第54話 信頼できる逃走ルート
陽が地平線の彼方に隠れ、窓から覗く空は紫色に染まる。
時間はもう少しで夜。
明かりが無ければ何もできなくなる時間へと移ろうとしていた。
情報を得た以上、もうここに要は無い。
暗くなればさっさと抜け出してしまおうと考えていたのだが――。
ガコンッという機械音が、天井から次々と降って来る。
俺を含め、全ての人が天井を見上げ、そこにあった信じられない光景を目撃してどよめき声をあげた。
「電灯が……!」
「電気が使えるのか……?」
始めは逢魔が時の太陽にも負けるほどの光量だったが、次第にその光を大きくしていき、やがて周囲は電灯の発する真っ白な光に包まれる。
体育館の端から端まで見渡せる上、前方の壁に貼り付けてある校歌の歌詞まで読み取れるほどの明るさだ。
パンデミック前はまったく意識していなかったのだが、文明の持つ力はこれほど偉大だったのかと思わずため息をついてしまうほどの光景だった。
「警察署、市役所、隔離施設に独占されていた電力を使えばこういう事も出来るんだ。いずれは全ての家に電気を送る事も予定されている」
解放者のひとりがそう宣言すれば、周囲からは歓声と共に彼らを称える声が次々にあがる。
復興がこうして目に見える形で行われれば、素直に素晴らしいと歓迎してしまうものなのだろう。
だが、みんなは気付いているのだろうか。
この復興がただの見せかけだという事に。
俺たちがこうして電気を使っている間、隔離施設で苦しい思いをしている人たちが居るはずだ。
フェーズ3に進み、呼吸が出来なくなって人工心肺装置に繋がれていた人など全員死んでしまっているだろう。
この光はそんな風に、多数の犠牲者の上に成り立っているのだ。
「消灯は九時だ。それまではある程度の自由を認める」
今まで意識していなかったのだが、歌詞とは反対側の壁にはめ込まれた時計は動いていたらしく、現在の短針は7を指している。
電灯が消えるまでまだ二時間程度の時間があった。
自由と言われて気が緩んだのか、会話の声が一段大きくなる。
だが――。
「静かにしろっ。まだ話は終わってねえぞ!」
解放者の叱責が飛び、体育館の中は瞬く間に静まり返った。
「……喧嘩や暴力は厳禁。消灯したらその場で眠ってもらう。とりあえず今日のところは毛布はないが、いずれ用意する。それから……」
解放者の目がすっと細くなり、それまでとは違う気配を纏う。
その目に、俺は見覚えがあった。
「逃げたら、教育を受けてもらう。もっとも、逃げるってことは俺たちの敵になるってことだけどなぁ」
俺たちを弄び、殺そうとした時に見せた目とまったく同じ。
自分たちが絶対的上位存在で、どんなことをしようとも正しく、正統性は揺らがない。
相手は従うのが当然で、逆らえば死あるのみ。
そんな、狂った思考に支配された者の目だった。
「それじゃあ質問はあるか?」
誰も彼もが脅されたばかりなので滅多なことは言えないとばかりに様子を窺っている。
そんな中、俺は勢いよく立ち上がって右手を上げた。
「はい、しゅみませんっ!」
神経が張り詰めている中だというのに、いきなり言葉を噛む奴が現れたものだから、周囲は一気に爆笑の渦に包まれる。
解放者の男もブーっと音を出して吹き出していた。
顔から火が出そうなくらい恥ずかしかったが、それでも右腕を上げ続け、咳ばらいを何度もしてみせる。
きっと傍からは、俺が緊張からこうなってしまった滑稽な奴だと見えるだろうが、真実はそうではない。
わざと噛むこと。
その後に執拗に咳ばらいをしてみせ、手を上げ続けること。
それがこの中に居る春日組の仲間へ、脱出することを知らせる合図なのだ。
