猫屋敷の退屈な一日
憑き物筋、という家系がある。動物の妖怪を使役して、呪いをかけることをなりわいにした一族だ。狐憑き、犬神憑きが代表的だろう。
猫塚 未理の一族はその名の通り、化け猫や猫又といったあやかしを使役する。
だが、犬神でさえ使役主に噛みつくことも珍しくないこの界隈。猫のあやかしが呪術に向いていると考えた猫塚家の祖先だが、従わせるまでにはかなりの時間がかかった。
その技術を確立させた頃には、あやかしはおとぎ話の存在。猫塚家は、結局歴史に名を残すことはなかった。
「サトさん、起きて。朝ご飯が片付かない」
諸事情があって、未理はこの日向 郷という青年の屋敷に置いてもらっている。
風に桜が舞い散るこの時期、まだ冷える朝には布団の中はさぞ居心地が良いだろう。が、未理は容赦なく掛け布団をはぎとった。
「んー、あとちょっと……」
寝ぼけた声の彼は、猫のように丸まっている。幼げな顔立ちだが、これでも成人らしい。
そのまわりでも、暖をとりに集まってきたらしい猫のあやかしが数匹、同じように眠っていた。掛け布団の暖かさがなくなった分、猫たちが郷に寄ってくる。小動物の高い体温で、郷は再びうとうととまぶたを閉じた。
「二度寝禁止!」
屋敷に置いてもらって約一週間。未理はいまだ、この家主のことを把握できていない。約三十匹もの猫たちを連れてここに転がり込んだ未理のことを、どう思っているのかも。
『行くとこないなら、僕のうちに来る? やたら広いから、猫たちが一緒でもいいよ。家賃? 簡単な家事だけしてくれるならいらない。僕、家事苦手だから。あと、僕のことはサトって呼んでね』
幸いなことに、昨今は空前の猫ブーム。おもに猫カフェの経営など、無名だった猫塚家は今やかなりの成功をおさめている。
未理もまた、親戚が経営するペット業界のとある会社に勤めているので、金銭には困っていない。ただ、多くの猫たちと住める物件が少ない。そんな行き場に困っていた未理が、親戚の紹介で居候することになったのが、郷の屋敷だった。
「雪丸、サトさん今どこ?」
ちょうどすれ違った猫又に問いかける。二つに分かれたしっぽを揺らして、普通の猫っぽくにゃあと一声。
「書斎だ。今日も本を読みながら寝ている」
雪丸は答えるついでに方向転換して、書斎に向かう未理の後ろをとてとてついて来る。大きな窓から差し込む陽光に、真っ白な毛並みが輝くようだった。
普段仕事で外に出ている未理は、郷がどうしているかわからない。家にはいるようだが、彼の仕事すら知らない。
今日は休日。家事の合間に、郷の様子を観察してみることにしたのだった。
書斎というだけあって広く、北向で日の入りにくい部屋。散らばった本と猫たちに囲まれた郷が、床で寝ていた。手元の読みかけらしい本は、手が挟まってかろうじて開かれている。
朝もずいぶん寝坊していたというのに、まだ寝足りないのだろうか。
「この人、いつもこんななの?」
「そうだな。日によって読んでいる本は違うが、日中はどうも眠いらしい」
「本、好きなのかな」
「それもあるだろうが。主殿、よく見てみるといい」
雪丸の青い瞳が示す先を追って、未理は改めて本を見る。文学的なものではなく資料に近いもので、どれにも共通するのは猫に関してのものということだ。
「彼もまた、主殿に歩み寄ろうとしている。何より、感性が我らに近く好ましい」
「やけにあなたたちが懐いてるわけね」
未理も猫たちを従わせるまで時間がかかったが、郷にはすんなり猫たちが寄っていく。『主』ではないからなのか、同類だからなのか。
昼食前には郷と朝と似たような応酬を繰り返し、昼下がり。穏やかな春風に、色とりどりの花が陽の光を透かして揺れる。
「やあ、マスター。またサトを探しているのかい?」
話しかけてきたのは二足歩行の猫、シャロことシャーロックだ。彼はケット・シーという妖精猫なのだ。
ミルクティ色で長毛のもふもふな体に白いシャツとベスト、その上にフロックコート。落ち着いたブラウンのブーツを履き、胸元にはリボンタイ。ときどきはステッキや帽子も身につける、紳士な猫である。
「ええ。シャロ、知ってる?」
「もちろんだとも。彼ならば、この時間は日当たりのいい窓辺で、我が同胞たちとたわむれているだろうね」
「この家で日当たりのいい窓辺ってどこ?」
「案内しよう、レディ。サトは、猫好みの場所をよく知っているようだよ」
シャーロックが歩くと、ブーツがこつこつと音をたてる。紳士の出で立ちだが、大きくてふさふさなしっぽはふぁたりと揺れるので猫らしさが残っていた。
「ほら、あそこさ」
まるっこくもしなやかな猫の手で、シャーロックは窓の一つを指す。耳としっぽと手先は、ミルクティ色の体より濃い茶色をしている。
「では、私は出かけてくるとしよう。茶葉と菓子を切らしてしまっているのでね」
「わかった、いってらっしゃい。人には見られないように気をつけてね」
