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前編



「クラーラ。君との婚約はこの場をもって破棄する」


 公爵家主催の華やかな夜会。

 その最中の、出来事だった。


 伯爵令嬢のグラティアは、遠くから聞こえてきた突然の婚約破棄に耳を疑った。

 それまで友人たちと談笑していたが、不穏な宣言の方向へ視線を向ける。


「君はアリシアに嫌がらせをしていたようだな。そんな人間だとは思わなかった」


 よく通る声の主は、公爵令息のイーザック。

 そして、クラーラというのは、グラティアの妹なのだ。


 和やかだった夜会の空気は一変して、今や人々の関心はイーザックたちに注がれていた。


 クラーラの婚約相手であるイーザック・シュレヒトは横柄さでよく知られている。ところが公爵(シュレヒト)家の力の強さのせいで、誰も物申すことができない。


 一方で淡いピンクのドレスがよく似合う、小柄でぽっちゃりとしたクラーラ。

 おっとりとした性格で、イーザックに冷たくあしらわれてきた。

 なんとか彼に好かれようとがんばるものの、うまくいっていないことをグラティアはよく知っている。


「ア……アリシアさんに嫌がらせなんて、したことはございません……!」


 クラーラの、普段はほんのりと紅く染まっている頬が色を失っている。

 体は小刻みに震えていた。


 グラティアとクラーラは、淡い金髪と碧色の瞳の持ち主だ。

 姉のグラティアの髪質はストレートで、瞳はわずかに吊り目。

 妹のクラーラはふわふわのウェービーヘアーで、大きな瞳は少し垂れ目。

 しっかり者の姉と、のんびり屋の妹として、有名な姉妹である。


 友人たちがグラティアへ疑問と不安を混ぜたような視線を向けてくる。

 グラティアは眉をひそめ、首を横に振った。


(不器用なクラーラが他人に嫌がらせをするなんて、天地がひっくり返ってもありえない)


 それに、アリシアとは交流すらない筈だ。


 グラティアは口を開こうとしたものの、相手は三大公爵家の令息。

 自分が出ていけば状況は悪化するだろうと、唇を噛んで言葉を飲み込んだ。


 一方でイーザックは稲妻を落とすかのように大声を張り上げた。


「この期に及んで言い訳とはみっともない!」


 イーザックの傍らでは男爵令嬢のアリシアが、不安そうな眼差しで立っている。

 明らかにクラーラとは違うタイプの女性だ。

 視線が合いそうになってグラティアは顔を逸らす。


(宣言したとはいえ、まだ婚約破棄は成立していないというのに。みっともないのはどちらなのかしら)


 グラティアはドレスの裾をぎゅっと握りしめた。

 ついに耐え切れず、一歩前に進み出る。


「お待ちください、イーザックさま。クラーラは言い訳などしておりません。せめて、妹の言葉に耳を傾けてくださいませんか」


 すると、イーザックはふん、と鼻を鳴らした。


「身の程を弁えよ。姉妹揃ってこの私に意見するとはな。よく聞け。私の真実の愛は、アリシアの為だけにあるのだ」


 高らかに宣言したイーザックは、アリシアをさらに抱き寄せた。

 グラティアは眉をひそめ、唇を噛む。


(クラーラの主張を聞こうともなさらないなんて。以前からクラーラに対して冷たいと感じていたけれど、大勢の目の前でこれはひどすぎる)


 だだだっ!


