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わかりやすさの意味(その7)~ハーレムと逆ハーに見るガラスの障壁~

本日も拙文をお読みいただきまして、ありがとうございます。

 前回は、ハーレムも逆ハーも、最終的にはその中心となる主人公の理想の家族関係の獲得が目的になっているのではないか、という推論で終わりました。

 血の繋がっている家族=もともと所属していたコミュニティから疎外されたので出て行き、新しいコミュニティを作り上げ、あるいは参加することによって、愛してくれる=異性愛的にも家族愛的にも、自分を肯定し受容してくれる複数他者との関係性を獲得することで幸せになる、ということですね。

 これにざまあ要素などが入ると、元のコミュニティは主人公が抜けたことで崩壊するというのが鉄板だったりするわけです。


 しかし、共通点があるとはいえ、ハーレムと逆ハーには大きな違いがあります。

 性別が逆転しているだけで中身はいっしょでしょ?

 いえいえ。どちらもキーワードとしては『有用性』が重要になると筆者は考えていますが、その方向性はむしろ逆。


 幸せになる前ふりというのか、『もともと所属していたコミュニティからの疎外・否定』の部分が、男性向けと女性向けでは異なるということは、すでに見てきた通りです。

 女性向けは悪役令嬢ものに見るように、有能であっても評価されない、あるいは有能であっても「かわいげがない」というように女性性を否定された上で、バカ王太子のような無能な男性と、ヒドインのように女性性しか評価されない女性との組み合わせによって、断罪される=正論パンチが通じない状態へと追い込まれます。

 そう、女性にとって有能さというのは単純な美点ではなく、女性としての価値を、そして全体的に評価を低減させる欠点として作用してしまうのです。

 しきたりや規則、あるいは社会的通念といった規則を遵守し、男性の規定する――異世界もので描かれる社会構造なんてまるっきり封建制ですからね?――身分など、階層社会に正しく適応してきたはずの、その努力の価値が、正しいという理由ですべて否定される。

 これは有用性を高める=優秀であればあるほど叩かれるという、現実社会における、女性に向けられた理不尽なダブルバインドそのものです。

 だからこそ、『優秀な女性』である悪役令嬢の敵役として、ヒドインのように『優秀でないからこそ、認められ求められる』存在が対置されるのでしょう。

 別に因習村になど赴かなくても、もともと所属していたコミュニティそのものが因習にどっぷり染まったムラ社会だったというヲチ。下手なホラーより怖い現実。


 個人的には『優秀であれ、ただし男よりも優秀ではあるな』と明言しているようなこのダブルバインドは、すなわち『女性であるだけで、どんなにクズで無能な男性よりも下の存在であるべき』と言っているように感じるため、極めて不快なものだったりします。

 経済的にはいわゆる『ガラスの天井』、男女の収入格差にも結びつく問題なだけに。


 一応注釈的に説明を入れておきますと、『ガラスの天井』とは、社会での活躍が性別によって頭打ちにされてしまう状況をさす用語です。どんなに能力的に優秀であっても女性であるというだけで、妊娠や出産を選ばなくても選べる性だというだけで、昇進をストップさせられてしまう。

 結果、女性の生涯収入が男性より引き下げられているというものです。

 これ、ダブルバインドでいろんな方向からメッタ打ちにされている女性にとって、男性の底辺のさらに置かれているように思われるような状況ですよね。

 いいとこどりをされた上に搾取されてるようなものですから。リアルでドアマットはしたくないですね。


 一方、男性向けでは、『もともと所属していたコミュニティからの疎外・否定』では、有用性と男性としての価値は対立しません。というより、男性としての価値は、有用性の有無を論じる前ではほとんど意味を成さないようです。

 たとえば「ゴミスキルを獲得してしまったため、嫡男としての地位を失って放逐される」、「荷物持ちが戦力にならないからとパーティから追放される」などの追放ざまあで、主人公の男性的魅力って、語られているのを筆者は見たことがありません。

