悪役令嬢には、ばあやがついている。
ばあやが憑いてる。
『パシッ』と何かを打ち付ける音がする。
あれは、ばあやの鞭の音。
わたくしが悪いことをするといつもばあやは鞭を振るった。ばあやの皺くちゃの顔や白い髪がまるで絵本に出てくる魔女のようで、とても恐ろしかった。
「ああ、バーサ……。止めろと言うのね? わたくしに、悪いことをするなと言うのね?」
ガートルードはサファイヤのような蒼い瞳いっぱいに涙を溜め、虚空に呼びかけた。
鞭の音はもうしない。空耳だったのか、とすら思える静寂が夜の闇に広がっている。
愚かなことだとガートルードにもわかっているのだ。こんなことをしたって、ガートルードの愛しい彼の心は帰ってこない。
ガートルードは涙を拭い、頭からかぶっていたシーツを脱いだ。ネグリジェ姿で学生寮を抜け出し、恋人の浮気相手に突撃なんて、人に見つかったら何と言い訳するつもりだったのだろう。自分の馬鹿さ加減に自嘲した。
カーテンを開けはなった窓からは月も望めない。暗闇に紛れてあの女を排除してしまおうと思った、自分の心のようだった。
ベッドに戻り目を閉じる寸前、ガートルードは呟いた。
「バーサ、歌をうたって。そばにいてね?」
子供の頃、熱を出すとそうねだっていたように。
返事はない。あたりまえだ。ガートルードの乳母であったバーサは三年前に死んでいる。目を閉じれば今も思い出せる。バーサは最期まで、ガートルードの味方だった。
◇
ガートルードの生まれた公爵家は、冷たい家庭だった。
歳の離れた姉はすでに王太子と婚約を結び、兄たちもそれぞれ職に就いている。遅くに生まれたガートルードは完全に厄介者。みそっかす扱いだった。
乳母にバーサを与えてくれたことだけが、家族に感謝しているただ一つの恩だ。
孤独なガートルードに愛を教え、物の道理を教えてくれたのはバーサだった。バーサはいつもガートルードの味方だった。悪いことをすれば叱り、良いことをすれば褒めてくれる。そんなあたりまえの愛情を、あたりまえに注いでくれた。
愛しているからといってすべてを許すのは愛ではない。本当の愛とは、どんなに苦しくとも正しい道に歩ませる、時には鞭打ってでも厳しくすることも愛だとバーサは言った。
バーサは鞭を持っていたが、それがガートルードに振るわれたことは一度もなかった。バーサは机か、鞭をしならせることで空気を叩き、音を利かせることでガートルードを戒めた。
ガートルードに好きな人ができたこと、その男の子と交際することになったと真っ先に言ったのもバーサだった。
「人を好きになるのはとても素晴らしいこと。そして、とても苦しいことです」
ええ、そうねバーサ。こんなことになるとは思わなかったわ。あんなに幸福だった日々が、たった一人の女が現れたくらいで壊れるなんて、あの頃のわたくしには思いもよらなかった。未来を誓ったあの方が、まさか浮気をするなんて。
バーサが死んだ時あんなに泣いて、もう泣くことなどないと思っていたのに、失恋くらいで涙が出てくる。
彼が憎い。それ以上にあの女が憎い。自分などどうなろうが、復讐せずにはいられないほど、憎いのだ。
ああ、バーサの子守唄が聞こえる。
「ガートルードお嬢様、バーサはいつだって、お嬢様の味方ですよ」
ええそうね。わたくしはバーサが大切に愛してくれた、わたくしのままでいるわ。
◇
ガートルードの恋人であるウィリアムの浮気は、学園では知らぬ者のない公然の秘密だった。
ウィリアムは伯爵家の三男で、卒業後は文官として働く予定である。公爵令嬢のガートルードとの仲が認められたのは、遅くに生まれて持て余されていた娘と、たいして期待されていない三男だったからだ。どうでも良かったから、お互い好きあっているのなら婚約させよう、と揉めることなくあっさり決まった。
高位貴族には珍しい恋愛結婚をするはずだった二人。ウィリアムとガートルードに憧れていた少女たちの多くはウィリアムに失望し、ガートルードに同情した。貴族の不倫は珍しいことではないというか、不倫こそ恋愛という風潮すらあるが、結婚前なのだから隠すくらいはしろよ、と呆れて見ているのだ。しかも学生の身である。国中の主だった貴族が学園に通っているのだから未婚の身で早々と不貞行為に及ぶのは馬鹿としかいいようがなかった。
「あら、またセシリア様とウィリアム様が一緒にいますわ」
