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第40話 逃走

 水のしずくが落ちて来て、ぽつりと肩に当たる。


「お兄ちゃん……」


 窓から顔を出した史が、両目にいっぱいの涙をため、必死に歯を食いしばっているのが見えた。


「ゆっくり、気を付けて」


「……うん」


 史は一度顔をひっこめると、今度は小さな足を窓の外に突き出した。


 落ちれば大けがは間違いないが、それをしなければ殺されてしまうという状況に追い詰められてしまったことが怖いのか、小刻みにプルプルと震えている。


 もっと何か声をかけてやりたいが、あまり声を出し過ぎて、俺たちが窓から逃げようとしていることが気付かれてしまっては元も子もない。


 ただじっと史の事を見守る事しかできなかった。


「……んっ」


 史の吐息が漏れ、それと同時に足が壁を引っ掻く。


 少しずつ史の体が窓から外へと出て来て――。


「――きゃっ」


「――――っ!!」


 足を滑らせたのか、史の体が急激に下がる。


 しかしなんとか窓枠にしがみつけたのか、50センチほど落下しただけですんだ。


「史、足を掴むから驚くなよ」


「うん」


 史のスカートは壁にひっかかってまくれ上がり、あられもない格好を晒してしまっているが、そんな事を気にしている暇などない。


 俺は史の下に移動すると、両腕を上げて史の靴を掴む。


「少しずつ、少しずつ体重を俺の手に乗せて」


 俺がそう指示すると、手のひらにぐっと史の体重がのしかかって来る。


「そう、そのままそのまま……頑張れ、史」


 史が少しずつ腕を伸ばしていくのに比例して、俺の腕に負荷がかかっていく。


 ここでもしバランスを崩してしまえば大けがは免れない。


 何よりも大切な重みをしっかりと掴み、慎重に、しかし出来る限り素早く俺の肩へと誘導していき……ようやく俺の肩に史の全体重が乗った。


「よし、後はしゃがんで肩車みたいに座れるか?」


「……やってみる」


 史が少し動く度にバランスを崩しそうになる。


 人の土台になるというのがここまで難しいとは思ってもみなかったが、俺は歯を食いしばって史を支え続けた。


「お兄ちゃん、下ろして」


 誰かに見つかったら最期という実に肝の冷える時間が終わったことを告げられ、俺は思わず強く息を吐いていた。


「よし、よくやったぞ」


 史を地面に下ろすと足元のバットを拾い上げる。


 初めて人を殺してしまった忌まわしい凶器ではあったが、まだ必要になる事があるかもしれないからだ。


 そのバットと手を生垣に突っ込み、力を入れて左右に開く。


 生垣の隙間からは、元町内会長が放火したせいですすけてしまった千里の家が見えた。


「ありがとう」


 その隙間に史はするりと体を滑り込ませる。


 それに続く様に俺も浦木家の敷地に侵入した。


 手を離せば生垣は一瞬で元に戻り、俺たちの姿を隠してくれる。


 後は、逃げるだけ。


 俺たちが家を出たことはまだバレていない。


 今すぐ走り出せば、逃げ切れる可能性は高いだろう。


 ただそれは……母さんを見殺しにするという事だ。


 そうするしか選択肢はないのだが、しなければならないからと言ってすぐに出来るわけではない。


 俺と史は無意識のうちに俺たちの家を見遣り、そこに居るであろう母さんを幻視する。


「……お母さん、私も大好き」


 史がぽつりと呟いたその言葉が、俺たちから母さんに贈る別れの言葉だった。


 聞こえないだろうし、意味もない。


 こんな事に時間を使っている暇があれば早く逃げた方がいいのは分かっているが、言わずにはおれなかった。


「……行こう」


 俺は史の手を掴んで歩きだし、浦木家の敷地を縦断する。


 そして端までたどり着くと、もう一度先ほどと同じ様に生垣を割って、兄妹二人で道路へと出た。


 周囲には誰も居なかったが、念のために足音を殺して早歩きで移動する。


 見つかる危険性が減る曲がり角まであと十数メートル。


 大した運動をしたわけでもないのに鼓動がドクドクと早鐘のように打ち鳴らされる。