 逆に、男性的魅力を語り倒す話ってどうなるんでしょうか。

『異性を引きつけるフェロモンをむんむん撒き散らしちゃう体質のせいで、本業に支障が出ちゃうからと追放されました!~明日からヒモ稼業がんばります~』みたいな作品があったら読んでみたいと思うんですが。ハーレムエンドではなくハーレムスタート。どう収拾を付けるのか。


 それはさておき。


 幸せになる=『新しいコミュニティで肯定的受容的他者との関係性を獲得する』段階でも、男女差が見受けられます。

 女性向けの場合、「かわいげがない」=女性としての価値をマイナスにするほど有能な部分を持つ女主人公に対するスパダリの肯定的反応は、二パターンあるようです。

 一つは、すでに女主人公に惚れきっている=女主人公への女性としての価値評価が天元突破している場合。「美しい」「こんなにかわいいのに婚約破棄をするだなんて見る目がない」などの台詞が盛り込まれていたりしますね。

 この場合、有能さがマイナスに影響しないどころか、新たな魅力発見!とばかりに、ひたすら女主人公を女性としても魅力ある存在として肯定、受容し続けます。

 つまり、このスタンスをとる場合、あくまでも有能さは女主人公の特性の一つであって、その本質ではないと認識されていると考えることができます。


 一方、有能さをまず肯定的に認めた場合、スパダリは女主人公の特性の能力をかってスカウトをし=もとのコミュニティから連れ出し、上司ポジションからバリキャリぶりをを賞賛したりします。

 やがて業務的なものだった肯定的評価から、その有能さを支える努力家、真面目さなどの人間性への好意に、さらに恋心へと変化して……というもの。

 どちらも女主人公の所属していたかつてのコミュニティに「見る目がない」ということがさりげなく主張されています。


 逆に有能さがそれほど主張されない場合でも、スパダリからの溺愛という形で、最終的には女性としての評価を全肯定されるようです。

 このハッピーエンドのテンプレは、つねに現実社会で女性性=その多くが外見に起因していたり、気配りという言葉で集約される感情労働能力だったりと、わりと努力で他者からの評価が変えにくい部分――だって好きな異性のタイプなんて完全固定制の嗜好ですからね。そんなもんに左右されても、男性より小柄でとかいつまでも年とらない感じでとか無理ですから!――を否定的に評価され、打ちのめされている読者書き手に対する慰撫として機能しているのではないかと筆者は考えています。

 

 これに対し、男性向けの方では主人公に対する外見の評価なんてほとんど出てきません。「かわいい」はおろか、「美しい」「かっこいい」などもほとんどない。地味で目立たないというのが基本的な自己評価で、身長伸びなくて牛乳飲もうかな、という愚痴が入ったりしているくらい。

 努力家などの肯定的な性格描写もほとんどなく、むしろ残念という表現がされたりしています。


 これはなぜかというと、男性としての価値を外見や人間性ではない、それ以外の場所に読み手や書き手が求めているから、ということになるのでしょう。

 では、男性向け作品における男性としての価値は何か。

 筆者は、何らかの成果を出す能力、有用性とニアリーイコールなのではないかと考えています。

 だからこそ、有用性を論じる仲で、わざわざ男性としての価値について言及がないのではないだろうかとも。

 

 無能と判断されての追放から始まる場合でも、別の誰かがその有用性を認めてくれる。

 これは女性向けでも追放スタートによくある展開ですが、男性向けの場合、生産や戦闘能力など、発現する有用性が、結果のわかりやすく目に見える能力に特化しているというのが大きな特徴でしょう。

 しかも、そのような能力を身につけるのに苦労することはない。


 よくあるのが、他人の手が借りられないような環境でスローライフします的なストーリーにもかかわらず、ちゃっちゃっとやっているように描写が軽いパターンですね。

 ちなみに、実際田舎暮らしをしてみると、スローライフはぜんぜんスローではないと言われるそうです。

 そりゃそうですね、機械化された作業工程を、人間の手でやらなければならない以上、とんでもなく手間と時間のかかる重労働になるわけですから。

 だからこそ農耕社会では『協力して集団作業を行うことでそのコミュニティの生産量を上げる=飢え死にの可能性を減らす』などのために、『結』といわれるような相互協力システムを作ってきたわけですが。


