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ナーロッパ創世記

本日も拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。

 今回からはテンプレの疑問に踏み込んでいきたいと思います。

 では、最初の疑問はこちら。


 【なぜ、異世界ものは、なんちゃって中世ヨーロッパ風味のものが多いのか】


 もちろん中華系な作品もあります。近代日本やスチームパンク的な世界観を持つ作品もあります。

 ですが、圧倒的に多いのはドレスの令嬢がなぜか学校に通う、王太子が俺様な世界。

 剣と魔法の世界はあっても、刀と陰陽道の世界というのはなかなかありません。


 その理由を一言で言うなら。


 【使い勝手がいいテンプレだから】


 これに尽きると思います。

 では、なぜ、なんちゃって中世ヨーロッパ風味な世界設定――長いので以後『ナーロッパ』と呼びます――は使い勝手がいいのか。

 これは、【読み手書き手の双方に馴染みがよく、機能性もいい世界観だから】ではないのかというのが、筆者の一応の結論です。


 そう、意外と中世ヨーロッパっぽい世界はイメージがしやすい。

 この「っぽい」が大事。

 地域差?年代?

 こまけえことはいいんだよ!

 いやそこが大事、という、気になるならない論争は別の話なのでさておき。

 なんとなくこんなものというイメージを持ちやすい、そこそこ異文化を感じる、『ここではないどこかのお話の背景』としてぴったりなのがナーロッパなのでしょう。


 服といえば、男性はシャツとパンツ、女性はロングスカートが基本。

 食事といえば、パンとエールとワインがメイン。場合によっちゃ芋。


 これが、例えば、主食が肉だったらどうでしょう?

 植物由来ならまだしも、動物由来のタンパク質しか出てこないとなったら、その理由をまず考えなきゃならなくなるわけです。

 たとえば、確かに植物はあるけど有毒物質が分解できないのでそのまま食べることはできず、分解できる生物に食べさせて、育てたその肉を食べるしかない、とか。

 そしてそれが人間と相似形だとしてもしかたがない。生き残るためには、とか。

 肉が有毒化してないか抜き打ち検査するため、検体を捉えてその肉を食べなければならない、とか。


 ……ゾンビ・アポカリプスものの、ゾンビ側の理論背景ぽくなっちゃいますな。どっちかっていうと近未来系。


 そう、ナーロッパは中世っぽくなくてはならないのです。

 なぜなら、技術や知識が原始的だから。そして人口が近代以降とは比べものにならないほど少ないから。

 原始的ということは、ごくごく当たり前に現代のわたしたちが享受している知識や技術でも、十分に知識チートで俺tueeeがやらかしやすい、ということでもあります。

 また人口が少ないということは、巨大な集団というものが作られにくい。

 それは裏を返せば、個人が組織に埋没しにくい、台頭しやすいということでもあります。相対的なものですが。


 もちろんイメージのしやすさでいうなら、現実世界の方が上です。

 ですが、アパートの一室や建売住宅から始まるお話はどうしても身の丈サイズ。

 小さなところから世界規模へとお話を膨らませることもできますが、それにはやはり技術が必要になります。

 なにより、読み手書き手の日常と地続きの世界で、そうそうドラマチックな、あるいはロマンチックな展開など望めないじゃありませんか。

 それに、個人が埋没しやすく、価値を認められにくい状況での俺Tueeをするには、かなり極大な才能が必要になります。


 では、なぜナーロッパは馴染みがあり、イメージを作りやすいのか。

 筆者の推測する理由は以下の通り。



 1.幼児期から馴染みまくりな昔話の世界観

 筆者はなろう掲載作品をすべて見たわけではありません。

 ですが、作品が基本日本語ということは、なろうユーザーの方はおそらく日本人、ないしは日本語がネイティブレベルの方だと思います。

 つまり、日本語を通じて、日本文化にどっぷり馴染んで生活してらっしゃる。

 

 あたりまえのように享受している日本文化、特に幼児教育を考えてみましょう。

 子どものころ、どんな物語に親しんでいましたか?


