第53話 千里の後悔
長時間にわたる講演――解放者たち風に言えば啓蒙活動だが――が終わり、これで解放されると思いきやそんな事は当然ない。
彼らはそれまで公演を行っていた舞台の上に台と寸胴鍋を置き、深皿になにかスープ状の物を注いで食事の準備を始めたのだ。
一人当たりに畳一枚分の面積を与えたのは、即ちそこで寝起きさせるためでもあるのだろう。
そうやって集団生活を行わさせることで洗脳を深め、ゆくゆくは使い捨ての兵隊にでも仕立て上げるつもりではないだろうか。
「今日はタマゴ入りだ。隔離施設の奴らが独占してやがったのを奪って来たぞ! 俺たちはこういった物を平等に分ける。決して独占したりはしない!!」
舞台で男が叫ぶと、それを称賛する怒号がいくつも上がる。
確かに、鶏卵なんてなかなか食べられない代物で、今や高級食材に片足を突っ込んでいる代物だ。
しかし、これは決して隔離施設で働く医療従事者たちが独占しているわけではない。
高タンパク質でありながら、脂質やビタミンなどの体に必要な栄養素をふんだんに含んでいる為、患者側に供給されるのだ。
医療従事者側は、大して味気の無い野菜を始めとした、栄養価だけに観点を置いた不味い粗食しか食べていない。
平等という観点からみるならば、医療従事者こそないがしろにされているのだ。
もっとも、今ここでそれを叫んだところで誰も信じてはくれないだろうし、俺の身も危ない。
叫び出したい衝動をぐっと堪えて飲み込んだ。
「そっちの端から順番に並べっ。受け取ったら所定の場所に戻って食ってよしっ」
政府からの配給よりもいい食事がもらえるとあって、一気に人々の顔が緩み、笑顔がこぼれだす。
もはや解放者たちに対して警戒感を抱いている者はごくわずかに見えた。
体育館の中には緩い空気が流れ始め、食事を受け取るために並んだり、雑談を始めたりと多少自由な時間を過ごし始める。
先ほどまで共に政府を責め、大声でシュプレヒコールを叫んだ仲だ。
人と人の間に存在した心の垣根もだいぶ取り払われてしまったことだろう。
「次、お前たちの番だ」
解放者のひとりがそう声をかけて来る。
食事を貰う為に列へと並べ、と言いたいのだろうが、俺はここで食事をする気はさらさらなかった。
こんな大勢がマスクもハンカチも無しに叫びまくり、空気を汚染してしまった場所で食事をするなど、どうぞ感染させてくださいと言っているようなものだ。
風邪くらいなら問題ないのだが、もしルインウィルスの保菌者がひとりでも紛れ込んでいたら、俺たち全員死んだも同然なのである。
ここは感染の連鎖を引き起こす集団となっている可能性が非常に高かった。
とはいえ、感染した人間がすぐに新たに他人を感染させるようになるまで数日の猶予がある。
気を付けていれば、まだ感染しないはずだ。
そのために口元のハンカチは、目が細かく厚手の物を着けて来たのだから。
「すみません、トイレ行きたいんですけどいいですか?」
体育館の右側、中心辺りに備え付けられたトイレを指さしてそう尋ねる。
トイレの前には既に列が出来ており、相当な時間待つことが予想された。
「配給の方が先だ」
「いや、すみません、漏れそうなんです」
ちょっとだけ内股になっていかにもな雰囲気を醸し出してみせる。
「食事なしになっても文句言うなよ」
「あざっす」
喜び勇んで列に並ぶふりをしようとして――。
「待て」
思わず心臓が口から飛び出そうになるほど驚いてしまう。
なにか正体がバレるようなことをしたかと自問自答をしながら振り向いた。
「なんでしょう」
「お前、それ外せ」
そう言った男が、自らの目と口元を突っついた。
「見てみろ、ほとんど誰もそんなもの着けてないだろう」
講演が始まる前は誰もがゴーグルとハンカチを装着していたが、今は男の言う通り、ほとんどの人がそれらを外してしまっていた。
周りの人との距離が縮んだせいで、ここは安全だと勘違いしてしまったのだろう。
「あー……なんかこれ、着けるのが当たり前になっちゃってて気づかなかったんですよ」
そう言ってゴーグルに手をかけて、一瞬考えた風を装ってから手を下ろす。
「いざ外すとなると恥ずかしいですね。もうこれが俺の顔になっちゃってる感じなんで。すみません、もう少し着けてていいですか?」
