第32話 喧嘩
千里がどこかに行ってしまう、という店のおばちゃんのアドバイスを受けてから3週間ほどの時が流れていた。
その間、俺と千里の関係は進展することは無かったのだが……ひとつだけ変わったことがある。
あれから千里の外出が少しずつ増えて来たのだ。
どこに行って誰と会っているかも教えてもらえない。
ただ、知り合いに会って来たとだけ告げられ、それで終わってしまう。
そして今日もまた、千里は朝早くから出かける準備を整え自室から姿を現したのだった。
「千里。今日もまた出かけるのか?」
「そうだけど?」
つんと澄ました様子で返されてしまう。
その声を聞いて、ふと、気付く。
千里は俺に対してここまで冷たい言い方をする奴だったろうか。
ここまで拒絶されていたのだろうか、と。
「……一応、外出制限がかかってるのはお前も知ってるだろ? 下手すりゃ逮捕されるんだぞ」
「別に、されるわけないし」
千里の言う通りなのは俺も分かっている。
今、警察と自衛隊が一緒になって警察活動を行っているのだが、そもそもの数が少なすぎるのだ。
よほどの事がない限りは逮捕されたりなどしない。
そして彼らが動く様なことになれば、かなり大きな事件である場合が多く、それは射殺で対処されることが多かったため、単に外出をしているだけならば捕まることはまずないだろう。
「とにかくもう外に出るな。ちょっと外出しすぎだ」
俺は千里のことを心配して言ったのだから害意など無い。
しかし千里は違った様で、スノーゴーグルを突き抜けてもなお肌が震えるほど殺気の籠った目で俺を睨みつけて来た。
「なに? 命令? さすが上級国民さまは違うわね。私の意志も支配しようって言うわけね」
「はぁ!?」
意味が分からなかった。
唐突に俺の事を上級国民などと言われても、戸惑いしかない。
確かに父さんは医者であり、普通の家庭よりお金はあるし史に薬を処方する事だってできる。
しかし薬は免疫抑制剤という現状ではほぼ使い道がなく、色々な場所で余っている薬だからこそ手に入るだけに過ぎない。
もし史に必要な薬が抗生物質だったとしたら、確実に手に入れることなど出来なかっただろう。
「俺が上級国民なわけねぇだろっ!!」
もしも俺が強大な権力を持った存在なら、あんなことをしなくても良かったはずだ。
母さんだって畑仕事や炊事洗濯をして、手をボロボロにしなくてもいいはずだ。
史はもっといい治療を受けて、ずっと家に閉じこもらなくてもいいはずだ。
千里の主張は、完全な言いがかりだった。
「ほぉら、そうやって隠す。こっちはぜぇんぶ分かってるの。おじさん……あんたの父親が車で送迎されてたり、薬を独占してたり、甘い物をいくらでも食べてたりしてたじゃない」
「全部言いがかりだっ!」
父さんが車で送迎されるのは、医療関係者を失うわけにいかない政府の都合。
薬は残り物、甘い物は再利用品と、手に入れようと思えば千里にだって手に入れられる物ばかりだ。
人間は見たいものだけを見たがるものである。
今の千里は、理論や内実をすっ飛ばして自分の思った通りの見方しかできなくなっていた。
「はっ、どうだか。あんたたちがそうやって薬を独占するから私のお父さんとお母さんは死ぬのっ。ホントは助かるはずなのにっ!」
「千里。お前が誰に何を言われたのか知らないけど、全部でたらめだ。ルインウィルスに効く薬なんてない」
何となく、分かって来た。
千里は現実を受け入れられなかった。
両親が死ぬなんて考えたくなかった。
本当は助かるはずだと思いたかったのだ。
しかし現実はそうではない。
なら何か理由があるから助からない。
その理由は治療の邪魔する悪い奴らが居るからだ。
俺たちのような薬を独占する上級国民が居るから助からないのだ。
千里はそう思い込むことで自分の心を守ろうとしていて、そんな心の隙間に付け込まれてしまったのだ。