 日本語の幼児教育というのは、道徳的精神性の涵養という面もあってか、わりと勧善懲悪ストーリーな昔話の読み聞かせ、語りなどの比率が高いようです。

 が、その中身は日本の昔話ばかりではありません。

 筆者の見る限りにおいては、日本昔話と同じくらい、いやそれ以上に、世界じゅうの昔話に触れている。

 その多くがヨーロッパのものであるように思われます。

 これは単純に、国の数だけ昔話の量もあるということに加え、有名な採話者の存在があるようです。

 ……ペローとグリムによってびっちり整えられたスタンダードって、強い。

 それをアニメにしたディズニーも強い。


 結果、日本語ネイティブは「桃太郎」や「一寸法師」と同じくらい「シンデレラ」や「白雪姫」にどっぷり浸かった幼児ライフを送ってきたわけです。

 特に昔話には国境を越えて類話が多いこともあり、ヨーロッパならスラヴもゲルマンもラテンもケルトも関係ねーべとばかり、北欧も南欧も同じような、なんとなくのっぺりとした異文化のイメージを、王子様とお姫様が、継母に虐められる娘が、三人きょうだいの末っ子が必ず幸せになるおとぎ話の世界観として、共有しながら成長してきたのでした。

 めでたし、めでたし。


 ……いや、終わってませんからね?

 他にも理由はありますから!



 2.昔懐かしなRPGの世界観


 ナーロッパ的な世界観を持ったRPGというのは、けっこう昔からありました。それこそゲーム機がインターネットに接続するものではなかったころから。

 ではなぜナーロッパ的世界観がRPGに採用されたかというと、一言で言うなら都合が良かったから、ということになると思います。


 ナーロッパの特徴的な土地のイメージとはなんでしょう。

 黒い森と村。

 石造りの街並み。

 重厚な城壁に囲まれたお城。

 たくさんある王国と、たくさんいる王様、てなところでしょうか。


 じつはこれ、RPGの持つ特質に都合がいい。

 点在する集落や城は、開かれた空間のようですが、場面として考えるとじつは閉ざされています。

 たとえばお城。城塞都市という言葉があるように、実際の城はその中で生活する領主やその家族、家来たちの生活物資を作り、補給する平民の拠点とほぼ一体化しています。

 しかし、RPGのステージにはそんなものはありません。あっても、それは別のステージとして扱われてはいないでしょうか?


 RPGは戦闘、休息、補給、情報収集などの行動によって、PCが獲得できるものが変わりますが、これらの行動は区切りがついていた方がゲーム的処理がしやすいわけです。

 戦闘が終了すると、その舞台になっていた場所から出たところで行動の選択画面が出てくる、なんて状況見たことありませんか?

 そう、あれは行動終了にあわせて場面を切り替えることで、区切りをつけているわけです。

 いや、さすがに個人の家に侵入したあげく、壺を割ったり収納家具あさったりってのが、家出たところで「もうすんだこと」になってるのはどうかと思いますが。


 もう一つ、RPGとの相性として上げられるのは、魔法と復活の奇蹟の概念ではないかと筆者は考えています。

 ゲーム的に考えるならば、魔法は戦闘のリソースという点に目が行きます。また行動の選択肢を多様化するだけでなく、物語を円滑に進める要素という意味合いもあるでしょう。

 別名、ご都合主義。

 ですが、RPGはゲームであると同時に物語でもあるわけです。

 魔法もスキルの一つとして考えるならば、登場人物であるPCのキャラクターづけという面もあるのではないでしょうか。

 物理的攻撃力は低いか皆無、でも魔法や知的方面ならまかせろ、という感じに。

 この場合「できないことがある」というのをうまく使わないと、なろう名物俺tuee風味が漂ってしまうので、用法用量を守ってお使いいただく必要があるわけですが、そこはさておき。


 復活の奇蹟についても、ゲーム的な要素と物語的要因としての必要性があります。

 風土の違いから来る文化圏の相違とも関連するのかもしれませんが、実は日本には、生前同様、いやむしろ無傷の状態にまで戻ったところで蘇生するという概念がもともとなかったりします。