学園の四阿でセシリアを膝に乗せ、堂々といちゃついている二人に通りすがりの女子生徒が眉を顰めた。
「少しは隠せばよろしいのに」
「見せつけているのでしょう。はしたない。ここにガートルード様はいませんのにね」
ガートルードは二人を目撃しないよう、友人たちにがっちりガードされている。
「ご覧になりまして? 今朝のガートルード様、泣きはらした目をされていらしたわ」
「ええ。ガートルード様と同じクラスの友人に聞きましたわ。普段気丈でいらっしゃるのに、やはり恋人の裏切りには心を傷めていらっしゃるのですわ」
「恋愛も難しいのですわね。政略でのお相手でしたら心がないぶん安心かしら?」
「愛のない結婚は虚しいだけですわ。でも、ガートルード様ほどの方でも浮気されてしまうなんて。いったい何を信じてよいのやら」
「わたくしたちも、あの二人とガートルード様を会わせないようにいたしましょう。これ以上傷つくことはありませんわ」
「そうね。そうしましょう」
女子生徒たちはウィリアムとセシリアの前なら皮肉を込めて噂話をするが、ガートルードの前ではおくびにも出さなかった。
公爵家に気を使って、というだけではない。気品ある立ち居振る舞い、学園トップの優秀さ、ダンスの足さばきの優雅さと、細い体躯のどこからと感嘆するほどの体力、そのどれをとってもガートルードは理想のレディなのだ。そんな彼女がウィリアムといる時だけに見せていた屈託のないくだけた笑顔やちょっとした失敗に照れる様、ガートルードもまた自分たちと同じ少女なのだと安心させる、人間的魅力に惹かれてのことだった。
彼女たちが去ると、セシリアはこれみよがしに悲しい表情を浮かべて顔をうつむかせた。
「やっぱり、私といるとビル様が悪く言われてしまうのね」
「気にしなくていい。セシリア、あんなのはただのもてない女の僻みだよ」
「でも、あの人たちきっとガートルード様に言うわ。私はいいの。でも、ビル様が悪者にされてしまうのが悲しくて」
「セシリア……」
ウィリアムはセシリアの頬に口づけると、彼女の腹部に手を回して抱きしめた。
「なかなかの演技じゃないか」
「あはっ。あんな嫌味を言うくらいなら自分でも男を捕まえればいいのよ」
打って変わって明るく皮肉を返すセシリアに、くっとウィリアムが笑った。
「ガートルードは真面目すぎて融通が利かない。学生の間くらい好きにすればいいのに、自分で自分を追い込んで。何が楽しいのかね」
「うふふっ。そんなこと言って。ガートルード様が浮気したら怒るクセに」
「そんなことはないさ。これくらい恋の駆け引きだろう」
「あーぁ、お嬢様じゃあ話にならないわね」
ふん、とウィリアムは鼻を鳴らした。
「僕だってガートルードを愛しているさ。でもさ、結婚前の遊びくらい大目に見てくれたっていいだろう」
浮気男の常套句である。ガートルードが聞いていたらビンタのひとつもくれていただろう。
遊び相手とはっきり言われたセシリアは笑うだけだ。普通の女なら怒るところだろうが、彼女にとってもウィリアムは単なる遊び相手だった。
「その点私の婚約者は寛大だわ。学生時代は貴重なものだ、遊んでおいでっていってくれたのよ」
そう、セシリアにも婚約者がいるのだ。裕福な商人だが親子ほどの歳の差がある男やもめで、実家の子爵家への援助と引き換えに婚約を結んだ。
悪い人ではない。若い娘なら誰でも良かったわけではなく、貧しいながらも才女と名高いセシリアを気に入って援助を申し出てくれたのだ。結婚は、むしろ共同経営者を狙ったセシリアから持ち掛けたのだ。それなら、と婚約者のジェームズは王都の名門校を薦め、入学金その他の支援をしてくれた。
楽しんでおいで、とジェームズはセシリアを見送った。だからセシリアは、今しかできないこと、同年代の男との恋を楽しんでいる。ウィリアムにしたのは彼にも婚約者がいたからだった。本気にならない恋の駆け引き。公爵令嬢であるガートルードへの嫉妬があったのは認めるが、ウィリアムと結婚する気などさらさらなかった。
「結婚するまでだ」
「そうよね。学生時代のほんの一時だけだもの。きっとガートルード様も笑って許してくださるわ。なんなら男を紹介してあげようかしら?」
おわかりだろうが、この二人、大真面目にクズである。とってもお似合いだ。
パシッ!