 しかし、そこに魔法だの神様からもらったアイテムだの能力嵩増しだのレアスキル獲得だのといったステキ要素をぶっこむことで、負担を軽減しまくったあげくに、家内制手工業レベルのものを大規模機械化工業レベルにまで拡大再生産、社会構造まで変えてしまうのがなろう系名物内政チートだったりします。

 あれ、求めていたスローライフは……?って主人公のぼやきには、そもそもスローなライフを選んでないのだからしょうがないんじゃないかな、とつっこみたくなりますがそこはさておき。

 

 文明的には異常ともいえる生産力や戦闘能力などを発揮することによって女性が近づいてくる。それに伴って富とか地位とかが発生、するとまたそれを求めて女性が寄ってくる。その結果ハーレムができる、というのが男性向けハーレムものの構造の一部であるように思われます。

 逆に言うなら、能力を発揮すると社会的価値をすぐに獲得できるという意味でも、直接戦闘能力から戦局をひっくり返すだけの魔術などの能力持ちという意味でも『強い』のが、男性向けジャンルの主人公の特徴であるようです。

 これには、男性にとっての魅力評価が、女性のようにダブルバインドのない、社会的に強力な存在であること一本に絞られているからともいえます。

 「息しているだけで褒められる」「俺Tuee」に人気があるのも、この魅力評価に起因するのでしょう。

 前者は強いとか強くないとか、能力評価が魅力評価に絶対に結びつかないで、ただひたすら受容され肯定されるテンプレ。

 後者は能力評価=魅力評価という価値基準に則って全肯定されるような主人公のテンプレ。


 ちなみに。

 ソクラテスの定義したアレテー(徳)というのは、「●●としての性質・機能が優れている」ことなんだそうです。

 例えばナイフは、「よく切れること」こそがアレテーであり、どんなに技術的美術的に素晴らしかろうが、華美な装飾は実用的用途に関係がないから評価されない。

 同様に人間も「善く生きること」をアレテーとされているわけですが、そもそも人間の性質なんてものは、用途が定まっているナイフと違い、制限されるもんじゃないでしょうがと筆者はつっこんだりしています。多様で当然。

 加えて「善く生きること」の定義も曖昧じゃあないかな、などとも。


 なんでいきなりこんな哲学風味な定義をぶっこんできたかというと、この『幸せになる』という、ハーレムおよび逆ハーの成立要因と大きく関わっているからだったりします。


 有能、美などトロフィーとしての価値、見ていて快だから、という有用性『だけ』を認められ、求められても嬉しくないのが人間です。

 いや、努力した成果を認められるのは嬉しいんですが、それは単純に成果だけでなく、成果を出すに至った努力や過程の方がむしろ重要と感じていたり、認めてほしいところではありませんか?

 ならばどんなに磨いても整形でもしないかぎり――整形にしたって、全身骨格まで変えることはできませんから、顔だけいじっても美人体型ってそうそう手に入るもんじゃないですしね――、努力が成果につながりにくい上に、外見に左右される女性性、女性らしさは、年齢を重ねれば重ねるほど肯定的に評価されるより否定的に判断されることが多くなってゆくわけですから、なおさらともいえます。

 感情労働に至っては、そもそもやれて当然とばかりに、無償でサービスされるシャドーワーク扱いがほとんどですし。

 

 認めやすいところ、評価しやすいところだけではない、もっと違う、有用性では測りきれないところこそ評価して。異性としても自己実現面でも、多面的にまるごと受け入れてほしい。むしろ短所があっても、短所があるからこそ人間味があると考えて肯定してほしい。

 それもたった一人じゃ足りない。もっとたくさんの、それこそ世界の集約としてのコミュニティすべてに認められ(全肯定)されたい。

 それが、逆ハーおよびハーレムものにおける、肯定的受容的他者との関係性のもとにある欲求であり、現実においてはつねにしいたげられ、無視され、否定的拒絶的な関係から苦痛を受けているという不満によるものではないかと筆者は考えています。