 日本神話のイザナミは、腐乱死体だし。

 昔話系も、臨死体験をした老人の話だったり。

 愛する者が死んだからといって、埋葬もできずに手元に死体を置いておいたり、あるいは死体を食べてしまったり、という話はあるが、どんな無惨な死に方をした者でも生き返る、という話はない。


 生き返るくらいならば、むしろ生まれ変わるというのが和テイスト。

 前世の記憶持ちでした、赤ん坊の身体に生まれ変わりの証拠がありました、生まれ変わったけれど執着心が捨てられずに、蛇になって現世に戻ってきちゃった、という話なら、わりとごろごろしていたりします。


 つまり「おお、死んでしまうとはなにごとだ」なんて言葉で、生き返らせてくれるという発想がない。


 だがこれは、ゲームと物語の展開上、不都合がある問題だったりします。


 ゲームの場合、前回失敗したところからやりなおせる根拠がなければ、また最初からやり直しになるわけです。

 最初簡単にやれたことは、反復するとつまらなく感じて当然。つまらないゲームをやりたがる人はいない。

 つまり、ゲーム的には可能な限り無意味な反復を消す理由づけが必要となる。


 なら、失敗は絶対起きないようにすればいいじゃないか、そうすれば反復だって起こらなくなる、と思うかもしれません。

 しかし、物語の展開として、強敵と戦って、一回で必ず勝てる、ということはありえないのです。

 だって一回戦っただけで勝てるならば、それは強敵とは呼びません。

 たとえ「やったか?!」「この技でしとめられない敵などいない」などの、やってないフラグを立てそうな台詞を連発しても倒せてしまう敵は、ただの雑魚です。


 しかし、強敵と戦った場合、再戦を挑める理由が必要です。

 敵役にとって主人公が恐るべき敵だった場合、戦闘して倒した主人公たちを生かしておく理由って、あんまりないんですよね。

 寝返らせるなど画策していても、「世界の半分をくれてやr「断る!」的なやりとりがされてしまうと、それ以上交渉の余地がなくなってしまうわけで。

 ならば死ね、いうことになるわけですが、主人公の死によって、物語が終わってしまっては意味がない。


 死んでも生まれ変わればいいじゃないか?

 いくら生まれ変わりが保証されていても、主人公が育ち直すまで、どれだけかかるんでしょう?

 それまで、状況はフリーズしたまんまなんでしょうか?

 勇者パーティが死んで魔王が元気に生き残ってしまったら、世界は人類滅亡に向かってもおかしかない。

 ですが、それでは主人公たちの物語は完全に終わってしまいます。それでもプレイヤーはさらに攻略を進められるでしょうか。

 感情移入をし、育ててきたキャラクターの死――消滅で、「やったーニューゲーム開始だー」と喜べるプレイヤーは珍しいのではないかと筆者は考えます。


 そんなわけで、復活の奇蹟が必要な以上、むりなくはめこめる世界観としてナーロッパが設定されたのではないでしょうか。

 魔法と、復活の奇蹟の根幹となる宗教との関係性が、ナーロッパでは設定されていないことが多いのも、この使い勝手の良さを優先してのことかもしれません。

 このあたりのことは、史実のテイストを入れてみると独自性が出せるところかもしれません。

 宗教の権威ががっちがちに強すぎて、魔法使いどころか王権まで宗教組織の下部に位置づけられているとか。

 逆に、王侯貴族が神秘主義に傾倒しすぎて教会に閑古鳥が鳴いてたりとか。

 

 なに?「ふっかつのじゅもんがちがいます」?うわなにをするやm(ry


 ……さーて、クローンナンバーが一つ上がったところで……(ゲームが違います)。



 3.現代日本文化との近似


 近代以降、日本人の生活がはなはだしく欧米化しているといいます。

 が、令和の時代、欧米化をいちいち意識して生活している日本人って、いったいどのくらいいるんでしょうかね?


