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第39話 愛に満ちた選択

「今すぐ外に出て逃げよう」


 ちょうど俺たちへの警戒は緩んでいる。


 火を点けられた後では確実に包囲されてしまうだろう。


 チャンスは今しかない。


「で、でもどこから逃げるの? 階段から逃げられなくもないけど、誰も警戒してないわけじゃないでしょ?」


 史の言う通り、階段の手前辺りで俺たちが二階から下りて来ないか見張っているヤツらが居る。


 そんな中、母さんと史を連れ、階段を駆け下りて強行突破するのは不可能だろう。


「……窓から飛び降りよう」


「えっ」


 2人は信じられないと言うように、目を見張って驚きの声を上げる。


「大丈夫、出来るから」


 実際、俺は千里の家が放火された時に窓から飛び降りている。


 母さんたちにそれをしろというわけではないが、3メートル程度の高さなのだから出来ないこともないはずだ。


「無理だよ。その後走って逃げないといけないんだよ。ねんざとかしたら……」


 そう言って史は身を震わせる。


 史は見た目も心も可憐な少女だ。


 そんな史が奴らに捕まれば、確実に殺されるだけではすまないことを、史自身よく分かっているのだろう。


 かといって病弱な史は二階から飛び降りるなんてやんちゃな事はしたことがないため、どうしても踏ん切りがつかない様だった。


「なら、俺がまず降りて踏み台になる。それでどうだ?」


 俺が壁に立って手を上げれば2メートルくらいにはなる。


 窓から地面の高さは3メートルだから、確実に史が俺の手のひらに足を乗せることは出来るだろう。


 そこから窓枠を掴んでもらって体勢を安定させた状態で、ゆっくりと下ろして肩に乗せ、肩車に移行して地上に下ろせば、安全に事はすむはずだ。


 問題としては、それだけの作業をする時間が取れるかどうかだが。


「……暦。あなた史を抱えて飛び降りられる?」


 唐突に、母さんが口を開く。


 俺もその可能性は考えないではなかったが、俺が足を痛める可能性の方が大きかったから言わなかったのだ。


 なんだかんだで人間は重い。


 5キロの米袋を持ってジャンプしただけで足にかかる荷重はとてつもないものになるのに、その7倍程度の重さを持つ史を抱えて飛び降りるとなると、おおよそ不可能な事は簡単に想像がついた。


「たぶん、無理」


 一瞬、受け止めるなんて考えも頭をよぎったが、それも却下する。


 なんだったかで、数メートルの高さから降って来る人間を受け止めるためには、数トンの物を持ち上げられるだけの力が必要だとの知識を得ていたからだ。


「そうよね……」


 あっさり引き下がったところを見ると、母さんもそれは分かっていたらしい。


 そして再び母さんは俯いて眉根を曇らせる。


「とにかく早くっ。2人とも俺の部屋に」


 男たちに見つからないように逃げるのならば、以前俺が放火犯である元町内会長の山本を見つけた際に飛び降りた窓を使うべきだ。


 家の裏手に面していることと、生垣を割って進めば浦木家の敷地へと逃れられる。


 奴らの包囲網の隙間を突いて逃げ出せるはずだ。


 俺は先に自室へ駆け込むと、音が出ないよう注意しながら窓を開ける。


 火をつける作業に追われているからか、幸いなことに見咎められることはなかった。


「俺が先に行くから、母さんは史の手伝いをしてあげて」


 俺がそう言っても、母さんはなにも反応しない。


 ただ黙ったまま俯いているだけ。


「母さんっ」


 俺が母さんを急かしたその時だった。


 だしぬけに母さんが両腕を広げ、俺と史をまとめて抱きしめてくる。


「愛してるわよ、暦。史」


 顔のすぐそばでそう囁かれた後、母さんはすぐに離れて行った。


 それだけではない。


 母さんは俺たちに背を向け、部屋の外へ向かって歩いていく。


 何をするつもりなのか、何を考えているのか。


 言葉なんてなくても気付いてしまった。


 ――母さんは、俺たちを逃がすために、囮になるつもりだって。


「お母さん、待って!」


 俺も史と一緒になって母さんを引き留めたかった。


 囮なんてやらなくていい、俺が全部守るからって怒鳴りつけたかった。


 でもそんな事は不可能なのだ。


 俺は何百人相手にしても勝てるような正義のヒーローじゃない。


 バットを振り回したところでチンピラひとりに適わない、ただの高校生。


 俺は……無力だった。


「史、行くぞ」


 母さんは恐らく最期になるであろう言葉を、震えもせず、怯えもせずに遺してくれたのだ。


 俺はその決意を無駄にしないように受け入れることしかできない。


 必ず、史と俺の命を守り抜く。


 それだけしか――。


「でも、お母さんがっ」


 悲痛な表情を浮かべて史が俺の袖を掴む。


 俺も母さんを助けるために今すぐ階段を駆け下りてしまいたかった。


 でもそうすれば、三人とも死んでしまう。


 それならば、母さんだけが死んで俺と史が生き残る方がいい。


 母さんはその道を選んだのだ。


「分かってる……!」


 母さんはこの短い時間で悩んだはずだ。


 他に方法が無いか知恵をふり絞ったはずだ。


 それでも他に方法がないからそれを選ばざるを得なかった。


 もっといい方法があれば、それを選んでいる。


 だって、あんなに強く『愛してる』と言われたのは初めてだったから。


「分かってるよ……!!」


 俺は唇を噛み締め、必死に自分の心を殺す。


 そうしないと涙で前が曇って逃げられなくなってしまう。


 母さんの想いを無駄にしないためにも、今は泣くべき時ではない。


「いくぞっ」


 史の顔を見ずにそう告げると、窓から顔を出して着地地点を確認する。


 そこには何か燃えるものが無いかと下を向いてふらふら歩いている男がひとり。


 こちらのことなんて全く気にもとめておらず、無防備な後頭部を晒していた。


 俺はバットを手に持ったまま窓枠に腰を下ろす。


 男は窓の直下よりも少し離れた位置にいた為、そこへ向かって飛び降りれるように足を壁に着けて狙いを定める。


「…………」


 飛び降りる勢いそのままにバットで殴りつければ、恐らく男は死ぬだろう。


 俺はこれから人を殺す。


 だというのに意外なほど心は静かだった。


「……ふっ」


 息を軽く吸い込み、止めるのと同時に壁を蹴って空中へ躍り出る。


 僅かな浮遊感が体を包んでいる間に俺はバットを振りかぶり――男の頭へ向けて叩きつけた。


 ごっという鈍い音と、今まで経験したことの無い不快な感触がバットを通して伝わって来る。


 それが初めて人を殺した感覚であることを認識する前に、俺はそれ以上考える事を放棄した。


「史っ」


 バットをその場に落とすと、窓の直下へ戻り壁に背中を押し付ける。


「来いっ」


 しかし、史からの応答はない。


 窓から史の顔が覗くこともなかった。


「頼む、史っ」


 俺が今なにをしたのか、史は見えていたのだろう。


 それが史のためだと責任転嫁はしたくない。


 だから――だから……。


「俺と一緒に来てくれよ」


 今の行為は俺のためにやったのだと伝えるために、俺の願いを絞り出す。


 自分でも驚いてしまうほどしわがれた声だったが、それでも続ける。


 史は悪くない、俺が情けないから逃げたのだと。


 俺が母さんを見捨てたのだと……。


「俺をひとりにしないでくれっ」


 そう、願った。

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