 いくら主人公――とそこに自己を仮託する読み手書き手――に肯定された疑似体験を通じ、充足させるのに必要とはいえ。

 その関係性を結ぶ対象として想定されているメンバーこそが、トロフィーワイブズ、トロフィーハズバンズとして価値の高い、美形で、有能で、富裕で、権力があって……という有用性ガン積みなのはさておきまして……。


 有用性以外を評価し受け止め完全に受容してくれる相手=溺愛する逆ハー、ハーレムのメンバーというのは、つまりある意味おかんじゃないかなとも筆者は考えてしまいます。なにがあろうと受け止めてくれ、全部いいようにしてくれるわけですから。

 そんな相手にどっぷり受容されたい、自分をすべて預けてしまいたいというのは、つまり俗に言う「ばぶみを感じておぎゃりたい」ということではないかとも思うのですが、そこまで庇護される立ち位置を求める理由というのも、現実世界で向けられる否定的評価にあると推測します。

 そのような評価を向けられることにうんざりしているだけではありません。

 以前「かわいい」という言葉のあいまいさについて述べたときにも、庇護される子どもの位置づけを得ることで、大人としての責任と義務を回避しているのではないかということを述べたかと思います。

 困ったことに女性性、男性性の評価というのは、プライベートな関係性の中でも強くなります。しかも社会的通念によって構築された価値観は、自意識を束縛するパノプティコンとなって、どんどんと思考や行動を規制してしまい、結果、過剰適応を起こす要因となるわけです。

 拒食症などの摂食障害はわかりやすいですね。『太れば醜悪になる=否定される』ことを恐怖するあまり、食欲という人間の三大欲求すら抑制しすぎてぶっ壊してしまうわけですから。

 しかし、幼児退行している、あるいはそれを役割演技している間は大人としての責任や義務が回避できるので、おぎゃってる=理想の異性に甘えている間は、それらもすべてなかったことにできるわけです。


 話を元に戻しましょう。

 男性向けでは、ハーレムものであってもジャンルを恋愛と括られることは少ないように思います。

 実際、異世界恋愛などのジャンルにあるのは女性向けばかり。

 タグを見てみても男性向けで恋愛に関するものを筆者は見たことがありません。

 逆に『属性』……幼馴染み、異種族、人外など、主人公の周囲に配置されるキャラクタについてはわりと詳しくタグづけられているようですが。

 

 この、恋愛の一形態であるはずのハーレムを題材にしているはずなのにジャンルが恋愛じゃない作品が多いぞ問題の発生理由は、二つ考えられます。

 一つは、男性視点の恋愛ものが、異世界ものでのハイファンタジーや文芸からのヒューマンドラマとか純文学など、多岐にわたるジャンルに分散しているため、実際数が見えにくいということ。

 もう一つは、ハーレムである以上存在するはずの『1人のキャラクターに対し、数多くの異性キャラクターが恋愛対象として対置され、そのほぼ全員から好意を向けられる』……という状況が極めて薄味であること。

 女性向けでは溺愛タグがついていなくても、スパダリにねっとりもっちり愛されるというのが大きなハッピーエンド要素になっていますが、男性向けでそこまで濃密な恋愛状態って、描かれているのを筆者はあまり見たことがありません。女性向けのジャンル用語で言うなら、いわゆる友情エンドに近い形のような気がします。


 いや、男性向けである以上サービスシーンの必要性もあるのかもしれませんが、肉体的接触、セックスはある。しっかり描かれる。場合によっては子どもが産まれる、托卵されるなんて描写もあったりするようです。が、それでも相思相愛であるはずの関係でも、互いを肯定しあうような言動は匂わせ程度。

 せいぜいが男性主人公の「すごいな」「さすがだな」「綺麗だ」「かわいい」「必要だ」といった、短いセンテンスでハーレムメンバーが顔を赤らめる、他のハーレムメンバーからからかわれる、なんてシチュエーションが描写されたりとかでしょうか。

