第44話 死を受け入れるためにするべきこと
彼女は五時間以上もの長い間外に出ていた。
それは本当に、ただ闇市に行ったり情報を収集したり罠を見に行っただけに使ったかもしれない。
しかし、五時間もあれば、この部屋から俺たちの家まで行って帰ってきてもお釣りが出るくらいなのだ。
自転車でも使えば更に短縮できるだろう。
「桐谷。正直に教えてくれないか」
本当は確信があったわけではない。
カマをかけてみただけだったのだが、桐谷の表情を見れば俺の予想が当たっていたことが察せられる
しかも彼女がその事を黙っていたこと、そして今の引きつり様からして、結果が芳しくないことも予想がついた。
「頼む」
ちゃぶ台の中心に立てられたロウソクの炎がゆらゆらと揺れ、桐谷の影も同じ様に揺れる。
それはまるで、桐谷の動揺した心を映し出しているようにも見えた。
「わ、私は――」
「お兄ちゃんっ! いいよ、そんなことっ!!」
桐谷の声を遮って、史が涙混じりの声を上げる。
今まで俺も史も、意図的に母さんを話題に出すことを避けて来た。
それはきっと、心のどこかで母さんが生きているかもしれないなんて気持ちを持っていたからに違いない。
でもそれじゃダメなんだ。
俺たちは母さんがどうなったかをきちんと受け入れなきゃいけない。
嘘をついて誤魔化し続けていたら、前に進む事だってままならなくなってしまうかもしれないのだ。
「……史」
俺は少しだけ体をずらして史に体を寄せ、彼女の肩に手を置いた。
「今、知っておくべきなんだ」
「なんでぇっ! 嫌だもんっ!!」
「史っ!」
「聞きたくないっ!!」
史は、駄々っ子がするようにイヤイヤと首を激しく振る。
両手を使って自らの耳を塞ぎ、必死になって自分の殻に閉じこもろうとした。
「頼む、聞いてくれっ」
俺はそんな史の両手を掴み、力任せに引きはがして懇願する。
母さんが死んだという絶望的な情報を知りたくないのは俺も一緒だ。
でも史の反応を見て、今知っておかなければならないと改めて確信する。
「ここは安全だ。多少騒いでも、誰かが怒鳴り込んで来たり、襲い掛かってくるようなことはない」
「それとなんの関係があるのぉ?」
史の瞳からは涙が泉の様にあふれ出し、頬を伝い落ちる。
なんでそんな酷いことを言うの、と史の表情が叫ぶ。
「ここでならいくら泣いてもいいんだ」
奴らは俺たちに害意を抱いている。
殺意と言ってしまってもいいかもしれない。
恐らく俺たちが逃げおおせたことは奴ら全員に広まっているだろう。
奴らがただのチンピラ集団ならばそこまで気にする必要はない。
しかし奴らの数は多く、武装した警官や自衛官が在中している派出所を制圧してのけるほどの力を持っていた。
もし俺たちがそんな奴らに見つかってしまったら。
その時奴らが母さんを殺したことをバラしてきたら。
果たして史は心を保てるだろうか。
間違いなく今の様なパニック状態に陥って逃げることが出来なくなり、最悪な結果をむかえてしまうことは想像に難くない。
俺は史を失ってしまうことになんて耐えられないから、ほんのわずかでもその可能性を潰したかった。
例え『もしも』なんていうあやふやなものであっても。
「いやぁ、いやなのぉ!」
「史っ」
俺は感情のままに史を掻き抱く。
胸に火の塊が押し付けられてしまったかのような錯覚が生まれる。
それはきっと、俺が史に酷いことをしているという自覚があるからこそ生まれた幻痛だろう。
「俺は、お前を失いたくないんだよ」
史の両腕が俺の背中に回されて、力の限りぎゅっとしがみついてくる。
痛みすら生まれるほどの抱擁は、私も、という史の心を伝えてくれた。
「だから今泣いて、明日からはもう泣かないようにしよう。このパンデミックが終わるまで」
泣かないように、なんて言っている俺も泣いてしまっているけれど、今だけはいいんだと自分に言い聞かせる。
「できるか?」
胸元にある史の頭が左右に揺れる。
長年史と兄妹をやっていた俺だからこそ、それが本気の無理だという事が分かった。
でも、史も本心では既に分かっているはずだ。
桐谷が決して俺の言葉を否定しないのだから。
「史が泣き終わるまでずっとこうしているから……」
今はまだ無理だと、史は頭を振る。
俺はそんな史の背中を軽く叩き、慰め続けた。
「あま……妹さん。私はね、お父さんもお母さんも死んでしまったの」
