第41話 死ななきゃ安い
既に足の裏は皮がズル剥けになって出血しており、一歩進むだけで激しい痛みを訴えて来る。
しかしそんな事はおくびにも出さない。
史がずっと背負われていることを気にするに決まっているからだ。
そうやって俺はやせ我慢を続け――ようやく目的地へとたどり着いたのだった。
「史、着いたぞ」
「ありがとう……」
俺の目の前には長方形のコンテナを横に四つ、縦に二つ積み重ねたような造りの安アパートが建っている。
そのアパートには人が住んでいないのか、生き物の気配などまったくしなかった。
「おろして、お兄ちゃん」
「部屋に着いたらな」
何度目かのお願いを軽く流しつつ、一階部分のいちばん右端の部屋へと向かう。
史にドアノブを掴んで引っ張ってもらうと、カギがかかっているのか俺たちの入室を拒んだ。
「あー……ってことは……」
俺の記憶が正しければ、この部屋には泥棒避けが仕掛けてあるためカギなど掛けていなかった。
となれば、中に潜んで居る誰かがカギをかけたのだろう。
「史、ドアノックして」
史を背負っている俺は両手が使えないため、再び史には俺の手になってもらった。
細く、真っ白な手が伸びてドアを二回、コンコンとノックする。
魚眼レンズから俺の顔が見えるであろう位置まで後退してじっと待つ。
俺の予想が正しければ、中の住人は開けてくれるだろう。
何度かノックをしつつその場で秒針が三周する程度の時間を待っていると、ようやく部屋の中からガチャガチャとチェーンを外していると思しき物音が聞こえて来る。
その人物があった事を想えば当然なのだが、よほど用心深く様子を探っていた様だった。
全てのカギが外れると同時に、勢いよくドアが開くと――。
「天津くんっ!?」
中から顔を出したのは、長い髪の毛を頭の横で一つに束ねて流し、長いまつ毛のぱっちりとした瞳をまんまるに広げている少女、桐谷桃花だった。
いささかおばさん臭い派手なワンピースを着ているのは、この部屋の本来の持ち主の物を拝借しているのだろう。
「久しぶり、桐谷」
手を上げる代わりに軽く会釈をする。
背中でもぞもぞと史が動く気配がしたので恐らく史も頭を下げたのだろう。
「……それで悪いんだけどさ、少し匿ってほしいんだ。いいかな?」
もし断られてしまえば、次の場所まで行く体力はない。
俺は構わないからせめて史だけでも置いてもらえるよう頼み込む腹づもりであった。
「私が断るはずないでしょ。第一ここ、あなたの場所でしょ」
「……もうバレてるんだ」
桐谷の言葉通り、この部屋はバイヤーの倉庫などではない。
彼女にした説明は、俺が盗んだなどと言いにくかったためについた嘘だ。
この部屋は、俺が盗んだ食料や生活必需品などを詰め込んでおいた、俺の倉庫だった。
「品物リストがあなたの筆跡だった」
本を読んで居そうという初対面時の印象は間違っていなかったかもしれない。
「そうか、そんなことで……それじゃ、お邪魔します」
断りを入れて1Kの部屋に入ると、キッチン前に寝かせておいた泥棒避けは影も形も無くなっていた。
あまりにも悪趣味かつ罰当たりなアレは、もう何処かに移動させてしまったのだろう。
いずれきちんと弔ってあげるつもりだったため、どこに移動させたのかをコッソリ聞こうと胸に留めておく。
「史から先にあがって」
「……うん」
玄関先で体を180度回転させ、ほとんど段差のない上がり框に史を下ろす。
口数がほとんど無くなっていたことから予想はしていたが、疲労と精神的なショックから、史はかなり憔悴しきっていた。
俺はその場にしゃがみ込むと、史の靴ひもを解き始める。
「私が、できるよ」
「いいから」
俺の手を払おうとしてくる史の手を抑えて靴を脱がさせた。
「ごめん、桐谷。使って悪いんだけど史の分の布団敷いてもらえないかな」
この場所は俺が倉庫として使っていたのだが、食料を分けたり共に調達をしていた俊彦おじさんも使っていた。
