第42話 お兄ちゃんだろ
掃除を終えた俺は、狭いキッチンの床に座ってバスルームのドアに背中を預け、桐谷から貰ったお白湯で喉を潤しながら事の顛末を語って聞かせた。
「そう、そんな事があったんだ……」
「ああ……」
桐谷に話し終えたことで、ようやく史以外の全てを失ったことの自覚が俺の中に生まれてくる。
それはどうしても一人で抱えるには大きすぎる感情で、堪えきれなかった想いが両目から溢れ出してしまう。
俺は奥歯を強く噛み締め、両手で顔面を強く圧迫したのだが、それでも堪えきれなかった嗚咽が歯と歯の隙間からこぼれ落ちた。
「…………」
桐谷はなにも言わない。
酷いとも、可哀そうにとも。
彼女は既に大切な人を亡くす痛みを知っているから、そんな言葉がなんの意味も持たないことを知っているのだろう。
「……ごめん」
「なにが?」
ほんのひとこと謝罪の言葉を口にしただけで、感情が爆発しそうになってしまい、俺は必至に自分の心を抑えつける。
「俺には、史も、父さんも居るのに」
ああ、と桐谷が声を洩らす。
桐谷には帰る場所がないからこの場所を拠点にしているのだ。
それは彼女の家族は誰一人として生きてはいないことを意味している。
彼女に比べれば、まだ俺は恵まれていた。
「……私もお父さんとお母さんが死んだ時は泣いたから、いいんじゃないかな」
それだけじゃない。
今この場所でこうしていて、気付いたことがあるのだ。
恐らく殺されてしまった母さんは、俺のせいでそんな目にあってしまったんじゃないかって。
だったらこれは自業自得だから、俺だけは甘んじてこの罰を受け入れなければならないんじゃないかって、そう思ったのだ。
「それだけじゃ、なくて……俺は……」
俺は上級国民などではないが、他の人を出し抜き、他の人が生き延びられる可能性を奪って生活していたことは事実だ。
もし俺が食料を奪ったことで、あの男たちの大切な人が死んだのなら……母さんが殺された原因は俺にもある。
そういう意味で、奪われたと憤る連中が俺に復讐しようとするのは正しいわけだ。
それに桐谷にこの場所を与えたのも、俺の業を他人に押し付けようという汚い感情が理由かもしれなかった。
「俺に、天罰が下ったんじゃないかって……」
家が焼かれてしまったのも、千里が離れて行ったのも、母さんが死んだのも、俺のせい。
考えれば考えるほどそれが正しい気がしてならなかった。
「ねえ」
罪悪感で押しつぶされそうになっていた俺の肩に、そっと手が添えられる。
「お風呂、入ってきたら?」
「……こんな時に?」
「こんな時だから。私はそれで落ち着けたから」
千里の家で再会した桐谷は、飢えと絶望から衰弱しきっていた。
そんな時に俺は、臭いなどとずいぶんと酷いことを言って彼女を風呂に叩き込んだ記憶がある。
あれは単に衛生的な観点から風呂に入ってもらっただけで、精神的な理由からではなかった。
「温まると、気分が楽になるよ」
「……ありがとう」
俺は礼を言うと、桐谷に顔を見られない様に注意しながら立ち上がり、バスルームへと逃げ込んだ。
バスルームは小さなバスタブと洗面台にトイレが併設されたユニットバスで、一人立っているだけで狭苦しい造りになっている。
明り取りのために最低限ドアを開けてから小さな部屋の中央に立つと、洗面台に取り付けられた鏡に俺の顔が映っているのが目に入る。
目は充血し、頬には擦り傷があり、唇は血の気が無くなって真っ青。
こんな状態でお化け屋敷にでも立っていれば、間違いなく幽霊に勘違いされてしまうだろう。
俺はこんな顔で史に大丈夫だと言っていたのかとため息をつきたくなってしまった。
「……しっかり、しなきゃな」
俺にはまだ史が残っている。
母さんは俺が絶対に史を守り抜くと信じたから託してくれたのだ。
その信頼には応えなければならない。
落ち込んで自虐的になっている暇などあるはずがなかった。
「お兄ちゃんらしくしろよ。じゃないと母さんに怒られるぞ」
鏡の中の自分にそう告げてから、俺は風呂の蛇口をひねった。
「ありがとう、桐谷。本当に少し落ち着いたよ」
礼を言いながらバスルームのドアを開く。
俺が落ち着けたのは風呂で温まったのもあるが、シャワーを浴びながら泣けたこともあるだろう。
いずれにせよ、風呂を勧めてくれた桐谷には感謝しかなかった。
「……桐谷?」
首を伸ばしてキッチンから部屋の中を覗き込んでも桐谷の姿は見えない。
一瞬、嫌な考えが頭をよぎったのだが、冷蔵庫のドアに貼られたメモ用紙を見つけて疑念が一気に氷解する。