 白飯よりパンを食べる人は普通にいそうですし、服すら日常に着るのは洋服で、成人式や元旦でもなければ、むしろ和服を着てた方が目立ちます。


 美意識にも欧米化は及んでいます。

 最近はあまり使われなくなった言葉ですが、少し前、特に異世界恋愛ジャンルで自己肯定感の低い女性主人公(※ ヒロインと表記してしまうと別の意味が入ったりするので、あえて回りくどい書き方をしています)が、自身の転生前の外見を「平面顔」「顔の平たい民族」という言い方をしていたことがありました。

 しかし、顔の彫りの浅さ、一重まぶたといった特徴はアジア圏の特徴でもあったりします。

 それに対して異世界ジャンルの美形は「彫りが深い」「鮮やかな色の髪や目」といった表現がなされています。

 さすがに寒色系の髪の色は違いますが、金髪や銀髪に碧眼、彫りの深さという特徴は、ヨーロッパ系の人の顔立ちに見られるものだったりします。

 けれど、江戸時代の美意識では、この欧米系の顔立ちというのは美しいと認識されるものではありませんでした。

 黒船来航時の錦絵などを見ると、ペリーの顔はかなりの赤ら顔に、そして魁偉な容貌に描かれていたりします。

 写真などと見比べてみると、価値観のフィルターでどのように見方が変わっていたか見ることができるかもしれません。


 逆に、ナーロッパの世界観もかなり現代日本化がされています。その方が描写するときイメージがしやすく、困らないからなんでしょうけど。

 一番わかりやすいのが、学校の存在です。


 史実的には、中世に王侯貴族の子女向けの学校というものはありません。当然文化祭や運動会があるわけもない。

 男性は従士として、他の貴族の城に住み込みでマナーや教養、剣術などを働きながら学びました。

 女性はというと、行儀見習いという形で、これまた他の貴族の屋敷や修道院に住み込みで、教養やマナーなどを学びました。

 聖職者以外に知識人がいなかったので、城や屋敷では礼拝堂つきの神父などが家庭教師をしたとかしないとか。


 そもそも、中世に現代日本のような、子どもという概念はほとんどないんです。

 いるのは「小さく未熟な大人」。

 子どもというものの概念が定着したのは近代市民革命前夜。ルソーが子どもを発見してから、だそうです。

 そんなわけで、貴族でも読み書きできない人というのもけっこういたらしい。

 このへんの事情は中国の戦国時代などと似ています。遊説家の言葉が故事成語として残されているのは、教養がなくて難しい言葉じゃ興味を持ってもらえないから、たとえ話で話をしたからという話がありますね。



4.現代日本社会構造との近似


 「あれ、さっきの理由と同じ事を書いてる」と思われたかもしれませんが、コピペミスではありませんのでご安心を。

 前項は『文化』。この項は『社会構造』についてとなっております。

 けれども現代日本社会は民主主義。ナーロッパは基本王権が主権という絶対主義。

 民主的社会と、封建的社会のどこが似ているのかとつっこまれそうですが、それは因習的な面で、です。


 SDG'sの目標にもダイバーシティの実現が含まれていますが、それは裏を返せば現代社会においても多様性の受容度は低い、ということでもあります。

 封建社会における支配の正当性を裏打ちするものの一つは血統です。それによって維持される身分階層構造はなくても、現代社会においても、他者にどう圧力を加えることができるかで生じる学校のスクールカースト、社会に出れば職種、雇用形態、肩書き、性別などで複雑に構成された地位の階層があり、そしてそれぞれの階層は他の階層との相違を強調するため、画一的になりがちです。

 それらの画一性の維持がどのように行われるかというと、以前から伝わる価値観の継承によって行われている側面があるわけです。

 たとえば、未だに女性に求められることは、若いうちに結婚をし、子どもを産むこと。家事をしたり、他の家族をサポートしたりすることという従来の性差を強調するものであることが多かったりします。

 逆にキャリア面で女性がどんなに努力しても、能力を認めてもらえることはあまりなく、むしろ人当たりの良さ、他者をどう引きつけるかという魅力、若さや外見の美しさが評価されている。

 そしてそれは伝統的であるがゆえに動かしがたい価値観で、それゆえに生きにくい。

 そう感じている人が求める物語がナーロッパ的な世界観の上に、構築しやすいのではないでしょうか。


 結論?:低水準なジェンダーギャップ指数が、ナーロッパを維持している側面がある。

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