第63話 何もしない
「千里っ!?」
その声は、誰よりもよく知っている女の子のもので、俺は思わずそちらへと視線を向けた。
千里は角材を手に阿久津の傍まで走り寄ると、勢いそのままに叩きつける。
しかし、それは辛くも身を挺して庇った別の男に当たり、阿久津には当たらない。
「暦ぃぃっ!!」
千里は角材を手近な相手に投げつけると、全身を使って阿久津に組み付いた。
「やって!!」
一瞬、彼女の真意が分からず当惑を覚えたのだが、それが自分ごとでもいいから阿久津を殺してくれという意味であることを理解して、俺の体に震えが走った。
「そこじゃ殺れねえっ! 入口に連れてけ、燃やせるっ!!」
俺の代わりに影山が怒鳴りつける。
確かにそれは正しい。
クロスボウで射ぬいて殺そうと思えば20メートル程度まで近づく必要性があるが、矢を届かせるだけならば100メートルでも可能である。
テルミットの撒いてある入り口に居てもらえれば、多少遠かろうが確実に阿久津を殺せるのだ。
「お前はっ!!」
「兄貴っ!! あいつより俺らだっ!!」
クロスボウの練習をしたのはこの中で俺だけだ。
かなりの近距離ならまだしも、ある程度の遠距離になれば俺以外着火することは出来ない。
それは、俺が千里を殺すことを意味している。
いくら憎しみしかないとしても、幼馴染であった千里を、俺が……。
「暦、俺に貸せっ!」
春日が叫ぶ。
春日は俺の事情を聞いて知っている。
母さんが死ぬ原因になった千里とはいえ、俺が殺すなんてとんでもないとか考えていそうだった。
しかし春日の前には何人かの信者が居て、とても俺のところまで来てクロスボウを借りて射ることなど出来るはずがない。
だいたい、先ほどまで棍棒を使って人間を殴り殺していたのだから、狙うなんて繊細な挙動が出来るはずがなかった。
「阿久津さまを守れっ!!」
「やらせるなっ!!」
「坊主っ!!」
様々な声が渦巻いている。
誰が何を叫んでいるのか分からないし、その意味も理解できない。
ただ重要なのは、唯一とも思える逆転のチャンスが巡って来て、俺にだけそのチャンスを掴み取れるという事。
――千里を犠牲にすることが、その条件だが。
千里は俺の母さんを殺した。
正確には、殺される引き金になってしまった。
あいつが自分の悲しみから逃げて解放者たちにそそのかされ、俺たちを襲わせたのだ。
それは絶対に許せないし、これから先も許すつもりはない。
だが、それとこれとは別だ。
俺はもう責めないと千里に言った。
それで終わったはずだ。終わったと思っていた。
でも千里の中では終わってはいなかったのだ。
俺は千里を殺せるだろうか。
俺は千里に対して殺意を持っているのだろうか。
殺したいほど憎いと思っているのだろうか。
答えは――。
俺が迷っている間に、信者たちの手が千里へと伸びる。
千里のことを殴りつけ、阿久津から引きはがそうとするが、千里は歯を食いしばってそれを耐えていた。
それで、俺の腹は決まった。
「くそがぁぁっ!!」
俺の口から無意識に悪態がついて出る。
何故こんな言葉が出たのかは俺自身理解していなかったが、突き動かされるようにクロスボウを手に持ったまま正面へと突進し、春日たちを追い越すと、射線の邪魔になっている信者のひとりを蹴り飛ばす。
それではまだ足りないため、更に一人を射殺した。
しかし、まだ足りない。
人が多すぎる。
多すぎて、千里の決意が塗りつぶされてしまう。
俺の意志はどうでもいい。
千里が後悔の末にそうすると決めたのだ。
だから俺は、それを受け入れる。
「ええい、くそぉっ」
春日とヤクザ二人が雄叫びを上げながら突進し、更に打ち払っていく。
それでもまだ届かない。
俺はクロスボウを再装填し――。
「とっときだ!」
春日がそう吠えると、腰のホルスターから拳銃を抜き放つ。