 そしてこの状況に耐え切れなかったのか。

 渦中のクラーラは、グラティアの横を通ってホールから走り去った。


「クラーラ!」


 グラティアは友人たちに会釈をしてから、妹を追いかけたのだった――。





 一方的にクラーラが婚約破棄された翌日。


「グラティア。本当にすまない」


 伯爵、つまり父親に呼び出されたグラティアは執務室を訪れた。

 館で最も日当たりのいい部屋の奥には、半日でやつれきった父親がいた。

 夜会での出来事はあっという間に広がったのだろう。加えて、破棄された婚約の処理。

 おずおずとグラティアは尋ねた。


「お父さま。クラーラの様子は……?」


 伯爵は首を横に振った。


 昨晩は泣き崩れるクラーラをなんとか馬車に乗せて帰ってきたグラティア。

 それから、今の今まで妹の姿を見ていない。


 すっ、と伯爵がデスクの上に開封された手紙を載せた。


公爵(シュレヒト)家から文が届いた」

「公爵家から……?」

「今回の婚約破棄に当たり、クラーラを王都から追放するようにと」

「なんですって。こちらの言い分も聞かずに、一方的すぎやしませんか。そもそもクラーラが他人へ嫌がらせをするだなんて考えられません」


 グラティアは伯爵に詰め寄った。

 恐らく険しい顔つきになっていたのだろう。

 伯爵は戸惑うように視線を逸らし、重たい溜め息を吐き出した。


「私だってクラーラの無実は信じている。しかし」


 それなら、と言いかけたグラティアを制して、伯爵が言葉を続ける。


「公爵がたいそうお怒りになっているのだ。今まで散々よくしてやったのにどういうことだ、と。そしてクラーラだけではなく、グラティア」

「はい」


 グラティアは伯爵から離れて、背筋を伸ばした。


「娘ふたりを王都から出さねば、伯爵家を事実上潰すと言ってきている」

「ありえませんわ……」


 グラティアは倒れそうになるのを、なんとか堪えた。

 反論したことで公爵家の怒りを買ってしまったという事実は事実だ。


(ですが、それだけで? 見せしめということ?)


「公爵家には逆らえない。グラティア、お前の婚約も当然ながら白紙になった」

「そんな」

「ふたりにはこれから北方にある辺境伯領へ向かってもらう」


 母親の遠縁にあたる辺境伯。

 幼い頃、一度だけ会った記憶を掘り起こす。

 最悪の状況に置かれた自分たちを助けてくれるとは、よほどの人物だろう。


「辺境伯領、ですか」 

「幸いなことに、公爵家の唯一手出しできない相手が彼なのだ。それに、王都からも離れている。これが最善の選択だった。本当に、すまない。これも家のためなのだ」


 グラティアは、何も言うことができなかった。





 姉妹が辺境伯領へ出発する日の早朝。


 誰も見送りには現れなかった。

 友人も、紙の上だけではあったものの――婚約者も。

 付け加えるならば、元婚約者からの最後の手紙には、こうしたためられていた。


『君のような才女に、私は釣り合わない。遠く離れた地での幸運を願う』


(上手いことを書いたつもりかもしれないけれど、自分は無関係だというアピールにしか見えないわ)


 公爵家の怒りを買った顛末がこれだ。貴族ならば、誰もが関わりたくないのだろう。

 涙どころか、溜め息すら出てこない。


 グラティアは長かった髪を肩上でばっさりと切った。それでようやく、王都への未練を断ち切れたような想いでいる。


 箱馬車の中で、クラーラはずっとうずくまって泣いていた。

 もしかしたら、妹が自分の分まで泣いているのかと思えるくらいに。

 そっと、グラティアはクラーラの背中を撫でる。


(悪いのは公爵家だというのに、皆、恐れて何もできない。そんな貴族社会から離れられて、かえってよかったのかもしれない……)


 王都から辺境領へ向かう道は、ひどい悪路なのだろう。

 揺れ続ける車内。グラティアはそっと壁にもたれかかり、瞳を閉じる。


(わたしの運命は、わたしのものではない……)


 ――そしてグラティアは、クラーラと共に王都から追放されたのだった。





 どれだけの時間が経っただろうか。

 馬車がつんのめるように大きく揺れ、止まった。


(着いたのかしら……?)


 グラティアの予想は当たっていた。

 丁寧なノックの後、箱馬車の扉が開く。

 冷たく乾いた空気が車内に流れ込んできて、グラティアは少しだけ震えた。


 外には黒いベスト、白いシャツ、黒いズボンの中年男性が立っていた。

 落ち着いた雰囲気の持ち主だ。辺境伯家の使用人だろうか。 


「お待ちしておりました。グラティアさま。クラーラさま。旦那様がお待ちでございます。足元に気をつけてお降りくださいませ」

「ありがとうございます」


 グラティアがクラーラの背中を撫でると、なんとかクラーラもゆっくりと起き上がった。

 姉妹は馬車から降りた。

 使用人がそれぞれの鞄を預かってくれる。


(空気のにおいが、王都と違う。乾燥しているというか、土のにおいが混じっているというか)