桐谷はどうやら隔離施設の様子を見に行くついでに俺と史用のゴーグルやバンダナを手に入れてくれるつもりらしかった。
確かに外に出るのならばその二つは必須と言っていい。
ついでに顔を隠せるため、俺たちを襲って来た連中に気づかれないようにする目的としても役立つだろう。
これだけのことをしてくれているのにも関わらず、一瞬とはいえ疑ってしまったことを心の中で謝罪しつつ、俺はキッチンを通って生活用の部屋へと移動した。
「史は……大丈夫だな」
布団で眠る史は、涙の乾いた跡こそあるものの、すやすやと規則的な寝息を立てている。
俺はそんな史の頭を、起こさない様静かに撫で、せめて眠っている今だけは、どうか心穏やかにいい夢を見ていて欲しいと願った。
「さて、これからどうするか……」
少し落ち着きを取り戻した頭で現在の状況を整理する。
俺たちはなにも持っていない。
正確を喫するならば、史の薬を持ってはいるが、そんなものだけ持っていたところで状況は改善しないため、なにも無いに等しい。
「食料は……ダメだろうな」
この部屋に運び込んだ物資の内、普段食べられる様な物は地獄の二カ月の間に食べきってしまっている。
俺が残していたのはお酒や多少の生活必需品くらいのもので、この部屋で三人もの人間が暮らしていくのは不可能だ。
となれば早めに出て行く以外に選択肢はない。
行先は警察署や隔離施設などの政府の力が及ぶ場所に逃げ込むのがいいだろう。
俺と史は一方的な被害者であり、全く非は存在しない。
間違いなく保護してもらえるはずだった。
「となれば明日の朝早くに出発する……か」
この近くにそういった建物があるかどうか知らないのだが、帰って来た桐谷に訊ねれば問題はない。
ある程度の方向性が固まれば、急に疲労感が襲い掛かって来る。
思い返してみれば、10キロ近い道のりを、史を背負って踏破したのだから疲れ切っていて当たり前だ。
今までは緊張のせいで自覚していなかっただけ。
「あれ……」
急に視界が歪み、ふらふらと揺れ始める。
意識を保とうと努力しても、抗いがたい睡魔が俺のまぶたを重くする。
限界、だった。
「ふ……み、ごめ……」
史が眠る布団の上に体を横たえ、俺の意識は闇へと沈んで行った。
「……いちゃんっ。お…………んっ」
まどろみの中、声が聞こえる。
必死に、懸命に、誰かの事を案じているような、聞いているだけで胸が張り裂けてしまいそうなほど悲痛な叫びが。
「お兄ちゃんっ! 目を、覚ましてよぉ……!」
少しずつ俺の意識が現へと浮かび上がり、その声の主が誰なのかも、誰に向けて言っているのかも、何故悲しそうに訴えかけてくるのかも思い出す。
俺は、何を置いてでもこの声の持ち主を、史を守ると誓ったのだ。
「……史。どう……した?」
俺はうっすらと目を開ける。
まず俺の視界に飛び込んできたのは、夕焼けに照らされ茜色に染まった史の泣き顔だった。
史は上半身だけを起こし、寝ている俺に覆いかぶさるようにして、俺の体を揺さぶっていた。
「よかった……よかったよぅ……」
俺が返事をした事がよほど嬉しかったのだろう。
史は張りつめていた泣き顔をふにゃっと崩し、心底安堵したという様に大きなため息をつく。
「お兄ちゃんがもう起きないかと思ったの。だから……だから……」
俺の死を強く意識してしまったのは、母さんがあの場に残り……確認こそしていないものの、最悪の結末を迎えたと考えているからだろう。
ひとりは辛い。
ひとりは寂しい。
孤独は死に至る病なのだと世界がこうなる前から言われているのだ。
こんな世界にただひとり取り残されてしまったら、どんな人でも死んだ方がマシだと思うに違いない。
「大丈夫だって」
俺はうっすらと微笑みを浮かべながら手を伸ばして史の頭を撫でる。
「史が俺をひとりにしないでいてくれたんだから、俺も史をひとりにはしないよ。絶対に」
「…………うん」
「なんだったら約束だ」
そう言って俺は小指を立てて史の前に突き出す。
約束するだけでそれが実現できるのなら誰も苦労はしない。
それでも今だけは、薄氷の様に壊れやすい願望に縋るしかなかった。
「約束、守ってくれるの?」
「ああ」
史は俺が頷くや否や、すぐさま小指を絡めて来る。
「絶対、約束破らないでね」
「もちろん」
「破ったら私は針千本飲ませに行くよ。危険なところに私行っちゃうからねっ」
それは史なりの脅しなのだろう。
俺がもし死んでしまったら、その後を追う。
だから死なないでくれ、と。
「分かった」
史の決意を嫌というほど心に刻み込み、俺は頷いたのだった。