それから桐谷はとつとつと語り始めた。
両親と共に隔離施設に入ったこと。
外の状況など知らされずにずっと軟禁状態にあったこと。
母親は苦しみぬいた末、人工呼吸器が足りずにまともな処置すらされずに死んでしまったこと。
父親の死には立ち会えず、どうやって死んだのかすらも知らないこと。
そうやって周りのみんながバタバタと死んでいくのに自分だけは発症しなかったこと。
そして、発症しなかったがゆえに襲われそうになったことまでも、包み隠さず全て史に話して聞かせた。
「私がこうだから不幸だって言いたいわけじゃないの。私が言いたいのは……」
すぅっと、桐谷は大きく息を吸い込んで――。
「あなたは生きてるんでしょう」
怒鳴りつける。
「あなたのお母さんはあなたに生きて欲しいの。俯いて泣き続けて欲しいわけじゃないの。ふさぎ込んで、目をつぶって、耳を閉じて幻の中に閉じこもってほしいわけじゃないの。笑って欲しい、強く生きて欲しい。幸せになって欲しい。そんな風に想われているの」
それは、桐谷自身に向けても言っているのではないだろうか。
桐谷と二回目に出会った時、桐谷は死にかけていた。
単純に食べ物が無かったからだと思っていたが、生きる意志が欠けていたことが原因だったのかもしれない。
彼女はきっと悩んだだろう。
両親の後を追う事も考えただろう。
でも、桐谷はまだ生きている。
これからも生き続けるだろう。
それが彼女の義務だから。
両親から命を貰い、受け継いだ者の運命だから。
「あなたはお母さんの全てを受け止める必要があるの。楽しかった思い出で笑う為に、死すらもきちんと受け止める義務があるの」
死んでいるかもしれない、なんてもやもやとしたものを抱えながら、母さんとの思い出を心の底から楽しむことなど出来はしない。
怒られたなぁなんて思い出しながら身を正すことも出来ない。
母さんの事を思い出すたび罪悪感に縛られ、後ろめたさを抱いてしまっては、それこそ母さんを穢してしまうことになる。
俺の伝えたかったこと、いや、それ以上の事を桐谷は伝えてくれていた。
「史。聞けるか?」
口早にまくし立て、息を切らせている桐谷に代わって俺が史に尋ねる。
それに対する反応は、何もない。
否定も肯定も無かった。
……嫌だけど我慢する。
そんな想いを感じ取った俺は、桐谷に視線を向け、小さく頷いた。
「……私が行った時、あの区域の家は全て燃えつきてた」
「千里の家も燃えたのか……」
「ええ」
あいつのせいで母さんが死んだ。
憎らしいし恨みにも思う。
もう他人だと心に決めたのだが、それでも気にしてしまうのは未練だろうか。
「それで?」
気づかうような桐谷の視線に、大丈夫だと頷きを返す。
史だって俺の腕の中で震えてこそいるものの、覚悟は出来ていた。
「……燃え尽きた家の前の路上に、あなた達のお母さまの頭が置かれていた」
かぁっと頭に血がのぼっていき、俺の手が、全身が、怒りで震え出す。
絶対に許せなかった。
今すぐにでもこの部屋を飛び出して、それをした連中を同じ目にしてやりたい。
しかし、今の俺には守るべきものがある。
史を守ることが母さんの望みなのだと、俺は俺自身を戒めた。
「そ……れで?」
ガタガタと震え、嗚咽を漏らし始めた史の頭を撫で、背中をさする。
腕の中に居る史だけが、今の俺をなんとか繋ぎとめてくれていた。
「ごめんなさい、胴体は見つからなかったから、頭だけを近くの空き地に埋めて弔っておいた」
「あ…………」
礼を言おうとした瞬間、どっと何かがあふれ出しそうになってしまい、慌てて唇を引きしばる。
これ以上一言でも話したら、無様に泣き叫んでしまうかもしれなかった。
「お兄ちゃんっ、お兄ちゃんっ! お母さんがっ! お母さんがぁ~~っ!!」
史はもう限界を超え、泣きわめきながら俺に抱き着いてくる。
俺はそんな史を世界全てから守るかのように固く両腕で包み込む。
2人ぼっちの兄妹。
それでも2人居るのだ。
今は会えないけれど、隔離施設に父さんも居る。
きっとこの世界からみたら、俺たちは満たされているほどだけど、母さんが死んだというだけで世界そのものが壊れてしまったと思うほど悲しい。
辛くて、痛い。
俺と史は、そのまま固く互いを抱きしめ合い、ずっと二人でむせび泣いたのだった。