笑いながら唇を重ねようとした時、空気を弾く音がした。
パシッ!
パシッ!
「な、なに……?」
セシリアがウィリアムから体を離す。ウィリアムは不審そうに周囲を見回した。彼はガートルードのばあやが鞭を持っているのを聞いたことがある。
ぞくっと背筋が震えた。学園内に鞭を持った老婆が入ってこられるはずがない。
「誰かの悪戯かな。セシリア、もう行こう」
「え、ええ」
二人が立ち上がった、その時だった。
ギャアギャアギャアギャア……。
けたたましい鳴き声をあげて、いっせいに鴉が飛び立っていった。
「……行こう」
逃げるように四阿を後にした二人の背後で、またパシッと鞭の音がした。
◇
パシッ!
その音が聞こえると、不気味なことが起きるようになった。
セシリアが朝目を覚ますとベッドの周囲に虫の死骸が撒き散らされていた。悲鳴をあげると隣室の子が壁を叩いてきた。泣きながら寮監のところに駆け込むも、気味が悪そうに顔を顰めて片付けておくようにと言われただけだった。
「じ、自分でやるの!? それより、犯人を捜しなさいよ!」
「……犯人? ……夜寝る前に鍵をかけておかなかったのかい?」
「かけたわよ!」
「それじゃあ外から誰かが侵入なんてできるわけないだろう。まさか、誰かに恨まれる覚えがあるとでも?」
ガートルードのせいにするつもりか、と暗に責められ、セシリアはぐっと黙り込んだ。
証拠もないままガートルードを犯人だと決めつけることはできない。もとよりガートルードに虫を殺すことなどできないだろう。
「いくら嫉妬したといっても、ここまでやるかね。いや、女は怖いな」
自作自演だと決めつけられ、セシリアは悔しさに涙目になりながら部屋を掃除した。
ウィリアムは料理の中に白く長い髪が入っていた。口の中に違和感を覚え、引っ張り出してみたら喉の奥まで飲み込んでおり、ずるずると引き出される毛髪に周囲のほうがドン引いた。
食堂の厨房にクレームをつけにいったが料理人の中に白髪の者はおらず、逆に悪質クレーマーだと目を付けられた。
「髪ってところがおっかねえよなー」
「ビル、お前どこかの女に恨まれてるんじゃねえの?」
「白髪のばあさんまで範囲に入ってるとか、お前すげえな」
友人たちは妬みもあるのかげらげら笑うだけだ。ガートルードは男子生徒にとっても憧れの令嬢である。そんな彼女を放って別の女とよろしくやっているウィリアムを良く思わない者も多かった。
どうせガートルードの友人たちの嫌がらせだろう。ウィリアムとセシリアはあてつけるようにますます人目を憚らなくなっていった。
誰もいない教室に忍び込み、校庭で部活動に励む者たちに見せつける。
「もしかして、ガートルード様が呪ってたりして……」
セシリアは気味が悪かった。なにしろ目撃者がいないのだ。何もないことを確認したはずなのに、次の瞬間にはクローゼットの中身がぐしゃぐしゃにされていたり、何かにつまづいて水たまりに転んだこともある。気のせいだと何度も言い聞かせているものの、ちょっとした不幸が立て続けに起きている。
「まさか、ガートルードが? ありえない」
「だって、他になにかある? ガートルード様が嫉妬してるんだわ」
「だからって呪いはないだろう。非現実的すぎる」
「それは……そうだけど。なら、誰の仕業だっていうの?」
「公爵家には裏工作の得意な者がいると聞く。僕らの話を聞いた公爵家が釘を刺してきたんじゃないかな」
呆れ気味に言われると呪いだと思い込んでいたのが恥ずかしくなる。だが、公爵家に睨まれているとなると話は別だ。ジェームズの商売に影響するかもしれない。
俯いて考え込んでいたセシリアの視界に、ウィリアムの足を摑もうとしている手が見えた。
「あ……あぁ……」
「? セシリア?」