そのため、布団も二組用意してある。
片方は桐谷が使っているだろうから、もうひとつは余っているだろうと判断してのことだ。
その予想は当たっていたようで、桐谷は急いで部屋の奥へと消えていった。
「史、もうすぐだからな」
俺は史を励ましつつ自分の靴を脱ぎ捨てると、血で汚れているのが見えない様に隅っこの方へと押しやっておく。
幸い史は体力の限界なのか意識が途切れかけており、気付かれることは無かった。
「前みたいに、抱え方に文句を言わないでくれよ」
「言わない……よぉ」
「そかそか」
俺は史の背中と膝裏に腕をくぐらせ、いわゆるお姫様だっこの要領で持ちあげると、多少ふらつきながらキッチンを縦断して部屋へと歩いて行った。
生活空間になっている部屋は、10畳程度の広さを持って縦に長い形をしている。
左端にはベッドが備え付けてあり、その反対側にはちゃぶ台が立てかけてあった。
その他にもテレビや棚や小物入れなどがきちんと整頓されており、俺が使っていたころよりも随分きれいになっている様に思う。
「ベッドを使ってもいいけど……」
桐谷からの提案を、俺は首を振って辞退すると、彼女が敷いてくれた布団の上に、そっと史を下ろした。
「桐谷が使ってたんだろ?」
「ええ」
「史はいろんなウィルスに感染しやすい状態だからちょっと止めといた方がいいと思う――ってルインウィルスに感染すると思ってるわけじゃないぞ。普通の風邪が史にとっては致命的なんだ」
桐谷は不顕性感染者として嫌な思いをした経験があるため、慌てて付け加えておいた。
「じゃあ、史の服を緩めておいてあげてくれないか? 俺がやると変態だから」
「別にいいけれど、あなたはどうするの?」
「俺は……」
途中で言葉を切ると、足元に視線を戻す。
「それ……!」
桐谷もそれに気づき、目を丸くして驚いた。
俺が足で踏んづけた床には赤い血で落書きのようなものが描かれている。
靴擦れで足裏に出来た水泡が破れ、それでも無理に歩いたために出血してしまったからだ。
「しー……史が起きる。見た目ほど痛くないから平気だよ」
もちろんそんなのはただの強がりで、本当は今すぐへたり込んでしまいたいくらい痛い。
しかし女の子の前でそんな格好悪いことは出来ないため、なんとか耐えているといったところだ。
「なんでそんなになってまで……って、私と同じで誰かに追われて逃げて来たのかな」
「……まあ、ご明察通り。なんで分かったの?」
桐谷は返事する代わりにちょいちょいっと自身の頬を突っつく。
一瞬理解できなかったのだが、自分で自分の口元に手をやってようやく気付いた。
俺は口元を覆うバンダナも、目を隠すゴーグルもいつのまにか消えてしまっている。
恐らくは逃走中のどさくさに紛れて落としてしまったのだろう。
今の状況で、素顔のまま外へ出るのはあり得なかった。
「あいつ等に襲われて、必死に逃げてたからそういうとこまで気が回らなかったな……」
「あいつ等?」
問い返して来る桐谷へ、手を広げて会話を中断した。
桐谷は怪訝な様子であったが、これ以上おしゃべりに興じていたら必要な事が出来なくなってしまう。
俺の方は多少血が拭き取りにくくなってしまう程度のものだが、史がいつまでも休めないのはかわいそうだった。
「後で詳しく話すから、とりあえず今は雑巾を貸してほしいんだけど」
「その前に治療しないといけないって思うんだけど……何も無いのよね」
桐谷の言う通り、本来ならば怪我の治療を一番にすべきなのだろうが、消毒液という上等な代物は隔離施設にしかない。
もっとも、男の辞書には根性という便利な言葉が載っているため、それで代用が可能だろう。
別名、意地とか我慢とか言うのだが。
「死にはしないさ」
俺はその一言で片づけると、キッチンへ雑巾を探しに行く。
ただ、死にはしないという言葉が、俺にとってはとんでもない皮肉になってしまったのだった。




