族の中でも同程度の家格や財産の家門との付き合いが多くなって当然。
ただ、このカテゴライズ、学生である子どもたちにどのくらい意識されているかは微妙なところでしょう。
裏事情を敏感に察知する子がいる一方で、学生の間は平等、など、鈍感にも与えられたカテゴリを素直に受け取って、名目上の理由は丸呑み。
あまり深く考えもしないという子どももいるでしょうし。
で、そういう子どもに限って、自身の身分を無意識かつナチュラルに、都合良く振り回したりもするわけですが。
また、一斉指導を行う以上、学校にはほぼ同年齢の子どもたちが集められるわけですが、集団で活動しているうちに、互いに似ている部分を見つけて親近感を抱き、仲良くなっていくという傾向があることは、心理学的にも――特に年少者ほど――認められていることだったりします。
そして分けられたカテゴリの中では、同じ部分があるというだけで、なんとなく親近感をお互いに抱いたりするものです。
仲良くなってくると、互いに遠慮もなくなってきます。
むしろ敬語や敬意を示す礼儀作法をがっちがちに守っている方が、身分差を盾に隔意を示しているように感じられもするでしょう。
加えて、均一性や人間関係は、より小集団の中で強まるものだったりします。
年頃は同じぐらい、学校の規則を遵守している限り、生徒という身分が同一という環境も相まって、王太子とその取り巻きという攻略対象な脳味噌ハッピーセットが、友人という名目、学校の中だけという言い訳の元、身分制度がある社会の組織とは思えない、じつにゆるゆるな空間を醸成するのも納得できるような気さえしてきます。怖いことに。
だからそこを個人の資質――学力というのはなぜかあまりないですが、聖女の力だとか、空気を読まない無神経とか、偶然という名のいろいろな仕掛け――でぶちぬいて、王太子にダイレクト粉掛けをしでかすピンクブロンド、なんてのがキャラクター設定のテンプレになったりするんでしょうが……。
さて、今度は学校以外に物語の舞台になりやすい、家庭を見てみましょう。
読者のみなさんにとって、家庭とはどのようなものでしょうか。
おそらく、イメージとしては……。
・親と子、きょうだいといった血がつながっている家族の生活の場
・子は成人年齢まで親に庇護される
・複数の子がいると扱いに差が出る
といったところでしょうか。
なろうの作品では、主人公の親は毒親で主人公を虐待していたり、仮面夫婦だったり、逆にあまあますぎて優しい虐待になるレベルで溺愛していたりすることが多いようです。
その変形が継親とお家乗っ取りでしょう。
継親は、主人公の片親(たいてい母親ですね)が亡くなるパターン。継母が連れ子、もしくは異母姉妹を連れて乗り込んでくる、というものです。
お家乗っ取りは、主人公の両親が亡くなるパターン。叔父などの近親者が家に入り込み、爵位など、本来主人公が継承すべき地位や身分を簒奪する、というものです。
どちらも、亡くなった親自体はいい人だったという設定にしやすいので、実親に虐待される設定よりも、親を慕う思いをさらに無理なく主人公に持たせやすくなるわけです。
健気な主人公像を構築しやすく使いやすいテンプレと言えるでしょう。
一方、主人公とそのきょうだいの関係は、やや単純です。
特に、同性のきょうだいは敵対者として描きやすい。異世界恋愛系ではクソ妹という有名なテンプレがありますが、男性向けでも、追放された主人公から嫡子の座を奪い取る、あるいは家の後継者としての立場を争うという行動がよく描かれているように見受けられます。
異性のきょうだいですと、妹や弟を庇護対象としたり、『血のつながりのない義兄弟姉妹』というクッションを入れて、恋愛対象にしたりという傾向があるようです。
さらにひねりを加えて、『実はきょうだいの枠を越えて、異性として好意を寄せているんだけどツンデレ』『愛情余って憎さ百倍』的な拗らせを描くものもあるようですが。
いずれにしても、とてもじゃないですが、いくら物理的、地位的に恵まれていても、辞書的な『家庭』という言葉の定義である『社会の最小単位である家族と、家族が生活する場』とは言いがたいように見えます。
けれども何度も言うようですが、中世ヨーロッパでは、子どもは「未熟な小さい大人」だったわけです。
能力も低く、大人の世界を混乱させる者。
なので幼児にもしつけに鞭を使うのは当然だったというのはよく知られていますが、スウォッドリングという、手足をぐるぐる巻きにして固定して放置するという習俗もあったそうです。
現代日本の概念では、完全に身体的虐待ですね。
他にも、赤ん坊が泣き止まない?罌粟の乳汁――アヘンの原料ですよ!――をミルクに混ぜて飲ませとけ、とかね。
召使い扱いが当然とかひどい?
