王子は新しい世界に飛ぶことにした。
致命傷を与えるかの様な、情け容赦のないラストに、王子は涙にくれつつ、我が身に降り掛かった運命のターニングポイントを赤裸々に綴った、作者が元婚約者だと、はっきり認識をした真新しい本の上に突っ伏す。
「う、どうしてこんな。あ、濡れてる……、書き直しなのか……」
ボトボトと落ちた涙と鼻水でインクが滲み、ぐちゃぐちゃになっている原稿用紙に気がついた王子。深く深く、溜息を長く長く、ついた。
嘆いていた間に、部屋の隅が闇に溶ける時刻が訪れている。机の上には蓄光石のランプ。黄ばんだ光がもんより小さく辺りを照らす。ギシギシと骨が泣くように起き上がるとやつれた顔で、羽ペンを手に取る。
カリカリ、カリカリ、カリカリ、カリカリ……。
マス目を埋めつつ、王子は悔しいやら、悲しいやら、惨めやら。ないまぜの涙を流し呟く。
「終わったら。父上に相談をして許されたら……、修道院に行こう。もう、女なんて信じられない、パティのバカ。マチルダ、酷いよ。ヒドイ。ふえん」
カリカリ、カリカリ、カリカリ、カリカ……。
オーホホホホ! ざまあみさらせ!
元婚約の彼女の高笑いが。今は『鬼婦人』と呼ばれる彼女の嘲る声が。闇に包まれた窓の外から、キィンと聴こえた気がした王子。
過去の自分の愚かなる行動を呪い、涙と鼻水でぐしょぐしょになりつつ、一文一文、心にグサグサと突き刺さる文字を翻訳をし、写し取る。針の筵の上とはこのことかと思いながら黙々と、急ぎの仕事をこなした。
そして。風薫る淡桃色の空から、弾ける光が似合う碧空の季節、雲が高く昇り城を創るような季節、芳醇な果実が薫りを風に混ぜ込む季節、息を吐けば真白くほわりと広がる季節を、順々に過ぎて行き。
王子が訳したマチルダの書籍はその国でも、空前絶後の大ブームを生み出した。彼女は一躍脚光を浴び、宣言通り孤児院を造ると、その運営傍ら次々に作品を書き、世に送り出し多くの人に喜びを与えた。
王子は。
彼は吉日を選び城を出た。
男子修道院へと向かう事が出来たのだ。この先飼い殺しもどうかと云う話が出ていた事も有り、城住まいの誰もが、ホッとしたという。少々、考えが足りないが、色白で女顔、見目麗しい彼に、運命の扉がひそりと開いた。
真か嘘か。季節問わずに薔薇が乱れ咲く、秘密の花園があるというその場所で、神に身を捧げる暮らしがどのようなものなのか。
蜜をしとりと滴たらせ濃厚に薫りを放ち咲き乱れたところをそろりと手折られた、綻び始めたばかりの。
一輪の華のみぞ知る。
終。