 これって男性向けでは恋愛状態=セックスで繋がる状態、と定義されている、ということになるのでしょうか。

 もしくは行動、というか肉体的接触があれば好意を互いに持っている状態として了解されており、それゆえにしつこく肯定しあう必要はない、ということなんでしょうか。

 バカ王太子の「側妃にしてやろう」からの「お前は俺を愛していたんじゃないか?」的発想ですね。「セックスしてやるのがご褒美」「セックスだけしておけば問題はない」という発想でもあります。

 それとも、単語程度でも有用性を賞賛しておけば、女性の好感度は維持できる、という共通理解が読み手書き手に存在しているということなんでしょうか?

 なんというか『釣った魚に餌はやらない』という言葉が浮かんで仕方ありません。

 それほっといたら餓死するやつですよね。愛だけでなく情も。


 ハーレムものの分析からは外れますが、『ドアマット扱いや罵倒、束縛を繰り返してきた女性の前で男性主人公が自殺する、あるいは失踪する。女性は悲嘆し後悔する一生を過ごす』というような作品をたまに見かけることがあります。

 ドアマットしてたけれど溺愛されて幸せです。あ、虐待してきた人たち?ざまあされたみたいですけど幸せなのでもうどうでもいです、という、女性主人公のハッピーエンドに主眼が置かれている女性視点作品に対し、主人公がハッピーエンドかどうかはさておき、虐げてきた人が後悔し不幸になる方が強く描写された、ざまあというか復讐に大きく重心が動いているのがわかると思います。

 もちろん、このような特徴が男性視点作品すべてに見られるとは思っていません。

 しかし、『有用性以外のところを見てほしい、それだけじゃないありのままのわたしすべてを受け入れて、認めてほしい』という女性向け作品と異なり、男性向け作品というのは『有用性で勝負、認めてくれなかったら別の認めてくれそうなコミュニティを探しに行こう、そこで好みの相手に欠点も含めて肯定してもらおう。ついでに認めてくれなかった連中は酷い目に遭え、後悔し続けろ』というものであり、他者を肯定するのはあくまでもその有用性を肯定するものである、という傾向があるように思われます。




 文芸は、時代に対する鏡であるというそうです。問題点などを取り上げ、批評し、あるいは盛大に戯画化する。

 それはなろうの作品だって変わりないと筆者は考えています。

 少なくとも、徹頭徹尾100%生成AIが出力した文章ではない、人の手によって書かれたすべての作品は、今の社会に生きる作者のその視点、思考、感じたことから作り上げられているわけです。

 ならば今の社会が変わらなければ、抑圧や搾取をされていると、不当な評価をされていると感じる人が減らない限り、なろう系とまとめて扱われる作品の傾向は変わらないのかもしれません。世になろうの種は尽きまじ。


 異世界――本当の自分を完全に肯定してくれる幸福な場所。ここではないどこか。

 ふんわりとした世界で、大量生産された名もなき悪役令嬢は今日もバカ王太子とヒドインを逆断罪してスパダリに愛されて幸せになり、コピー生産された勇者は俺Tueeチートでハーレムを繰り広げる。

 テンプレだ子どもだましだと鼻で笑われようとも、けれど人口に膾炙した娯楽は、いつか大きな力を持つのではないでしょうか。

 それこそ一昔前のマンガのように。


 ファンタジーに仮託してざまあで一時の逆転を味わっても、戻っていかざるをえないのは前時代的というか、封建制っぽい階層構造をよしとする、男尊女卑や地域格差の激しい現実社会。

 それに対するアンチテーゼとしての意味があるからこそ、ざまあでフラストレーションが解消されるならば。

 なぜ、消費再生産が繰り返される作品の傾向が変わらないのかということに、読み手書き手が意識的になった時。どのような作品が生まれ、あるいはどのように社会は変わるのか。

 今から楽しみでなりません。

長らく拙文をお読みいただきまして、ありがとうございました。

いろいろまだ論じ足りていないところも多いのですが、これでいったん完結といたします。

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