後編
*
*
穏やかな光の差し込む居間には、今日も芳醇な紅茶の香りが満ちている。
笑顔を取り戻したクラーラとグラティアは、使用人たちから代わる代わる編み物を教わっていた。
この町では男女問わず、自分の防寒具は自分で編むのだという。
慣れない棒針に四苦八苦しながら、姉妹はなんとか初めてのマフラーを完成に近づけていた。
そこで、年越しの話題になった。
「花火、ですか?」
はい、と女中頭が頷く。
祖母の年齢に近い彼女は、かいがいしく姉妹の世話を焼いてくれている。
「もうすぐ年越しでございましょう? 年の変わる瞬間に、川の中流付近から花火を打ち上げるのですよ」
グラティアとクラーラは顔を見合わせた。
王都で花火を見たことはある。
しかし、年越しで花火が打ち上がるというのは初めて耳にした。
(ルークさまも、数えきれないくらい花火をご覧になったのかしら)
グラティアは浮かんだ思考を打ち消すように首を横に振った。
あの神が感動している様子が、まったく想像できなかった。
「お姉さま? いかがなさいましたか?」
「いえ、気にしないでちょうだい」
そこへウィルバーが入ってきた。
女中頭が立ち上がって頭を下げるのを、いいと制しながら彼用のチェアーに腰かける。
「丘の上から見る花火は絶景だよ。人々はこぞって場所取りをして、最も美しく花火が見える場所で新しい年を迎えるんだ」
ウィルバーと視線の合ったクラーラが頬を赤らめて俯く。
最近ではグラティアも、妹が彼に恋をしていることには気づいていた。
ただ、公爵家の使者が訪れたことをクラーラは知らないようだった。
だから、グラティアはウィルバーとの会話を伏せたままでいる。
「この館からはすべて見える。花火を眺めながら特別なワインで乾杯するのは最高の一瞬だ」
「ウィルバーさま」
グラティアは小さく手を挙げた。
「館と丘以外だと、どこから見るのがよろしいでしょうか?」
「うん?」
ウィルバーが両腕を組み考え込むような仕草になる。
「グラティア嬢は、誰か、一緒に花火を見たい相手がいるのかい?」
「そ……そういう訳では……」
グラティアはウィルバーに見つめられて、俯いた。
それ以上追及してくることはなく、ウィルバーは片目を瞑る。
「誰にも邪魔されないとびきりの場所がひとつある。特別に、その場所の鍵を貸してあげよう」
*
*
「お姉さま。ひとつ、お尋ねしたいのですが」
グラティアが今から寝ようとしているところへ、クラーラが思いつめたような表情で近づいてきた。
ふたりは窓辺へ移動すると、ローテーブルを挟んで向かい合うチェアに腰かけた。
淡い花の香りがするアロマキャンドルに火を点す。
「何かしら?」
「……お姉さまは、ウィルバーさまをお慕いしていらっしゃいますか? お慕いというのは、その……」
クラーラが言葉を濁し、眉尻を下げ、視線を床に落とす。
質問の意図を察して、グラティアは表情を和らげた。
「わたしたちを助けてくださったことは、心から感謝しているわ。何かお役に立てるなら、立ちたいとは考えているけれど」
そして、グラティアは敢えてクラーラの告白を待つ。
姉妹の間に、珍しく張りつめた沈黙が訪れた。
ぽろ。
クラーラの瞳から大粒の涙が零れた。
「あたし、ウィルバーさまのことを好きになってしまいました」
「えぇ。見ていて分かるわ。クラーラ、わたしはあなたに、今度こそちゃんと幸せになってほしいの。応援するわ」
グラティアは腕を伸ばし、クラーラの頭を撫でた。
クラーラはまだ顔を上げない。