 地面は硬く、空は雲で覆われている。

 グラティアが吸い込む空気の冷たさに身震いして息を吐き出すと、白かった。


「こちらでございます」


 使用人が促してくれるまま、姉妹は門をくぐる。

 青い屋根の辺境伯家は堅牢そうで、見た目も王都の建物と違っていた。

 風や寒さに耐えうる造りになっているのだろう。


 ぎぃ、と扉が開かれる。

 館内はほのかに暖かい。足元から暖房が効いていて、じんわりと熱が伝わってきた。

 幾何学模様の壁には大きな肖像画がかかっている。


「やぁ。遠路はるばる疲れただろう!」


 静寂を破るような、張りのある声が響いた。

 階段から広間(サルーン)へ降りてきたのは穏やかそうな男性。

 艶のある金髪を後ろへ撫でつけている。口上には立派な髭。肖像画と、同じ顔。

 遠くからでも瞳の色は鮮やかな青色と判る。


「旦那さまでございます」


 使用人が説明を添えた。

 辺境伯、ウィルバー・レープハフト。

 年齢はグラティアより一回り上だと聞いていたが、同い年くらいに見えるはつらつさがある。


 姉妹の目の前に辺境伯が立つと、背の高さにわずかに圧倒される。

 グラティアは恭しく頭を下げた。


「お久しぶりです、ウィルバーさま」

「グラティアか。大きくなったな!」

「……お初にお目にかかります。クラーラと、申します……」


 グラティアがクラーラの声を聞いたのは夜会ぶりだった。

 掠れた、弱々しい声。

 それでも声を聞けたことに、グラティアは密かに安堵する。


 ふっ、とウィルバーが表情を和らげた。


「ここまでは公爵(シュレヒト)家の目も届かないから、気楽にのんびりと過ごせばいい」

「心から感謝いたします」


 それは紛れもなくグラティアの本音だった。

 王都で暮らすことは、もうできない。

 誰も自分たちのことを知らないこの地で、おびえずに暮らせるのはありがたいことだった。


 ウィルバーが使用人に顔を向けた。


「疲れているだろうから、部屋に案内しなさい」

「かしこまりました。グラティアさま、クラーラさま。こちらへどうぞ」

「落ち着いたら夕食にしよう。まずは、ゆっくり休みなさい」

「ありがとうございます」

「……ありがとうございます」

 

 そしてふたりは立派な客室に通された。

 ベッドが2台。シンメトリーに、机や鏡台も設置されている。

 姉妹用に整えられた室内は玄関と同じように暖められていて、壁や棚の上に花が飾られていた。

 窓の向こうの灰色とは別世界のようだった。


「いい人そうで安心したわね、クラーラ。……クラーラ?」


 右側の大きなベッド。

 グラティアが気づいたときには、クラーラははしたなくもその上でうずくまっていた。

 長旅での疲れも加わっているのだろう。


(それでも挨拶はできた。ゆっくり、回復していけばいい……)


 グラティアは答えが分かっていても尋ねる。


「クラーラ。夕食は?」


 首を振るクラーラの背中を撫でて、グラティアは音を立てないよう静かに部屋を出た。





 早朝の町は薄暗く、凛とした寒さがある。

 立ち込める雲は王都のものよりも重たく感じた。


 グラティアは用意してもらっていたワンピースを着ていた。

 ドレス以外に袖を通すのは久しぶりだった。

 チョコレート色のワンピースは裏地が起毛になっていて、温かい。白い襟には赤い小花の刺繍。辺境領の象徴の花だ。

 分厚いタイツは風を通しにくくて、初めて履いたショートブーツもヒールが低くて歩きやすい。


 行きかう人々こそまばらなものの、誰もグラティアを気に留める様子はなかった。


 ――辺境領での、最初の夜。

 グラティアはウィルバーから、この地にまつわる伝説を教えてもらった。


『この地には神の加護がある。その意味を知りたければ、教会へ足を運んでごらん』


 グラティアとクラーラは、これからこの地で生きていく。

 それならば神の加護についても知っておく必要があるだろう。

 行ってみます、とグラティアは答えた。


 また、クラーラが部屋から出てこない不敬を詫びたが、ウィルバーはまったく気にしていないようだった。それどころか、使用人が消化のよさそうなミルク粥を部屋まで運んできてくれたのだった。


 グラティアが舗道を歩いていると、少しずつ夜が明けてきた。

 薄い灰色と青色に、オレンジ色が滲んでくる。


 ……やがて視界に入ってきたのは灰色の教会。


 近づいていくにつれ、曇り空もわずかながら明度を増し、人々の姿も増えてきた。

 誰もが暖かそうな服に身を包んでいる。

 そして、寒さのせいか鼻の頭や頬はあかく染まっていて、ミトンをはめた手をこすり合わせていた。


 住民たちにならって、グラティアも教会へと足を踏み入れる。

 奥の祭壇では、司祭が祈りを捧げていた。

 

