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わかりやすさの意味(その3)~役割と記号的表現の罠~

本日も拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。

 これまで二回にわたり、キャラ付けの記号的表現(おやくそく)について見てきました。

 色彩と美醜という外見的な表現は、映像化した時にもとてもわかりやすいものです。

 ですが、それ以外にもわかりやすい表現があります。

 今回はそのうちの一つ、役割を示す記号的表現について見ていきたいと思います。


 役割を示す記号的表現とは何ぞや、とお思いの方も多いでしょう。

 筆者が想定しているのは、読んで字のごとく、そのキャラクターが物語世界で、もっというなら物語の中の人間関係で求められている役割(Role)を端的に示す記号的表現のことです。

 たとえば、異世界系の悪役令嬢ならば縦ロール。

 現実世界系の母親ならばエプロン姿といったもの。

 これらは実際に使用されていようがいまいがにかかわらず、それらに象徴されるイメージを役割に与えてしまっています。


 たとえば悪役令嬢の縦ロール。あれはゴージャスに『見える』だけでなく、実際にお金もかかる髪型です。

 元の髪質が手のかからないストレートの髪であっても、後頭部がそんなに綺麗に巻けるものじゃないのは、ためしに付箋やペンをカーラー代わりに自分で当ててみればわかりますね。それを毎日毎日巻くだけでなく、さらに編んだり結い上げたりと加工していると考えてみてください。

 なので、その世界の文明度合いにもよるでしょうが、人手を髪型だけに割けるだけの財力があることを示す髪型ともいえるでしょう。

 エプロンもまた、掃除洗濯料理といった家事を暗示し、母親が家族の中でそれを引き受ける存在であることを示しているわけです。

 ……ですが家事をするのにエプロンをわざわざする人って、どのくらいるんですかねえ?

 本屋やカフェの店員さんの制服のように、逆に家事以外のところでエプロンをしたりすることだってあるんですけどねえ?

 ドラえもんでもちびまる子ちゃんでも、お母さんは記号的表現としてエプロンをつけていることが多いようですが。


 わかりやすいがためによく使われる、このような記号的表現は、しかしこのように既存の価値観を端的に示したものであるため、旧態依然とした観念、それに基づくバイアスを示してしまい、さらにそれを再生産、強化してしまうという危険があります。

 トイレのピクトグラムもいい例です。


 トイレの男女表示、あれをじっくり見てみてください。

 人型のものは女性はスカート、男性はスラックスのようなシルエットになってはいませんか?

 あるいは、男性の方が肩幅が広く示されたり、全体的にスクエアな形になっていたりしないでしょうか。

 象徴的な事物で示すタイプの表示もありますね。女性はハイヒールで男性は蝶ネクタイとか。


 これに対し性別を問わず、誰もが利用できるユニバーサルトイレの表示はというと、『性別を問わず使用できる』ということを示すピクトグラムが使われていることの方が少ないようです。

 使われているのは主に車椅子やオストメイト、あるいは乳幼児を示すピクトグラムで、ユニバーサルトイレが実質的に『身体面で不自由があり、通常のトイレでは利用に困難がある人向け』のものであることを示しています。

 身体不自由の有無を問わず『誰もが利用できる』とは言いがたい気もしますが、そこはトイレの個数差を考えると必要なことなのかもしれません。


 色分けも見てみましょう。

 女性は赤、男性は黒か青が使われていませんか?

 ピクトグラム自体が白や黒でも、その地の色や周囲の色がこのような色で示されてはいないでしょうか。まるで昔のランドセルのようなジェンダーカラーです。

 なおユニバーサルトイレは男女のような原色ではなく、オレンジのような中間色が使われていることが多いようです。


 これらのジェンダーカラー、ジェンダーバイアスは、当然既存の性別認識の上に成立し、使われているわけです。

 驚くべきことに、このトイレのピクトグラムに関しては、昭和期からあまり変わっていません。

 そういえば、ドラえもんもちびまる子ちゃんも、開始時期や作者の子ども時代が元になっているなどの理由があるにせよ、基本的な社会設定は昭和期でしたね。


 ちなみに、2025年は昭和100年です。

 ……それだけ時間が経過してるのに、実態と違っていても、ずっと旧態依然とした認識が残り、そういうものだと疑問を生じず受け入れられてしまう。

 これが記号的表現の恐ろしさの一つであると、筆者は考えています。


 それはジェンダー面以外の記号的表現やテンプレも同じです。

 わかりやすいということは、書き手に創造力を、受け手に理解する努力を、理解力を求めないということでもあります。

 書き手がなにを書こうとしているのか読み取る能力、努力、気力思考力不要。いわゆる『何も考えずに読める』作品は、敷居を低くするため記号的表現やテンプレが満載となる。

 書き手にとっても記号的表現やテンプレは書きたいところに注力するために、余力を使い果たさずに済む、楽なツールとなるわけです。


 人気があるから、使いやすいから利用される。

 けれども、なぜ、それが必要とされているのかを考え、使うか使わないか、使うのならどう使うべきかを考えず脳死状態で使うのは、個人的には避けたいと考えています。

 なぜなら自分の書きたかったもの、読みたかったものが、どんどんと古びた、自分の物ではない価値観に侵食され、本当に書きたかったもの、読みたかったものからずれていく危険をはらんでいるのですから。