「……あたしは、お姉さまみたいに勉強ができる訳ではないし、得意だと胸を張って言えることはありません。婚約だって破棄されてしまいました。それでも……初めて、自信がほしいと思っています……ウィルバーさまが好きだと、胸を張って言えるような自分になりたいのです……」
どんどん涙が溢れてくるクラーラ。鼻をすすりながら、たどたどしく言葉を吐き出した。
「ずっと……お姉さまに、謝らなければと、思っていました。……公爵家から婚約を破棄されたとき、あたしの代わりに、怒ってくださって……ありがとうございます。そして、ごめんなさい……」
グラティアは立ち上がり、クラーラの横に立った。
それから身を屈めて、泣きじゃくる妹をしっかりと抱きしめる。
「気にすることはないわ。わたしが納得できなくて反論したのもいけなかったんだもの。こうなったのは、伯爵家に生まれた宿命でもあると思う」
「……お姉さま……」
「泣かないで、クラーラ。あのときも思ったけれど、あなたは笑っていた方がずっとずっと可愛いわ。きっと笑顔でいた方が、ウィルバーさまも振り向いてくださる」
しばらくクラーラは泣いていた。
やがて、落ち着いたのか、ゆっくりと顔を上げた。
「あの、お姉さま。気になることがあるのですが」
「気になること?」
「お姉さまが花火を一緒に見たいお相手というのは、どなたのことでしょう」
グラティアはそっとクラーラから身を離した。
「それは……」
「かつての婚約者さまとは手紙のやり取りばかりで、ちっとも楽しそうに見えませんでした。ですが、最近のお姉さまはどこか楽しそうに見えます。どうか、お姉さまがお慕いしている方のことを教えてほしいです。あたしにも、応援させてください」
クラーラがぎゅっとグラティアの手を握ってくる。
「恋愛ではないのよ」
「それでも、花火のことを聞いて、真っ先に思い浮かんだお相手がいらっしゃるのでしょう……?」
グラティアはそっと瞳を閉じた。
浮かぶのは、青い髪の、感情の読めない人ならざるもの。
ふとした瞬間に考えてしまう相手に対する感情が、恋なのだろうか?
恋ではない。
人間が、神に恋するなんて。そんなことは。
「お姉さま?」
「クラーラ。わたしの話を、聞いてくれるかしら?」
グラティアはクラーラに握られた手をほどき、握り返した。
*
*
青い髪の神から欠片を受け取ると、震えながらも満面の笑みで去って行く痩せこけた男性。
そんな名も知らない彼を見届けてから、グラティアはルークへ近づいた。
「ルークさま。シナモンがお好きなら、シナモンロールはいかがですか」
紙製の手提げ袋を持って現れたグラティアを、ルークはきょとんとした表情で見上げた。
「今日はふたつあるのです。ルークさまと、わたしの分」
しゃがんだグラティアは紙袋から大きなシナモンロールを取り出した。
薄紙で包まれているものの、しっかりとシナモンの香りが漂う。
「……いただこう」
ルークがシナモンロールを受け取り、薄紙を少し剥がして頬張った。
「美味い」
「よかったです。わたしもいただきます」
うずまき状のシナモンロールの上にはたっぷりとシュガーアイシングがかかっている。
じゃり、とアイシングが音を立てて溶けた。
強烈な砂糖の甘さと、その後にシナモンの香りがぶつかり合って強調する。
歯切れのいいパン部分が、くどさを軽減してくれている。
ばくばくと勢いよく、ルークがシナモンロールにかぶりつく。
「少し前のホットクレープも美味かったが、これもいいな」
そのとき、グラティアはルークの表情に違和感を覚えた。
その正体にはすぐ辿り着いた。
(若返っていらっしゃる……?)