 グラティアは人々の背中を見つめて、息を吐き出した。


 ありふれた光景だ。

 国教は多神教であり、己の状況に応じて神を選ぶ。

 王都では、自分も彼らと同じように神へ祈りを捧げていたものだ。


 まだここに自分の居場所は、ない。

 神の加護は誰にだってあるはずなのに、自分は――自分と妹は理不尽な理由で王都から離れざるを得なかった。


(……眩しい)


 つきん、と鼻の奥が痛んだ。

 首を横に振って、深呼吸をする。


(わたしはここで生きていく。早くなじめるように、がんばらなきゃ。クラーラの分まで)


 顔を上げると、芸術的なステンドグラスからほのかに光が降り注いでる。

 完全に夜が明けたようだ。

 目を細める。

 そのままグラティアは聖堂を後にした。


 建物の横には広場があった。

 礼拝後の人々に対して、無料で温かなスープや飲み物を振る舞っているようだ。

 これもまた王都ではよく目にする光景だった。

 しかし伯爵令嬢のグラティアは利用したことがない。


 分かっていても、グラティアは辺りを見渡した。

 そして意を決して、飲み物を配っているテントへ近づいた。


「何にしますか?」


 暖かそうな恰好をした女性が、グラティアへ微笑みかけてきた。


「あっ、あの、ホットココアを」

「はい、どうぞ」

「……ありがとうございます」


 ホットココアを受け取ると、ミトン越しにも指先がじんわりと温まってくる。


 外で立ったままの飲食は、生まれて初めての体験だった。

 緊張しながらもグラティアはカップに口をつける。


(甘い。甘すぎるけど、美味しい)


 少し余裕が出てきて、視界が広がる。

 広場の奥では、蚤の市が開かれているようだった。

 どうやらテントとテーブルごとに店があるらしい。


 ちびちびとホットココアを飲みながら、周りにならってグラティアは蚤の市を見て回ることにした。


 器。古書。古着。

 骨董品以外にも、野菜やパン、菓子を売っている者もいる。

 蚤の市というよりは青空市。

 町の雰囲気を知るのに、ちょうどいい空間だった。


 その端で、グラティアは違和感に出会った。


(青い……髪?)