さらにこの時右手を上げれば情報を得たことを意味し、左手を上げれば情報を得ていないがヤバいので離脱するという意味である。
他にもいくつか決めていたが、今回はこの合図を使ったというだけだ。
「すみません、トイレは何時行ってもいいのでしょうか?」
「好きに行け。漏らされても困る」
先ほどのドジですっかり気が緩んでしまったのか、解放者は手を振りながら俺を適当にあしらうと、仲間たちと連れ立って体育館の外へ出て行ってしまった。
それを契機に、再び体育館の中には喧騒が戻って来る。
誰もかれもが仲良さそうに談笑やちょっとしたお遊びに興じ始めていた。
「お前、とんでもないタイミングでドジ踏んだなぁ」
俺が何気なく見張りに残った解放者の様子を窺っていると、急に背中をどやされてしまう。
振り向けばそこにはゴーグルとハンカチで防備を固めた人が2人立っていた。
彼らの内のひとりが俺の耳元に口を寄せて「早いな」と囁く。
予想通り、2人は春日組の仲間だった。
「ええ、まあ」
そのまま3人でどうとも取れる会話をしながら他の人たちから距離を空ける。
他人から会話を聞かれないと判断すると同時に、俺は本題を切り出した。
「今すぐ逃げましょう」
「今!? 奴らが逃げるなと言ったばかりだぞ」
「暗くなってからの方がいいんじゃないか?」
確かに俺も先ほどは同じことを考えていた。
しかし、それは解放者たちもそう考えているに違いない。
「連中が出て行ったのって、多分食事しに行ったんですよ。なら、体育館を見張っている絶対数が少ない。それになにより明かりがあるから逃げにくいと思っている心理的な盲点を突けます」
実際、見張りの周りにはたくさんの人だかりが出来ていて、体育館の中に居る全員に注意を払っている様には見えない。
せいぜい四方にある入り口を確認している程度だろう。
今なら警備は穴だらけなのだ。
「分かった、行こう」
2人の決断は早かった。
「こっちです」
いくつか想定していたルートの内、一番安全だと思われるものを選択して歩き始める。
自然な感じで、逃げるなんておくびにも出さない。
時折手団扇で自らを扇いで暑さから逃げるふりをしつつ、舞台へと上がり、そのまま舞台袖へと移動する。
「気付かれていませんか?」
念のために後ろを振り向いて確認してみたが、誰も追いかけてきてはいなかった。
「見られてはいるかもしれないが、意識はされていないな」
俺たち以外にも舞台にあがっている奴は居るため問題はないだろう。
そのまま俺たちは舞台袖に設置された階段を上がり、体育館の壁にしつらえられたキャットウォークへと足を踏み入れ、人に見られない内にカーテンの陰へと身を隠す。
マジか……、なんて呟きが聞こえて来るが、ヤクザなのだから二階から飛び降りるくらいのことは出来てもらわないと困る。
やはりこの方法で何度も逃走を成功させている俺としては、これが一番成功率が高いと確信しているのだ。
音に注意しながら窓を開け、すっかり暗くなった外に首を突き出して辺りを確認する。
予想通り、周囲に人影は見えず、体育館から漏れる明かりで雑草だらけの校庭が見えるだけだった。
手入れの一切されていない元校庭とも言うべき草原に身を隠せば、この闇の中で見つけることなど不可能だろう。
「逃げますよ」
宣言通り、俺はなんの躊躇もなく窓を跨ぎ越えて暗闇の中へと飛び降りる。
もはや慣れ切った衝撃が足裏に伝わり、俺の体は体育館の外にあった。
次の人のために素早くその場所を離れて短く口笛を吹く。
一拍置いて一人が、同じ様に場所を空けて口笛で合図を送ると更にもう一人が飛び降りて来る。
2人とも渋い顔をしているのだが、足をくじいてしまったなんてことは無さそうだったので、3人でそのまま逃げだしたのだった。