「嘘つきっ。人殺しっ。本当は持ってるんでしょっ! 独占しようとしてるんだっ!」
千里は髪を振り乱し、もの凄い形相で俺を睨みつけて来る。
まさに俺は、親の仇なのだ。千里の中では。
そんな俺の言葉を信じるはずがなかった。
「そんな大嘘誰に吹き込まれたんだよっ! そんなことあるはずないだろっ!」
「うるさいうるさいうるさいっ!」
いつの間にか母さんが様子を見にやってきていたのだが、千里のあまりの迫力に気後れしてか、ただ遠巻きにこちらを見ているだけだった。
俺が視線で助けを求めると、今は何を言っても通じないとばかりに母さんは険しい顔つきでごくわずかに首を横に振る。
だがそれでも千里は大切な幼馴染なのだ。
俺は千里を宥めようと手を伸ばし――。
「触るなっ、汚らわしいっ!!」
打ち払われてしまう。
「差別主義者めっ!」
「――その言葉」
千里の放った一言に、俺は聞き覚えがあった。
その言葉は忘れようもない。隔離施設でデモ活動を行っていた連中が言っていた言葉だった。
「まさか、お前が会ってた連中って……」
自分が被害者だと声高に叫び、誰かを攻撃するような人間に碌な奴はいない。
千里は明らかに頭のおかしい連中と付き合いがあり、そんな連中の思想に染まってしまっていた。
「お前、もしかして今まで何度も隔離施設に行ってたのか?」
隔離施設の前に行って、自分の両親を助けるために戦っていたのだろう。
邪魔にしかなっていなくとも、それで助かると信じて。
「そうよ。私たちが受けられるはずだった当然の権利を取り戻すためにね」
原因は分かった。
今の千里の状態も理解できる。
しかしその対処法はとなると、まったく想像もつかない。
あれだけの数仲間が居て、そんな連中が陰謀論を肯定し合っている中にどっぷり浸かっているとしたら、千里はもはや生半可な方法では解くことも出来ないほど強固な洗脳状態に陥っていた。
「私がお父さんとお母さんを助けるの。絶対に助けてみせる。お前達から」
千里の中で、彼女は剣を持ってドラゴンに立ち向かう勇者になっているのだろう。
もちろんドラゴンは俺たち上級国民で、仲間ともに討伐したら全て上手く行き、幸せになれる。
……なんて、そんなことあるはずがない。
誰かが悪いと叫び、敵視して攻撃しても現実には何の解決にもならないのだ。
そんなものは一時痛みを忘れるだけの麻薬に過ぎない。
効果が切れれば現実に引き戻され、酷い後遺症に悩まされるだろう。
今まで仲良くして来た人たちを裏切り、攻撃したという後遺症に。
「千里……目を覚ませ」
「なに言ってるの? 現実が見えてないのはそっちでしょ」
俺と千里はしばらくの間視線をぶつけ合い――結局俺が目を逸らした。
今、俺が何を言っても何をしても無駄なのだ。
逆に千里を意固地にさせて、より洗脳を解きづらい状態にしてしまうだろう。
「こんなとこ、出て行ってやる」
もう、引き留めることなど出来はしない。
もし引き留めなどしたら、監禁されたとでも言い出されてしまうかもしれなかった。
俺は後ろに一歩下がり、千里に道を譲る。
千里の行動を、否定も肯定もしなかった。
一方千里は宣言するや否や身を翻して自室へと戻り、自分の荷物をバッグに詰め込み始める。
それをしり目に、俺は母さんへと近づく。
「……どうする? 無理矢理止める?」
千里に聞こえない程度に声を潜めて母さんへ意見を求める。
「無理やりしたら、余計こじらせると思うわ。それに、閉じ込めておくような部屋も無いし……」
「だよ、ね……」
千里とはこれからもずっと一緒に居られると、なんの根拠もなく思い込んでいたのも悪かったのかもしれない。
俊彦おじさんから任されたというのに、一カ月も経たないうちにこんな事になってしまうとは想像だにしなかった。
まごついている俺と母さんを背に、さっさと荷造りを済ませた千里は、目線すら合わせることも無く出て行ってしまった。