 空よりも青い色の髪をした初老の店主が、他の人々とは違って、地面に布を敷いて座っていた。

 青い髪は長く、腰元まであるようで、布の上にさらりと流れて輝いている。

 そして横顔でも分かる彫りの深さと、愁いを帯びたような表情。


 人ならざるものであるのは、明らかだった。


 グラティアの視線に気づいたのか、店主はゆっくりと顔を向けてきた。


「俺に気づいたか」


 低く落ち着いた声だった。

 ダークグレーの瞳は、感情が読み取りづらい。


「……え?」

「どれでも持って行きな」


 顎で青い髪の店主が指し示したのは、布の上。

 見た目は石。しかし輪郭が光を帯びている『何か』が、無造作に置かれていた。


 ゆっくりとグラティアは店主の前まで歩いて行き、しゃがんで、布の上へ視線を遣った。


「失礼します」


 王都では数々の宝石を目にしてきたグラティア。

 これらは、宝石にしては輝きが少なく磨かれていない。

 しかし、ただの小石にしては、不思議すぎる。


 平たく丸い小さな『何か』をグラティアは手に取った。

 質感も重さもただの石。

 グラティアは首を傾げた。


「あの、これは?」

「願いが叶う欠片だ。持って行け」

「願いが……?」


 グラティアは、ぱちぱちと瞬きをした。

 店主が目を伏せた。


「君は旅人か?」

「いえ。昨日、この地に移ってまいりました。グラティアと申します」

「そうか」


 尋ねておいて気のない感想。

 グラティアは少し困って、質問を返すことにした。


「あなたは? 珍しい髪の色をしていますね」

「俺は、神だ」


 神と名乗った店主が顔を上げる。

 その表情から、グラティアは何の感情も読み取れなかった。





 グラティアが辺境伯家まで戻ってくると、穏やかな笑い声が聞こえてきた。


「クラーラ!」


 聞きたかった声だ。

 慌ててグラティアは広間横の応接間(ドローイングルーム)へ飛び込んだ。


 ふわり、と優しい紅茶のにおいが漂っている明るい室内。

 クラーラが口元に手をやって、笑っていた。グラティアと同じく用意されていたワンピースに着替えている。

 その向かいには、辺境伯(ウィルバー)が腰かけていた。


 入口で立ち尽くすグラティアに、クラーラが顔を向けた。

 瞼は腫れ、瞳は充血している。

 それでも数日前までと同じように、ふわっと表情を綻ばせた。


「お帰りなさい、お姉さま」

「クラーラ……」

「心配をおかけしてごめんなさい」


 グラティアは急いでクラーラに駆け寄る。

 身を屈め、クラーラを抱きしめた。


「いいのよ。あなたは何も悪くないのでしょう?」


 クラーラもまた、姉の背中へ腕を回してきた。


「……はい。信じてくださって、ありがとうございます」


 妹の温もりに、グラティアは涙が零れないよう鼻をすすった。


「グラティア嬢。外は冷えただろう。紅茶はいかがかな」


 辺境伯が問いかけてきた。

 グラティアはクラーラから身を離して、会釈する。


「失礼しました。帰宅のご挨拶を後回しにして、申し訳ございません」


 ははは、とウィルバーが笑う。


「問題ない。堅苦しくしなくていいと言っただろう?」

「恐れ入ります。紅茶、いただいてよろしいでしょうか」

「もちろん」


 辺境伯が使用人に目線で合図をした。

 さらに彼から促されて、グラティアはクラーラの隣に座る。

 座り心地のいいソファは表面が起毛で、やわらかな暖かさがある。


「何をお話しになっていたんですか?」


 すると、クラーラがテーブルの上に置かれた小石を手に取った。


「お姉さま。ご覧になってくださいませ」

「……これは」


 グラティアが先ほど『神』と名乗った男に貰った小石と同じ見た目。

 懐から、グラティアはそれを取り出した。

 姉妹は目を見開いてお互いの小石を確認する。


「ほぅ。グラティア嬢は運がいいな。さっそく、神に会えたのかい」

「神? あの青い髪の方は、本当に神なのですか?」


 辺境伯が強く頷いた。


「その通り。あの御方は、天界から追放された神なのだ」


 そして、この土地に古くから伝わる御伽噺だ、と前置きをした。


 青い髪の、神の物語。

 かつて、天界から追放されて人間界へと堕とされた。

 天界へ戻るために『善き行い』をしなければならない。

 ゆえに、数百年にわたって、この地で困っている者へ力の欠片を分け与えている。


 出会えた者は幸運。

 その欠片に願いを唱えれば、叶わない望みは、ない。


「辺境伯は何も願わないのですか?」


 グラティアは疑問を向けてみた。

 ふわっとウィルバーが微笑むと、目尻の皺が深くなる。


「これは客人に見せるために持っているだけ。私は辺境伯だからね。欲しいものは、己の力で手に入れるのさ」





 数日後。


 グラティアが青空市へ足を運ぶと、前回と同じ場所に神が座っていた。


 ひとりの老婆が足を引きずりながら神へと近づいていく。

 欠片を受け取ると、何度も何度も跪いた。


 やがてゆっくりと老婆が去って行くのを見届けてから、グラティアは神に挨拶した。


「またお会いできましたね」


 神が顔を上げて、グラティアを見る。


「ん……? あぁ、この前の娘か」

「はい」


 グラティアはしゃがんで、神に目線を合わせた。

 見た目はグラティアの父に近い。

 しかし、相手は神である。実年齢は人間では数えられないものになるだろう。


「あなたは本当に神さまなのですね。辺境伯から教えていただきました」