とうとう手がウィリアムの足首を摑んだ。さっと彼の顔が強張る。
「ビ、ビル……」
「セシリア、助け――……っ!!」
ウィリアムがセシリアに手を伸ばそうとしたその瞬間、物凄い勢いで引っ張られたウィリアムが椅子から転がり落ちた。そのまま何かに引き摺られ、机や椅子をなぎ倒す。
「うわあぁぁぁぁっ」
「ビルっ!!」
引き摺られまいとウィリアムが床に爪を立てた。がりがりと引っ掻き傷が床に線を描く。
「おい、どうした?」
そこに、物音を聞きつけた教師がやってきた。なぎ倒された机と椅子、床に転がった涙と鼻水まみれのウィリアム、蒼ざめて立ち尽くすセシリアを見て眉を寄せる。
「なんだ? 痴情の縺れか?」
恐怖と安堵が同時に押し寄せたセシリアが泣きながら首を振るが、呆れたようにため息を吐かれるだけだ。
「お前たち、噂になってるんだからほどほどにしておけよ。別れ話なら余所でやれ。ああ、それと、公爵家を敵に回すような真似はするなよ」
「ちがっ、違うんです先生っ」
「机と椅子はきちんと片付けておくように。……ったく、学園の品位をこれ以上落とさないでくれ」
今時の若いもんは、とぶつくさ言いながら行ってしまった。
セシリアはようやく起き上がったウィリアムに怯えて、逃げるように教室を出ていった。
◇
一時泣き暮らしていたガートルードだが、友人たちの励ましでなんとか立ち直りはじめていた。
「ガートルード様、今度のお休み我が家のお茶会にいらしてくださいません?」
「お茶会ですの?」
「ええ。妹の茶会デビューなんですの。わたくし手紙に素敵な方だとガートルード様のことを書いたら、あの子がぜひお会いしてみたいと言って。ご迷惑でなければ」
「まあ、わたくしのことを? 嬉しいですわ、ぜひ」
「ありがとうございます。妹も喜びますわ」
休日にガートルードを一人にしてあれこれ思い悩ませるよりは、とこうして誘ってくれる。ウィリアムのことで泣くのではなく、楽しいことで笑えるようにと気を使ってくれるのだ。
皆様も、と招待状を手渡され、ガートルードは心がほっこりした。
「学園もいいですわね。こうして直接招待状をお渡しできますもの」
「そうですわね。お名前しか知らない方ですと出席を迷いますわ」
招待状を眺めていたガートルードは顔をあげた。
「皆様、今度我が家のお茶会にいらっしゃいませんか?」
ガートルードが茶会を開くのは、ウィリアムの浮気があからさまになって以来一度もなかった。浮気された女と噂されるのが怖かった。とてもそんな気分になれなかったのだ。
でも、今は。
「ガートルード様、よろしいんですの?」
自分のことより、こうしてやさしく気づかってくれる友人たちに、感謝を伝えたかった。
「ええ。……正直申しますと、ウィリアム様のことがあってから人の目が怖かったのです。でも、そんなわたくしに、皆様やさしくしてくださって……。嬉しかったのですわ」
「まあ、ガートルード様」
「友人のありがたさをしみじみ感じましたの。その、お礼をさせてくださいませ」
「お礼だなんて。わたくしたちはただガートルード様が好きなだけですのよ」
「そうですわ。でも、ガートルード様のお茶会は楽しみですわ」
「女だけでぱーっと気晴らししましょう」
ガートルードが元気になったことをこんなに喜んでくれる。友とはなんとあたたかいものだろうか。
あの夜、道を踏み外さなくて本当に良かった。ガートルードは微笑んだ。
「ガートルード! お前のせいか!!」
そんなほのぼのした空間に、ウィリアムが飛び込んできた。
「ウィリアム、様……? なんのことですの?」
ガートルードは一瞬誰だかわからなかった。それほどウィリアムは様変わりしていた。
頬は扱け、目は落ちくぼみ、顔色などどす黒くなっている。おまけに制服はしわくちゃで、なにやら異臭がした。友人たちが眉を顰め、顔を背ける。