見た目で年齢の測れない神ではある。
しかし初対面の頃は父親と違わないくらいだった筈。
それが、辺境伯くらいに若くなっている……。
(善行を積み重ね、天界へ戻れる日が近い、ということなのかしら)
生じた疑問。
グラティアは、初めて言葉に出さず飲み込んだ。
何かを打ち消すようにグラティアは口角に力を入れた。
笑顔をつくって、カップを取り出す。
「ホットコーヒーもありますよ。コーヒーの苦さのおかげで、シナモンロールを毎回新鮮な気分で味わえます」
「なるほど」
そして、ふたりは少しの間無言でシナモンロールとコーヒーを味わった。
食べ終わり、薄紙と空のカップを受け取ると、グラティアは意を決して言葉を発する。
「ルークさま」
「なんだ、娘」
「青空市にいらっしゃらない日もありますよね?」
「そうだな」
「ここ以外の場所に現れることもできるのでしょうか」
「相変わらず、面白い質問をしてくるな」
可能だ、とルークは続けた。
グラティアは深呼吸してから、早口でまくし立てた。
「年越しの花火はご存じですよね。とっておきの場所を教えていただいたので、よろしければ一緒にご覧になりませんか? 興味はないかもしれませんが、その」
心臓の鼓動が早鐘を打っている。
ルークは目を丸くしてグラティアを見つめていた。
耐え切れなくなって、グラティアは無理やりに笑顔をつくる。
「だ、だめですよね。申し訳ございません、今の提案は忘れてください」
「いいだろう」
「えっ」
「年越しだから何だ、とは思う。しかしたまには人間と同じことをしてみるのも一興だ。それに、お前といると、面白いことがあるかもしれない」
するとルークはほんの少しだけ気まずそうに空を見上げた。
「ルークさま?」
「グラティア。美味いシナモンを持ってきてくれ」
(名前……)
先ほどとは別の理由で心拍数が上がっているのを、グラティアは感じていた。
*
*
年越しの夜。
グラティアははやる心を抑えながら、旧鐘塔の螺旋階段を昇っていた。
その手には大きめの籐かご。
布をかけてあるものの、外気との温度差で白い湯気が上がっている。
ウィルバーから与えられたのは、10年ほど前まで使われていた鐘塔の鍵だった。
――老朽化のため、今では使われていない。ここなら誰も来ないし、高さもあるから花火がよく見えるよ。
この町の主である辺境伯にはすべて見透かされているのかもしれない。
そう思わされるような言い方だった。
ぎぃ……。
最上階に到着すると、そこには既にルークの姿があった。
どこにでも現れることのできる存在。改めて、神なのだと思わされる。
ルークがゆっくりと肩越しに振り返った。
空はすっかり闇に包まれている。
それなのに、その輪郭は輝いていた。
青い髪は煌めき、白いローブの縁は金で彩られている。
儚いようでいて、力強さもある。
神聖すぎる姿に、グラティアは息を呑んだ。
正しくは……見惚れていた。
はっと我に返り、グラティアは頭を下げる。
「お待たせしました、ルークさま」
「人間は大変だな」
「……え?」
グラティアは自分の服装を確認する。
編み上げたばかりの毛糸の帽子には、耳当てがついている。
分厚いコートはボタンをきっちりと留めている。
裏起毛のワンピースはくるぶし丈。
タイツに、ブーツ。
完全な防寒装備だと、ルークは言いたいのだろう。
しかしそれ以上興味はないようだった。
「さて、籐かごからはいい香りがするが?」
「シナモン風味のパンプキンパイと、グリューワインをお持ちしました」
パイはひと口サイズで、焼きあがったばかり。
グリューワインは冷めないようにタンブラーへ入れてきた。
グラティアはルークの隣に立って、籐かごの中身を見せた。
「最高だ」
いただこう、とルークがかごからパンプキンパイを手に取る。
「食べやすいように小さめに仕上げました。どうぞ」
「……グラティアが作ったのか?」
「? はい、そうですが」
クラーラと一緒に作ったので、今頃、辺境伯家でも同じものを食べているだろう。
妹は今、必死に勉強したり料理を覚えている。
その努力がいい方向に向かうよう、グラティアは願っていた。
ちなみに。
かぼちゃはウィルバーの幼い頃からの好物だと、女中頭から教えてもらった。
ルークが口を大きく開けた。
さくっ、と軽快な音。
ふわりと香りが広がる。
「美味い」
「お口に合って、安心しました」
グラティアもパイを口にする。
ねっとりとしたかぼちゃの自然な甘みと、尖ったシナモンの香りが合うパンプキンパイ。
濃厚な赤ワインは冷えた体を温めてくれる。これにも隠し味としてシナモンなどのスパイスが入っている。
ひゅぅう……ぱぁんっ。
大きな音につられてグラティアが空を見ると、青い花火が夜空を彩っていた。
音と光が重なっては花開く。
曇り空の多い昼間よりも明るいのではないかと思えるほどだ。
「きれい……」
どんどん、どんどん大輪の花火が咲いていく。
その色は、まるで。
「この花火は、人々が青い髪の神さまに感謝して打ち上げているのだそうです」
出会えて欠片を貰えた者も、未だ出会えず夢見ている者も。
この町が平和であるのは、天界から追放された神が住み着いているからだと。
皆が口を揃えて、誇りだと教えてくれるのだ。
そう説明して、グラティアは顔をルークへ向けた。
「……まいったな」
ルークがそっぽを向く。
(もしかして。照れて、いらっしゃる?)