密輸されたトカレフ拳銃で、装弾数は8発。
チャンバーに入っているのも含まれれば、合計9発が春日の撃てる全て。
虎の子の切り札で、本来はこの場で使う予定ではなかったはずだ。
それでも抜いたということは、今、ここで阿久津を殺す機会を逃せば、更に多くの人が死ぬと判断したからだろう。
そうだ。俺もそう判断したから千里ごと殺すことを選んだのだ。
「死ねやオラァァッ!!」
春日が拳銃を構え、前方に向かって銃を乱射する。
俺の射線上に居た信者たちがバタバタと倒れて行き、人の死骸で阿久津までの道が舗装された。
出来たばかりの道を、俺は走り、走りながら千里を引きはがそうとしている信者の男へ矢を撃ち放つ。
矢は狙い過たず男の首筋を貫通した。
それで全ての戒めから解放された千里は、阿久津の胴体に手を回して力任せに移動を始める。
「やめろぉぉっ!」
阿久津は見苦しく騒ぎ立てるが、彼を助けられる者は誰も居ない。
阿久津自身はガリガリの体躯通り、女の千里にも負けるほどの膂力しか持っておらず、抵抗虚しくずるずると死の入り口へと引きずられて行った。
「誰か、私を助けろっ!!」
その命令を受けた解放者たちが走り寄って来るが、
「私と一緒に燃えろっ! 死ねっ!!」
そう叫ぶ千里の声に足を縫い留められてしまう。
もう千里と阿久津は体育館の入り口付近に達している。
俺がテルミットに着火すれば、2人は火に飲まれて死ぬ。
誰が助けに入ろうと、火柱に呑み込まれてしまえば問答無用で焼け死んでしまう。
「早くしろっ!!」
阿久津がいくら命令しても、誰も阿久津のことを助けようとはしない。
誰も彼もが遠巻きにもがく阿久津とそれを拘束する千里の様子を眺めているだけだった。
もう、障害はない。
俺の体は練習通りスムーズに動き、あっという間に射撃の準備を終えてしまう。
そのまま慣れた動きでクロスボウを構えて狙いをつける。
多少距離があるため、矢が重力に引かれて落ちるのを計算に入れて本体を上向かせた。
あとは引き金を引くだけで阿久津は死ぬ。
もちろん、千里も。
悩んでいる時間は――ない。
俺は迷いなくためらいなく、何百何千と練習してきた通りに、引き金を引いた。
その瞬間、世界から色が消え、全ての動きがスローモーション映像の様にゆっくりとなる。
クロスボウの弦が跳ねて矢を押し出し、射出された矢はグニャグニャと歪み、回転しながら空中を突き進む。
ともすれば掴めるのではないかと思ったが、俺の体は金縛りにあったかのようにまったく動かなかった。
――分かっている。
これらが全て、俺の後悔が見せている幻想なのだと。
本当は俺は……。
「うあああぁぁぁぁぁぁっ!!」
俺が叫ぶのと同時、世界に色と時間が戻って来る。
あれほどゆっくりと動いていた矢は瞬く間にかき消えて……目的の場所へと到達した。
「――――――っ!!」
今俺は、なんと言ったのだろうか。
俺の中で響く声がうるさ過ぎて、何も判断できなかった。
黄色い火柱が吹き上り、千里を、阿久津を包み込む。
2人は悲鳴をあげる事も、もがくこともしなかった。
そんなことをする暇も無く、3000度の溶けたアルミの雨を頭からかぶって即死した。
ジュンッと音を立てて、小さな水蒸気爆発が起きる。
人間二人分の血液が急激に沸騰して蒸発したのだ。
しかし、それでも火勢は収まることなく広がり続けた。
「行くぞ、暦っ」
春日が俺の傍までやって来て腕を引っ張る。
そうだ。
まだ終わっていない。
元凶である山本を捕まえ、警察に通報して彼らを動かすまで終わらないのだ。
悲しんでいる時間などなかった。
俺は暗視ゴーグルを跳ね上げ、腕で一度だけ目元を拭う。
俺が千里に対してしたことは、たったそれだけ。
それだけしかやらなくて、それだけしか出来なかった。
もう、責めないと決めたから……。