 俺は走り出したくなる気持ちを抑えて必死に歩く。


 そうして曲がり角へと達した瞬間、俺と史は駆けだした。


「どうするの?」


「派出所がちょっと行ったところにあったろ? そこまで逃げるっ」


 地方故に自宅と交番が合体した派出所が存在する。


 そこを警察や自衛隊が拠点として付近の治安を維持していた。


 距離にして1キロちょっとと少し遠いが、逃げ込めば守ってくれるはずだ。


 もしかしたら母さんの通報で既に警察がこちらへ向かって来てくれているかもしれないが、自分から行った方が確実に保護してもらえるという判断だった。


「うん……分かった」


 既に息が上がり始めているのか、戻って来た返事は途切れ途切れになっている。


 もしもの場合は史を背負って走る事を覚悟しつつ、俺たちは走り続けた。






 走ったり歩いたりを繰り返しながらようやく派出所までたどり着いたのだが、どうにも雰囲気がおかしかったため、物陰に隠れて様子を窺う。


 派出所には普段から警察官や自衛隊員が常駐している。


 当然そこに居る人たちは制服を着ているし、勤務中は感染防止用のガスマスクを被るなど、色々とルールに従っているのだ。


 しかし、今派出所の前で佇んでいる男はTシャツにジーンズ姿で手に持った警棒をクルクルと回しながら所在なさげに立ち尽くしており、明らかにそういった組織に所属している様には見えない。


 むしろ、先ほど俺たちの家を襲った野盗くずれの連中と雰囲気が似通っていた。


「……学校は制圧されてたしな」


 学校は主に三井先生だけで管理されており、それに対して派出所は武装した警官や自衛官が管理している。


 そんな彼らとあの組織が争って勝てるのかを想像してみたのだが、犠牲を出しながらという条件は付くが可能という結論に至った。


「史、どう思う? あいつはヤバい奴らの仲間だと思うか?」


「わかん、ない」


 史は男からちょうど死角になる位置で座り込んでしまっており、なんとかして息を整えようとしているところであった。


 ただ、彼女の顔が真っ青になっているのは疲労だけが原因ではないだろう。


「……隔離施設までは行けるか?」


「わかん……ない、けど、頑張る」


 そうは言うけれど、明らかに無理そうな様子であった。


 よしんばたどり着けたとしても、隔離施設の周りにはあの男たちと同じ考えをした連中がたむろしている。


 無事に施設へ逃げ込めるとは到底思えなかった。


 安全に休憩できる場所が今の史には必要だ。


 出来ることなら隔離施設へ連絡が出来ればなおのこと良いのだが、そんな都合のいい場所はそうそうない。


 俺は頭を悩ませ――結論を出した。


「史、目的地を変えるぞ」


 俺は派出所が奴らの手に落ちてしまったと仮定して動くことに決める。


 もう、絶対に家族を失いたくはない。


 臆病すぎるくらいに警戒するべきだろう。


「ん」


 とはいえ史はもう体力の限界に近づいている。


 ひとりで歩くのも苦しそうで、現に頷きこそしてもまだ立ち上がれないでいた。


 俺は史に背中を向けてしゃがみ込むと、


「背負ってやるから掴まってくれ」


 そう促した。


「でも……」


「俺はこう見えても外をよく出歩いてるから体力は有り余ってるんだ。遠慮しないで」


 史からすぐには応答がなかったのだが、やがて小さい声でありがとうと囁かれてから首筋に腕が回される。


 背中に史のぬくもりを感じ、俺たちがまだ生きていることを肌で理解した。


「史……。絶対守るから。なにがあっても守るから」


「うん、あり……がとう……」


「……絶対生きのびような」


 母さんのぶんも、という言葉は飲み込む。


「絶対、ね」


「ああ」


 不退転の覚悟を胸に、俺は史を背負って立ちあがった。


 向かうのは……。



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[一言] こうなるともはやどこを頼ればいいのか……
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