しっぽでふぁたんと返事をし、シャーロックは近くにあった別の窓から外へ出ていった。着地する頃には、その姿は消えている。妖精ならではの魔法らしい。
この屋敷は洋風で、窓は大きいものが多い。晴れた日中には、猫たちがよく窓辺で丸まる。
柔らかな春の日差しの中、郷が猫じゃらしで二匹の黒猫と遊んでいた。化け猫の子供、萩と牡丹だ。二匹は、ころころ転がるように猫じゃらしの羽根にじゃれつく。まわりの毛糸玉やら猫用のぬいぐるみやらに、他の猫たちも集まっていた。
「あ、未理ちゃんだ。一緒に遊ぶ?」
「え。ああ、うん」
もう一つあった猫じゃらしを手にとると、さっそく雪丸と三毛の化け猫である秋が駆け寄ってきた。
「にゃっ!」
未理の操る猫じゃらしの先へ、秋の猫パンチが炸裂した。狙いすました一発で、猫じゃらしが未理の手から離れる。
「まだまだね、ご主人。猫の妖怪やら妖精やらの扱いはうまくても、猫の遊びにはついてこれないようね」
「なら秋ちゃん、僕はどうかな?」
郷の華麗な猫じゃらしさばきに、秋をはじめとした猫たちが躍動する。パンチがかすりはするものの、郷はうまく受け流して再び猫たちを翻弄した。
「サトさん、うまいね」
「うん。この子たちの遊び相手してるうちに、それなりに。猫ってかわいいよね」
「まあ、ここに本物の猫はいないけどね」
とはいえ、普段の彼らは猫そのものだ。妖怪や妖精であること、術や魔法を使う以外の違いしかない。
「猫は、かわいくてもふもふだから好き」
「サトさんは、猫が好きなの? 飼ったことはある?」
「動物が好きなんだ。けど飼ったことはなかったから、こうして一緒に暮らせてうれしいよ」
未理が彼とこうしてあらためて話をしたのは、これが初めてかもしれない。床に座って膝の上に猫を乗せ、どこかぎこちなく言葉を交わす。
「憑き物筋の家は、多かれ少なかれ呪術に関わってた。サトさんは、迷惑って思わないの」
昔、呪いが信じられていた頃の憑き物筋の家系は、忌み嫌われていた。憑き物たちは、繁栄も没落ももたらす。今となっては残っている憑き物筋の家も、それを知っている人々もほとんどいなくなった。
「迷惑なんて、全然思わないよ。むしろ、未理ちゃんや猫たちには興味が尽きないかな。僕とは違う『普通』を過ごしてきた君たちを、もっと知りたいって思う」
「サトさんって……変な人」
「うん。職業柄、変な人って言われるのは個性的で特徴があるって誉め言葉にとらえてるんだ」
「そういえば、サトさんは仕事何してるの?」
「あれ? 未理ちゃん、知らなかったっけ? じゃあそろそろ仕事の時間だし、僕の仕事部屋においでよ」
郷が仕事部屋へと歩き出すと、萩と牡丹が子供の姿に化けて彼にくっついた。その場にいた他の猫たちも、数匹はわらわらとついていく。
未理は寝室にはよく郷を起こしに入るが、その隣の部屋は初めてだ。書斎ほどではないが本棚があり、書き物机がある。柔らかな絨毯の上には、猫のおもちゃ。
「この雑誌、知ってる?」
「ええ、『月刊もふもふ』ね。たまにうちの広告を載せてもらうときもある」
「そうなんだ。あ、ここに書いてあるのが僕の名前」
「日向 郷……。サトさん、小説家だったんだ」
最近人気上昇中の雑誌『月刊もふもふ』。この雑誌は媒体を問わず、とにかくもふもふをテーマにしたものを扱っている。
特に、日向 サトという作家の作品が人気の理由の一つだともっぱらの噂だ。彼はこの雑誌をきっかけに、新進気鋭の小説家として知られつつあるらしい。
「これでも、最新作が雑誌に掲載されると、ファンレターが届くんだよ。最近出した短編集の売れ行きも悪くないし」
「あー、やけに手紙がよく届くと思った。しかも郷じゃなくてサトってあったのも、読み間違えかと思ってた」
「ペンネーム、読み方変えてるだけだからね。だって『ひゅうが ごう』より『ひなた さと』の方がかわいくない? 作風にも合ってるし」
「私、サトさんの小説読んだことないかも」
「なら、短編集がおすすめ。今のところ、全部の作品が読めるから」
棚から一冊、郷が本を抜き取る。未理にとっては馴染みのない単行本を、両手で受け取った。
厚みのある表紙をめくると、たくさんのタイトルが並んだ目次が現れる。どの話もページ数が少なく、読書に縁のない未理でも読みやすそうだ。
「ねえ、未理ちゃん。猫又に化け猫、ケット・シー。それに猫憑きの未理ちゃんで、うちは猫ばっかりだね」
「サトさんも、猫っぽいよ」
「あはは、じゃあうちは猫屋敷だ。次回作はエッセイもいいかもね。猫屋敷の日常もの」
「普通の人から見たらエッセイじゃないね、それ」
「んー、ならエッセイ風フィクションってことにしておこう」
かたかたと、郷がキーボードを叩く音。時おり、はらりとページをめくる音。窓辺では光が舞い、猫たちはころころじゃれ合う。春の午後は、ゆったりと過ぎていく。