「ウィルバー・レープハフトのことか?」

「はい。わたしと妹は、先日から辺境伯家にお世話になっているのです」


 ふむ、例の件かと神がひとりごちた。

 言葉にはしなかったものの、どうやらグラティアの事情を理解したようだった。


「神さま。こちらはお返しいたします」


 グラティアは懐から欠片を取り出した。

 神が、きょとんとしてグラティアを見た。


「返品したいと言われたのは初めてだな。理由を訊いてもいいか?」

「叶えたい願いが思い浮かばないからです。世の中には先ほどの方のように、毎日の暮らしもままならない者もいるでしょう。そのような方々に、この欠片は渡されるべきです」

「面白いことをのたまうな、娘」 


 神はにやり、と口角を上げた。


「返品はあいにく受け付けていない。いつか必要な日が来るだろうから、持っておけ」

「……分かりました」


 グラティアは欠片を懐へ戻した。

 布の上の欠片は形も大きさもまばら。


「それに、人間が欠片を選んでいるのではない。欠片が、人間を選ぶ」

「詩のようなお言葉ですね」

「神にできることは、人間の願いを叶えることと、詩を諳んじることくらいだろう」


 人々の話し声や笑い声が増えてくる。

 しかし神に気づいているのは、グラティアだけのようだった。


「神さま。あなたのお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

「神の名を尋ねてくる人間も、初めてだ。娘、お前は変わっているな」


 グラティアは少しだけ苦笑いを浮かべた。

 気になることがあると黙っていられない性格のせいで、自らは今、この地にいる。


「様々な名前を付けられたり名乗ったりしてきたが、最も多く呼ばれたのは、ルークだ」

「ルーク、さま」

「何だ」

「いえ、呼んでみた、だけです」

「娘。やはり、変わっているな」




 ――それからグラティアは、ルークの元を訪ねるようになった。




 足が向かってしまう理由はグラティア自身にも分からない。

 ルークは青空市にいる日もあれば、いない日もあった。

 人々に欠片を与えているときは近づかないようにした。


 会話が長続きすることはなく、挨拶をして帰る程度の交流。


 ある日のこと。


 グラティアは青空市で、ホットクレープを買った。

 りんごのコンポートに程よくシナモンがかかった、カスタードクリームたっぷりの温かなクレープ。それを手に、青空市を歩く。


 ルークはいつもの場所に座っていた。


「こんにちは、ルークさま」

「お前か」


 追い返すのでも、邪険にするのでもなく。

 淡々とした様子でルークがグラティアを認識する。


「いい香りがする」

「シナモンですか?」


 グラティアはいつものようにしゃがみ、ホットクレープを見せた。


「ルークさまは人間の食べ物を召し上がることができるのですか」

「そうだな。食べないことは、ない」

「まだ口をつけていないので、よろしければどう……」


 グラティアがホットクレープを差し出したときだった。


 ぱくり。


 ルークはグラティアからクレープを受け取るのではなく、身を屈めて、そのまま頬張った。


(えっ……? えっ?)


 さらり、とルークの青い髪が衣擦れのような音を立てる。

 自然と上目遣いになったルークと視線が合い、グラティアは頬が熱を持つのを感じた。


「美味い」


 何事もなかったかのようにルークは姿勢を元に戻す。

 口元についたカスタードクリームは指で拭って舐めた。


「す、すべて召し上がりますか……?」

「一口で満足した。食べないこともないが、積極的に食べたいとも思わない」


 冷静に考えれば相当な傍若無人ぶり。

 普段のグラティアなら文句をつけるところである。

 しかし起きたことに動揺してグラティアは小さくはいと呟いた。


「娘。今日は町を散策してから帰った方がいい」

「どういう意味でしょうか」


 グラティアの混乱をよそに、ルークは静かに告げた。


「お前たち姉妹を追い出した家の使者が訪ねてきている。顔を合わすこともないだろう」

公爵(シュレヒト)家の使者が……?!」


 弾かれるようにグラティアは立ち上がった。


「教えてくださってありがとうございます。わたしは、帰ります」

「やめておけ。お前にできることは、ない」

「そうかもしれません。ですが、妹のことが心配なのです」


 やっぱりこのホットクレープは差し上げます、とグラティアはルークの膝の上に載せた。


(クラーラ……!)


 慌てて辺境伯家に戻ると、立派な箱馬車が門のところに停まっていた。

 使者はちょうど箱馬車に乗り込んだところのようで、ウィルバーが何やら話しかけている。


 荒々しく走り去る箱馬車。


「ウィルバーさま」

「お帰り、グラティア嬢。いいところに帰ってきたね」

「今のは……公爵(シュレヒト)家の」

「あぁ。どうやら私が君たちを世話しているのが気にくわないようだ」


 グラティアは眩暈を覚えた。


「ご迷惑になるようでしたら、……」

「まさか。私が損になることを進んでするような『善人』に見えるかい?」


 くつくつとウィルバーが笑う。

 ただ、その瞳の奥は笑っていない。

 何故だかグラティアは背筋が冷えるような気がした。


「君たちを取り込んだ方が、『今後』のために有利だと考えた。それだけのことだから、変に恩や引け目を感じる必要はないよ」


 

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