 なお、筆者はフェミニストではありませんし、自分の政治的立場を明言しろと言っているのでもありません。

 旗幟鮮明にすべきはあくまでも自分の思考と嗜好。それらが自分のものであると言い切れるよう、何に影響を受けているのか考えるためです。

 なぜかというと、記号的表現やテンプレというのは、それだけでネタになってしまうからです。

 ネタというのは、笑いに包むことで、本当の自分は違うんだという逃げを作っておきながら、それでいてそれらが示す価値観を、共通理解の基盤として固めてしまうやっかいな力を持っているのです。


 記号的表現と同等に考えていいのが、物語における『役割』でしょう。

 キャラクターはその物語中の人間関係において、与えられた『役割』で認識されます。中身が変わろうが変わるまいが典型的な悪役令嬢として、ヒロインとして、バカ王太子として、悪徳貴族として。

 異世界転生や憑依ものは、そこから始まる騒動が物語の中に解決すべきクエストとして盛り込まれるというのもテンプレです。

 そのうち名前や役割にかかわらず、中身を見て愛してくれるスパダリに囲い込まれ、ドアマットヒロインは幸せになりました、とか。

 逆に、役割、設定だけを見て、中身がそれまでドアマットに甘んじていた人格と変わっているのに気づかず、虐げてきた周囲が破滅するとか。

 自身も中身と設定が違う転生者や憑依者が、自分の知っている物語の設定や『役割』を丸呑みして行動、ざまあをしかけよう、あるいはざまあ回避のために他者を貶めようとして排除されていくというのもまた、ざまあのあるあるテンプレと言えるでしょう。


 この『役割』からの逃走は、異世界ものの婚約破棄から始まるテンプレのみならず、現実世界恋愛ジャンルでも見られるようです。

 モラハラを含む過剰な束縛をするヤンデレや暴力的なヒロイン、あるいは「あんなやつ、自分ぐらいしか相手してあげる人なんていない」という、相手を貶めて自分のコミュニティ内でのカーストを守ろうとする同級生、幼馴染みや恋人などへのざまあは、『役割』を押しつけられていたコミュニティからの逃走をも含んでいたりします。


 ですが、なぜそのような物語がテンプレになるほど求められているのでしょう?人口に膾炙するほど、広く需要があるのにも理由があるとするならば、その理由とはいったいなんなのでしょう?


 筆者は、この理由を、偏ったり誤ったりしている情報によって歪められた先入観や偏見にとらわれずに、自分という存在を見てほしい、愛してほしい、満たしてほしいという、願い(欲望)を書き手読み手が抱えているからではないかと考えています。

 恋人だから。母親だから。妻だから、年上だから。○○して(くれて)当たり前。

 だからこそ、それら一方的に押しつけられる要望にうんざりしている読み手書き手にとって、自分のアバターである主人公をバイアスを鵜呑みにしてマイナス評価する者の零落が、ざまあとして機能していると考えています。

 

 ……もし、バイアスを鵜呑みにしてプラス評価しかしないキャラクターばかりに取り囲まれた状況、逆ドアマットヒロインが描かれたらどうなるんでしょうね?

 以前に流行った『呼吸するだけで褒められる系主人公』のようになったりするんでしょうか?

 その場合、『バイアスに捕らわれず本当の主人公を見る』キャラクターが出てきたら、その扱いはどうなるのでしょう?

 主人公の敵対者として描かれるのか、それとも主人公の真の理解者となるのか……。


 脱線はさておき。

 ここまで『役割』で認識されることに否定的でありながら、わたしたちは『役割』認識を日常において使い続けていないでしょうか。

 与えられた『役割』でその人物が認識されている、身近な例を挙げましょう。

 拙文をお読みの方は、家族をそれぞれなんと呼んでいますか?

 子どもがいる家庭では、配偶者を互いに『お父さん』『お母さん』と呼んだり。

 自分より年上のきょうだいを『お兄ちゃん』『お姉ちゃん』と呼んだりしてはいませんか?


 これらは家族内での関係性、つまり『役割』を示すものです。それも互いの関係性ではなく、第三者的な視点から認識された『役割』を。


 映像化非映像化を問わず、日本の創作作品には、この『役割』呼称がとても多いように感じます。それも場面的には使われて当然のビジネスシーンだけではありません。

 むしろ、女性が自身のプライベートな家庭内であっても、個人名で呼ばれることの方が少ない。

 特に、男児が自分の母親を名前で呼ぶのは……嵐を呼ぶ幼稚園児ぐらいじゃないでしょうか。

 というか、『かあさん』呼び以外をあまり見た記憶が筆者にはありません。

 みなさんはいかがですか?