「ふざけるなっ。お前があの乳母に命じてやらせたんだろうっ! 浮気くらいで目くじら立てやがって、つまらない女め!」
さっとガートルードの顔色が変わった。
それを悪事がばれたからだと思ったウィリアムが更に叫んだ。
「クリーニングに出せば手違いで生乾きのものが返ってくるし、おまけにさっき転んで牛乳溢した!」
「それはご自分のせいでは?」
たしかに不幸だが、それを人のせいにされても困る。呆れるガートルードにウィリアムはますます激高した。
「セシリアは書いてもいない手紙のせいで婚約破棄されて慰謝料を払うことになった。退学して働きに出るはめになったんだぞ!? セシリアが自分で浮気の報告なんかするはずない、お前が調べさせたんだろう!?」
「手紙? わたくしがどなたに? それよりセシリア様は婚約してらしたの?」
ガートルードには覚えのないことばかりだった。周囲のガードのおかげでセシリアの情報など知らないのだ。
「とぼけるな!!」
ウィリアムが叫び、喉を詰まらせて咳きこんだ。ガートルードの眉がさすがに寄る。こんなに残念な男ではなかったはずなのに、残念すぎる。
「それに、僕にも……。夜になるとあの鞭の音がするんだ。公爵に泣きついたのか? あの乳母をどこかに潜ませて睡眠妨害なんて、やることが汚いぞ」
「落ち着いてくださいウィリアム様。バーサは三年前に死んでおりますわ」
一番の味方を喪って泣き崩れるガートルードを慰めたのはウィリアムだ。
思い出したのか、ウィリアムのどす黒い顔色が蒼くなる。
「……わたくしは、ともかく」
ガートルードはしだいに怒りが湧き上がってくるのを感じた。
「バーサを悪く言うのはお止めください。バーサはわたくしにとって親も同然。バーサへの侮辱はわたくしが許しません」
今まで一度もこんな目でガートルードに見られたことのなかったウィリアムは狼狽えた。
「セシリア様が退学になり、働きに出るというのならウィリアム様が助けて差し上げればよろしいではありませんか。わたくし喜んで身を引きますわ」
「セシリアとは結婚前の遊びだ。セシリアもそのつもりだったんだ、あの女と結婚なんてできるわけないだろう!」
ウィリアムの主張にガートルードはもはや嫌悪しかなかった。遊びなら遊びらしく、隠れてやればよかったのだ。いや、良くはないが、なにも見せつけてくることはなかったはずだ。
「遊びであのようなことを? 学園中の噂になって、わたくしが傷つかないとでも思っていたのですか」
「お前とはどうせ結婚するんだ。長い人生の一時のことだろう」
友人たちがいっせいに眉を顰めた。そんな最低な遊びでガートルードは泣かされたのだ。
「まあ、なんて下品な。品性下劣ですわね。わたくしそのような方とこれからの長い人生を共に歩むなんてとてもできませんわ」
「なっ」
「ウィリアム様の不貞は学園中の知るところ。おそらく伯爵様もご存知でしょう。婚約破棄に同意してくれることと思います。ウィリアム様も、どうせ、としか思えないような女と結婚しなくて済みますわね」
「待ってくれ、ガートルード! 本当に遊びだったんだ!!」
「遊びで人の心を傷つけておいて、何事もなかったように結婚できると思っていらしたのが不思議でなりませんわ」
「君を愛してる。もうしないから……」
「愛は免罪符になりませんのよ? そうそう、よくバーサが言っていましたわ」
――悪い子にはお仕置きをしませんと。
バーサの声を真似たのだろうそのセリフは、まるで彼女が乗り移ったかのように低くしゃがれていた。ガートルードも驚いたのか口元を押さえている。
「あなた方の不幸はわたくしのせいでも、バーサのせいでもありません。ただ、ご自分に返ってきただけです」