「……勝手にしろ。次の奴ら、並べっ」
今度こそ視線から逃れられた俺は、人ごみに紛れる様にして目的の場所へと歩いて行った。
そしてそのまましゃがむと彼女の耳元に口を近づけて、
「大声を出すな、変な反応もするなよ」
そう囁いた。
俺の声だけで誰が自分の背後に居るのか気付いたのだろう。
千里はびくりと背筋を震わせ、再びごめんなさいと呟き始める。
「そういう反応をすると、俺の正体がバレて俺は殺されるかもしれないんだ。それがお前の望んでることか? いいから黙れよ」
俺が殺されるという言葉に反応して千里は口を閉ざす。
やはりあのごめんなさいは、母さんに対するもので間違いなかった。
「…………」
何を今さら、とはらわたが煮えくり返るほどの怒りを感じる。
本当だったら母さんが殺されてしまう原因を作ったこの女を思い切り殴りつけてやりたいくらいだったが、そんな事をしてもなにも意味はない。
俺がしたいことは泣き言をいうのではなく、父さんを殺させないことなのだから。
そのためには、千里を利用しなければならないのだ。
「千里、お前が知ってる奴らの情報を教えろ」
「そ、そんなの私知らな……」
「お前は母さんに続いて父さんも俺から奪うつもりかよ。なんでもいいんだよ。命令系統だとか、武器はどこにしまっているとか、幹部はどの部屋に居るとか」
「あ、え、えっと……命令は、けっこう細かく上から降りて来てて、男が力仕事で、女が手先を使う仕事が多いと思う。武器とか作らされてて……」
昔の千里からは想像できないほどおどおどとした態度で情報を吐き出していく。
「幹部が五人、居るとか聞いた事がある。でもほとんど学校の外に出てるとか……。あ、あと総統って言われる人が一番偉い……らしいんだけど、私は会ったこと、ないよ」
いくつかは有益な情報で、その二倍は要らない情報があったのだが、俺はそれら全てを根気よく聞き続けたのだった。
持ちうる全ての情報を話し終えたのか、千里は完全に沈黙する。
これでもう千里には何の用事もない。
このまま別れも告げずに立ち上がって離れて行けばそれで終わり。
罵倒する必要はないし、ましてや優しい言葉をかける必要などもっとない。
けれど、俺は見てしまったのだ。
千里の顔に、殴られたような痕があるのを。
恐らく今のように後悔し、懺悔したことが解放者たちの怒りに触れたのだろう。
なんせ母さんは憎むべき上級国民で、悪の権化のような存在だ。
奴らにとってはそうでなければならない。
絶対に、優しいただの女性であってはいけないのだ。
だから千里の謝罪は連中にとっては到底受け入れられない行為なのだ。
「母さんの最期は、どうだった?」
本当は知りたくも無いことなのに、気付いたら俺の口からそんな質問が飛び出していた。
「……お、おばさんは……説得、しようとしてて……でも、だめで」
思い出したら涙が込み上げてきたのだろう。
千里は何度もしゃくりあげる。
「お腹を、刺されたんだけど、私の……私を、見て……ごめんねって」
母さんらしいと、思わずそう思ってしまった。
母さんは死ぬ瞬間までも千里のことを気遣ったのだろう。
本当に、俺の自慢の母さんだ。
「気付いてあげられなくて、ごめんねって。それで、私……私……」
千里は信じちゃいけない人を信じてしまい、信じなきゃいけない人を信じなかった。
それによって起こったことは、最終的に全て千里自身の罪として返って来てしまった。
たったそれだけ。
今更それを気づいたのだ。
遅すぎた。
あまりにも遅すぎた。
「俺はお前を許せない」
千里が俺と話しながら泣いているのを、近くに座る女性が不審そうな眼差しで眺めて来る。
俺の事を覚えられてもまずいだろう。
そろそろ引き際だった。
「……ごめんなさい」
「でも、母さんがお前を許してるなら俺の出る幕じゃない。だから俺はお前をこれ以上責めない」
責めないだけ。
これから先、まともに話をするつもりも、関わり合いになるつもりもない。
未来永劫、罪を背負って生きていけ。
「ごめんな――」
「謝る必要は無いよ。口では何とでも言えるからな。上辺には何の意味もないんだ」
それだけ言い残し、俺はその場を離れたのだった。