照れている表情を見せたくないのかもしれない。
グラティアはそう解釈して再び花火を眺める。
「お優しいあなたなら、いつかは天界に戻れます。それまでは、どうか」
――この町にいてください。
グラティアは一瞬目を伏せる。
つきん、と胸の奥が、痛んだような気がした。
「人間の想いとは、尊いものだ」
花火の音に負けない大きな声で、ルークが言う。
「グラティア。美しいものを見せてくれて、感謝する」
「……ルークさま?」
ふたりの視線が合う。
ルークは僅かに微笑んで、グラティアを見つめていた。
*
*
年が明けて、グラティアはウィルバーの仕事をほんの少しだけ手伝うようになった。
かんたんな計算や、整理整頓などだ。
元々勉強が好きなグラティアにとってはありがたいことだった。
今日も、書庫で地図の並び替えを任されていた。
(古い紙のにおいって、なんだか心地いい)
辺境領での穏やかな日々に、ようやく身も心も慣れてきていた。
このまま自分たちはうまくやっていけるだろう。
ばたんっ!
突然、何かが倒れる音が奥から響いてきた。
「クラーラ?」
クラーラはクラーラで、時間を見つけては書庫で歴史や経済を勉強している。
根詰めすぎて倒れたのかもしれない、と音のした方向へグラティアは向かった。
グラティアの予想通り、クラーラは床に座り込んでいた。
その手元には分厚い本が開かれている。音はこの本が落ちたときのもののようだった。
「大丈夫? 立ち上がれる?」
「……お姉さま……」
クラーラの顔は青ざめていた。
差し伸べられた手を取り、よろよろと立ち上がる。
クラーラを座らせた後、グラティアは開かれた本を拾い上げた。
「神学書なんて、珍しいものを読んでいるのね」
「違うんです」
クラーラの鼻の頭が赤くなっている。
「調べたんです。天界から追放された神さまのことを。神さまは、罪を犯して追放されたのではありません……」
青い髪の神さまの、長い長い物語。
グラティアは手にしている本の表紙を見る。
古代文字で書かれていることだけは分かった。
勉強の苦手なクラーラが、密かに翻訳作業をしてきたということもまた、理解する。
グラティアは本をクラーラに差し出した。
「教えてちょうだい、クラーラ。この本には何が書かれているの?」
静かにクラーラは頷いて、語りはじめた。
――かつて、天界には。
困っている人間を見ると、手を差し伸べずにはいられない神さまがいた。
やがて人間たちはその神さまにばかり祈るようになった。
すると他の神々は、口々にこう言った。
『人間に対して情けをかけすぎる。お前は、神失格だ』
『そんなに人間が好きなら人間界へ行けばいいのだ』
そして反論の機会も与えられず、その神さまは地上に堕とされた。
そんな目に遭っても、なお。
人間を好きな神さまは、自分の欠片を人間に分け与え続けている。
いつか天界に戻れる、なんてことはありえない。
欠片を与え続けたら神といえど、消えてしまうだけなのだ。
「そんな……」
グラティアは床に座り込んだ。
書庫の床は硬く冷たく、グラティアの体温を容赦なく奪っていく。
「だから、見た目が若返っているというの……?」
懐から欠片を取り出す。
淡く輪郭の光る欠片。
文字通り、神の一部だったのだ。
グラティアは両手で欠片を握りしめ、瞳を閉じ、両手を額に当てた。
(己の存在を削ってまで、人間の願いを叶え続けているなんて)
人間の想いは尊いと、神は言った。
しかし神の想いもまた、尊いものなのだ。
ぶっきらぼうに見えて、人間を想い続けている神。
グラティアの胸の奥に、想いが泉のように湧きあがる。
(今。すごく、ルークさまに……会いたい)
*
*