そこまで言ってガートルードは横を向いた。もう話すことはないという意思表示である。
「ウィリアム様、お帰りになって? これ以上わたくしの友人を傷つけるのはお止めになってください」
「恥というものをご存知ですの? ご自分のなさったことを振り返ってみたらいかがかしら?」
「ウィリアム様たちは楽しい遊びだったのでしょうけれど、わたくしたちは不愉快でしたわ」
ガートルードの友人が口々に言った。ウィリアムは縋るようにガートルードを見たが、彼女はもう彼を見ようとしなかった。
「ガート……」
ルード、と呼ぶ前に、ピシッと鞭の音がした。はっきりと聞こえた。
ガートルードが気づいて周囲を見回す。
「バーサ……?」
「ひぃぃっ、この音、この音だぁっ!」
ウィリアムは腰を抜かし、這いずるように逃げていった。ガートルードはかまわずにバーサを探した。
「ガートルード様……」
「ばあやは……。バーサはわたくしの目指すレディそのものでした。心やさしく、正しく、いつも誇りを忘れない……」
ガートルードの涙交じりの言葉に友人たちはもらい泣きの涙を浮かべた。
「バーサ様は、ガートルード様を愛しておられたのですね」
「本当に……。ガートルード様を思えばこそ、ウィリアム様にお仕置きされたのですわ」
「まこと、レディの鑑ですわね」
バーサの愛が歪んでいれば、ガートルードは嫉妬に狂い、自分が破滅してでも復讐を成し遂げようとしていただろう。
たとえ相手に嫌われようとも正しい道へと導く。バーサだったからこそ踏みとどまれたのだ。
「ええ。わたくしはバーサに育てられたのですもの。バーサに恥じぬレディになってみせますわ」
ガートルードは誰もいない空に向かって宣言した。そして、お手本のような綺麗なカーテシーをしてみせた。
◇
セシリアは婚約者に宛てた『直筆の手紙』で不貞行為を暴露してしまい、いくら才女でも不誠実な女は妻にできないと婚約を破棄された。学位を取ることを勧めたのはジェームズだが彼に自分を売り込んだのはセシリアである。ジェームズの楽しんでおいでという言葉を曲解し、浮気を楽しんだ彼女に妥当な罰だろう。
セシリアはそれを書いたのは自分ではないと訴えたが、誰が書いたにせよウィリアムとの浮気は事実だ。誰が手紙を書いたのかは問題にならなかった。
ガートルードとウィリアムの婚約は無事に破棄された。仕事で忙しいとガートルードをバーサに任せきりで、涙さえ家族に見せなかったことに衝撃を受けた兄たちが動いたのだ。公爵家にそれを訴えたのは、ガートルードの友人たちだった。
ウィリアムは不貞の慰謝料を請求されなかった。それでも公爵家に睨まれた男というレッテルは付いて回った。学生時代の遊びの代償は重く圧し掛かり、ウィリアムは同年代の女性たちから遠巻きにされた。結局そういう遊びが好きな有閑マダムに引っかかり、捨てられないよう懸命に尽くしているらしい。
ガートルードはその後自分の世間知らずを反省し、家を出て他国に留学した。バーサがガートルードには好きなことをやらせるべきだと公爵に遺言を遺していたという。様々な国を留学して回り、ガートルードはこの国では珍しかった女流冒険家として知られるようになる。留学中に知り合った男性と結婚後は、女流作家として名を馳せた。
「ガートルード、何か良いものが見つかったかい?」
「あなた。ええ、懐かしいものを見つけたわ」
「鞭?」
蚤の市で見つけた鞭は、懐かしいバーサがよく使っていた物と似ていた。手に持って振るうと、あのパシッと空気を叩く音がした。
――悪い子にはお仕置きをしませんと。
囁くような笑い声が、どこからか聞こえた。
婚約した途端モテはじめるというのはよく聞く話です。安心して遊べる相手認定されて嬉しいのかな?と思いますけど、遊んじゃう人もいるみたいです。