 このようにわたしたちは日常生活の中でさえ、強化されたそれぞれの『役割』認識をさらに再生産しあっています。

 ですがこの『役割』呼称から逃れ、名前で呼ばれる=個人として認識されていることを強く示される存在が、わずかながらにいます。

 それは、子ども、それも弟や妹など、年下の子どもです。

 コミュニティ内部では『役割』をほとんど持たない、幼くか弱い、保護すべき者。


 ……なんか見た構図ですよね?

 自身の『バカ王太子の婚約者』などの『役割』を懸命に果たそうとする『悪役令嬢』を嫌悪し、不出来だけど愛らしいというだけで、年下の腹違いだったりする妹を人間味があると溺愛する家族及び婚約者、とか。

 押しつけられていた『役割』を剥奪され、あるいは放り出したところで、『悪役令嬢』の能力や資産といった利用価値ではなく、努力家なところ、人脈といった人間性を肯定した『スパダリ』に溺愛される、とか。


 ですが注意すべきなのは、『役割』ではなくありのままの自分を見て、と願う(そしてそのようなハッピーエンドを好む)ということは、他者に押しつけられた『役割』と、自分のセルフイメージがずれていると、無意識にでも自覚していることを示しているということです。

 そのこと自体は別に悪いことではありません。

 ですがその場合、自分が正当に認められていない、と思っている人にとっては、評価が不当であることが真実となるということ、その人のセルフイメージが他者の認識しているそれよりも巨大であるという点が重要になります。

 そして当たり前のことですが、どんなに公正な基準に基づいたものであっても、他者と、いや過去の自分と比較されること、そこでマイナスな評価を出されるというのは、評価を受ける側にとって不満を生じる原因となるのです。

 この場合、基準が客観的に公正かどうかは問題ではありません。不公平だと不満を持つ人にとっては、自分を認めない者こそが不当な評価を下す悪である、というだけのことなのですから。


 6月に、政府による日本やアメリカ、フランス、ドイツ、スウェーデンの4か国欧米の子どもや若者を対象に行った意識調査の結果が出ました。

 ちなみに、「自分自身に満足している」と答えた人の割合は日本では57%。前回より10ポイント以上も上がりましたが、各国と比べると最も低い数値だとか。

 なお、他国はいずれも70%を超えているそうです。

 また、「自国の将来は明るい」と答えた人は23%と前回より8ポイント下がり、こちらも50%から60%ほどとなった4か国に大きく引き離され、最も低い水準となったそうです。


 しかし、自分自身に満足していない、というのはどういうことでしょう。

 今の自分の能力……知識、運動能力、技術、それらはもっと伸びるはず、なのにまだ自分の求める領域に至っていない、ということなのでしょうか。

 その不満が、いつかは甲子園で、メジャーリーグで四番打者でMBPで殿堂入りして……というように、将来の目標を実現するための原動力となっているのなら、すばらしいことだと思います。

 ですが、それが努力をせずに「やればできる(やらないだけ)」『なのに自分の可能性を認めてくれない』という意味であったならば?


 他者の評価に対しても同じ事が言えるでしょう。

 いつかは見返してやる、という努力の原動力になるなら、それは素晴らしいことです。が、ざまあのテンプレにあるような、間違った評価を下した相手が痛い目を見ればいいとばかりに勧善懲悪的没落を望むのはどうかと思うのです。

 見返してやる、どころか仕返してやると恨みを抱けば、それは逆恨みでしかありません。

 そもそも、他人をまるごと一人、正しく理解も完全に受容することも人間にはできません。自分自身のことでさえ不可能です。可能であるなら、なぜ自己嫌悪というものが生じるのでしょう。


 ですが、それでもなお、人は勧善懲悪の物語を、その主人公に自己を仮託してのざまあを求めます。

 その理由は、自分が認められていないから。虐げられていると思っているから。それに尽きると思います。

 現実世界で痛めつけられた自尊心をなだめ、自信を回復するために、ざまあつきハッピーエンドが求められる。

 それこそ意地悪な姉が両目をつつき出されるバージョンのシンデレラなみに、評価を誤っていた側がおちぶれ、誤解されていた側が成り上がっていくような。

 しかし昔話のハッピーエンドは、封建制ばっきばき。

 幸せに暮らしましたというシンプルな結びの言葉の、その後の苦労は、自尊心を痛めつけ、個としてのありようをぺしゃんこに潰される、王妃という『役割』に押し込められることでもあるのでしょうに。


 A rolling() stone() gathers(苔を) no moss.(生ぜず。)

 二通りに意味を分けられることわざですが、役割(Role)にまとわりつくバイアスを断ち切り、苔を美しく価値あるものとして失うのか、古びた価値のないものとして捨てゆくか。

 決めるのも、作り出すのも、読み手や書き手の我々次第ではないでしょうか。


 ロール違い?こりゃまた失礼。

RollとRoleで韻を踏んでみようと試行錯誤して敗北。なので誤字ではないです。

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