青空市で、いつものようにルークは布の上に座っていた。
そこへ、かつて欠片を与えていた老婆が近づいて行く。
足はもう引きずってはいない。
何度も何度もお礼を言って、ルークが両肩に手を置いて語りかけると、ようやく老婆はその場から去った。
眺めているだけなのに、グラティアは泣きそうになっていた。
鼻をすすり、涙が滲まないように気をつけながらルークへと歩いて行く。
「願い事、見つかりました」
珍しくしゃがまないグラティアに、ルークは顔を上げた。
その見た目は、グラティアと同じくらいの年頃まで若返っている。
「返品しないでおいてよかったな」
ルークが微笑む。
かつて深く刻まれていた皺はもうどこにもない、瑞々しく張りのある肌。
「それで、どんな願いだ?」
グラティアは欠片を勢いよく差し出した。
「ルークさま。あなたの存在が消えてしまわないように、願います」
ははっ、とルークは乾いた笑いで返した。
少しだけ困ったように、長い髪の毛にくしゃりと手をやった。
「俺のことを俺に願うのか。やはり、お前は変わった人間だな」
「はぐらかさないでください。青い髪の神さまの物語を、教えてもらいました」
どうしても潤んでしまう瞳を見ていられなくなったのか、ルークは視線を己の手のひらへ落とした。
「このところ、張り切って人間の願いを叶えすぎた気はしている」
「真実なのですね。消えてしまう、というのは」
ルークは手のひらを握ったり、開いたりを繰り返した。
骨ばった、大きな手。
黙ったままのふたりの間を、風が吹き抜けていった。
やがて。
ぼそり、とルークが呟いた。
「この地に起きることで、俺の知らないことはひとつもない。人間は決して善良な生き物ではない。それでも俺は人間が好きなんだ。想うあまりに元の場所にいられなくなった。だというのに、想うことをやめられずにいる」
「それならば、わたしがあなたのことを想います。あなたの幸福を、穏やかな日々を……!」
グラティアが声を張り上げる。
そして、変化が起きたのは――ルークではなく、欠片の方だった。
ぱりんっ!
「!」
きらきら……。
欠片は割れて飛び散り、光となって消えた。
何も残らず、何も変わらない。
「神を人間にするには、俺の力が足りないようだな」
自嘲気味にルークが笑った。
「そんな」
(わたしは……なんて傲慢なんだろう。どうしようもなく、恥ずかしい……)
グラティアは踵を返した。
いたたまれなかった。
これでまたルークの力が消えてしまったというなら、選択は失敗だったのだ。
「グラティア!」
ルークの声を振り切って、グラティアは青空市から走り去った――。
*
*
珍しく雲が少なく空の色が青い、ある日の朝。
「任せたぞ、グラティア嬢」
「こちらこそよろしくお願いします」
グラティアは、箱馬車のなかの辺境伯に頭を下げた。
「クラーラは真面目で優しい子です。深く傷ついた妹のことを助けてくださっただけではなく、婚約を申し入れてくださるなんて……。きっと、両親も喜ぶでしょう」
「ありがとう。では、行ってくる」
「お気をつけて……」
グラティアの隣に立つクラーラは不安げな表情を隠せない。
辺境伯はふっと表情を和らげて、箱馬車から身を乗り出した。
それから、クラーラの頬に手を当てる。
「心配は要らない。もし私が弱かったら、今日まで辺境伯でいられなかっただろうから」
「……はい」
辺境伯はこれから王都へ向かうのだ。
クラーラ、つまり伯爵家に対して正式に婚約を申し入れるため。
そこから協力者たちと共に、公爵家の力を削ぎ落す行動に移していくのだという。
王都の勢力図もどんどん変化するのだろう。
(戻りたいとは、思わないけれど)