子どもは労働力です。
社会的弱者だから庇護しなければならない、という発想がなかったらしいというから恐ろしや。
いずれにしても、ナーロッパにおける貴族の家庭は、これらの史実寄りな描写がないことを考えれば、現代日本の一般市民家庭を、現代日本の倫理観で描いているものとして考えるべきでしょう。
そのどちらも書き手が書きやすく、読み手が受け入れやすいという、テンプレの使いやすさを示すものです。
では、現代日本の家庭に準拠しているというなら、なぜ、よりによってわざわざ破綻した家庭を描く必要があるのでしょうか?
もちろん、『主人公の造形に鬱設定が必要』『主人公に同情したり、感情移入したりしてもらうためのフックがいる』『クソ妹などの敵役を配置しやすい』といった、物語の進行上の必要もあるのでしょう。
ですが、そこまで劣悪な状況に、一時的にとはいえ主人公が置かれている物語を、書き手が、読み手が強く求め、ドアマットヒロインがテンプレとして人気を博しているのはなぜなのでしょう?
もちろん、物語には盛り上がりが必要です。
いちばん簡単な盛り上げ方は、主人公が成長し、立場を獲得していくというクライマックスを設定し、対比として冒頭部分で主人公を貶めておくというものでしょう。
書き手としては、物語構成のテンプレにしやすい。
ですが、主人公というのは、読者がその視点を通して物語の世界を体験する存在でもあります。一人称の場合は、特に、感情移入というより一体化に近いかもしれません。
ならば読み手が、自分の分身が虐待され、蔑まれている物語を読みたがる理由とはなんなのでしょう。
筆者は、『不条理な評価と待遇を受けていたのが、完全に回復され、主人公が善と認められ、敵対者は悪として懲らしめられる』という快感にあると考えています。
家庭内という設定で求められているのであれば、そこにあるのは親に認められようと努力するも、思っているほどは認めてもらえないという失望を補ってあまりある何か。
そう考えると、クソ妹というテンプレも、泣きわめくだけですべてを――それこそ親の注目から上の子である自分の持ち物すら――手に入れられ、何をしてもすべてを肯定されている(ように見える)年下のきょうだい、いや赤ん坊への嫉妬と見ることができるのではないでしょうか。
しかし、この嫉妬は表に出すわけにはいかない。
おにいちゃん/おねえちゃんでしょと、年上だからという理由だけで、何かを譲り、諦めざるをえないよう促し、あるいは強制してくるのは、認めてもらいたい相手である、親だから。
そう考えると、本当にずるいずるいと言いたいのは妹ではなく、自分を見てほしい主人公であり、作者であり、読者であるのかもしれません。
学校と家庭の共通点は、構成員が基本的に固定された、閉じた人間関係しか構築されないこと。
一度弱い立ち位置が定められてしまった者には、その中では逃げ場所というものが全くありません。
その閉じた人間関係の外に出て行くというのは、カーストの中心人物の視点では放逐ということになるのでしょう。
学校ならば退学=没落とほぼ同義。家庭からの縁切りもまた、野垂れ死にの未来を暗示させるもの。
価値の低い存在の価値が消滅し、存在も消え去った認定がされるわけです。
だからこそ、その外側で価値を認められた時の逆襲が想定外のクリティカルヒットとなって、閉じた人間関係も大きく転じる契機になるものと思われます。
2024.5.21 一部内容を訂正しました。