箱馬車が走り出す。
クラーラはまだ不安そうに手を握りしめていた。
グラティアは、クラーラの肩を抱き寄せる。
この結婚は政治のためだよ、とウィルバーははぐらかしていた。
しかし、グラティアは、決してそれだけではないと感じている。
ウィルバーの気持ちは、きちんとクラーラへ向いている。
「公爵家と対等に渡り合えるのは辺境伯くらいだという話だから、大丈夫よ。さぁ、わたしたちはやるべきことをやりましょう」
「そうですね」
クラーラが柔らかく微笑んだ。
瞳はきらきらと煌めいている。
「ウィルバーさまが戻ってくる前に、料理の腕を上げないといけません」
「えぇ、そうね」
先に館へ戻るクラーラを見届け、グラティアは空を見上げた。
(まるで、ルークさまの髪色みたい)
逃げてしまって以来、青空市へは行っていなかった。
このまま会うことはないかもしれない。
人間の浅はかさを見せつけてしまったという、不安でいっぱいだった。
(嫌われて、しまっただろうか)
会いたくない訳ではない。しかし、その資格はないと強く感じている。
そのときだった。
「ようやく外に出てきたな」
この場にいない筈の声が聞こえて、グラティアは立ち止まる。
「ル、ルークさま」
辺境伯家の門前にルークが両腕を組んで立っていた。
心なしか怒っているように見えて、じり、とグラティアは後ずさる。
そのまま、ルークに背を向けた。
「待てっ」
ルークが地面を蹴る。
そのまま、背中からグラティアのことを抱きしめて捕まえた。
力強さはあっても、温もりはない。ルークは神であり、人ならざる存在だから。
「……グラティア」
ルークの掠れた声がグラティアの耳朶を打つ。
グラティアは、ぎゅっと目を瞑った。
「どうして青空市へ来ない」
「合わせる顔がないからです」
すると、ルークの力が強くなる。
「君に会えないと、苦しい。名前を呼ばれると、どうしようもない気持ちになる」
「ルークさま……?」
「……これは、何だ」
(振りほどけない。動けない。……動きたく、ない)
人間が、神に恋するなんてありえないと思っていた。
しかし今のグラティアは、はっきりと想いを自覚していた。
(わたしはルークさまのことが、好きだ)
どれだけの時間が経っただろうか。
グラティアは、意を決して口を開いた。
「……願い事。少しだけ変えて、もう一度願ってもいいでしょうか」
「何だ」
「ルークさまのお傍に、いたいです」
するとルークは力を緩め、そのままグラティアの体をくるりと自分へ向けた。
ダークグレーの瞳にグラティアの姿がくっきりと映る。
「君が老いて死ぬのが先か。俺がすべての力を使い果たして消滅するのが先か。そんなの、神にだって分からない。だからこそ」
グラティアの頬を、涙が伝う。
「君の願いは、俺と君とで叶えよう」
泣きながら、グラティアは笑顔を浮かべる。
そして、はい、と頷いた。
――やがて。
公爵家は辺境伯の目論見通り、衰退していくこととなる。
クラーラはそんなウィルバーのもとへ嫁ぎ、仲睦まじい家庭を築いた。
また、グラティアは古代文字の研究家として広く名を知られるようになる。
辺境領にまつわる神話を紐解き、晩年は神学者としても歴史に名を残した。
見る者が見れば、彼女の傍らには常に青い髪の神がいたと言われている。
王都から追放された伯爵令嬢と、天界から追放された神。
ふたりの物語を歌い継ぐ吟遊詩人は、ひときわ人気を博すのだった。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
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