第26話 桐谷桃花
見慣れぬ食卓の上には未だ湯気を立てるほど温かいお粥が注がれた皿がひとつ置かれており、その隣には足りなかった時のためにと布で包まれ、保温されているお粥入りのタッパーが用意されていた。
風呂上がりの桐谷は、しっとりと濡れた艶やかな黒髪を肩に流し、大きくぱっちりした目をさらに大きくしてお粥を凝視する。
はしたなくも喉を鳴らして唾液を飲み込んでしまうほど食べたくて仕方ないという様子なのにもかかわらず、彼女はそれに手を出すことをためらっていた。
……警戒しているのだ、俺を。
この世界で信じられるものなど自分以外何もない。
だから、他人にお粥を無料で与えるなどありえない。
なら、これにはなにか仕掛けでもしてあるか、代わりに対価を要求するのではないかと、そう勘繰っているのかもしれなかった。
「桐谷さん。これを食べてもいいけど、ひとつだけ条件がある」
そう言った途端、ほら来たとでも言いたげな表情に変わる。
「俺たちを信用してくれ。絶対に君を傷つけるようなことはしないし、君の不利になることもしない。もちろん警察に通報だってしてない。だから、信用して俺の話を最後まで逃げずに聞いてくれ。頼むから」
「…………何を言っているんですか?」
俺の言っていることが理解できないほど、桐谷の心は摩耗しきってしまったのだろうか。
そう思ったのだが――違った。
彼女の瞳から涙が一滴まろび出て、食卓の上に小さな水たまりを作る。
なんてことはない。
彼女の心が少し驚いてしまっただけ。
信じるなんて言葉を、思い出すのに時間がかかっただけなのだ。
「なにをって、日本語」
我ながら小学生かよと突っ込みたくなるような返しだったが、恋人なんて居たことのない俺は、こんな時に女の子が喜ぶような気の利いた受け答えなんて知る由もなかった。
「……子どもですか?」
「うるさいな、自分でもちょっと思ったよ。いいから早く座って食べなよ。冷めると味が落ちるから」
「はい……あ、その前に私からも一ついいですか?」
「もちろん」
「あなたのお名前は何でしょうか」
父さんから彼女の話を聞いただけで色々と分かったつもりになっていた自分の間抜けさに、思わず頭を抱えてしまったのだった。
それから俺たちは改めて互いに自己紹介をしてから会話を始めた。
「とりあえず、堅苦しい言い方は無しで。主に俺がめんどくさい」
「……うん、分かった。私もそれの方が楽だし」
桐谷はそれまで被っていた優等生然とした仮面を脱ぎ捨てると、存外ざっくばらんな素顔を見せる。
今までの少し固い感じの彼女も綺麗で良かったが、今の彼女は柔らかいというか、血の通った等身大の少女らしさが感じられ、どちらかと言えば今の方が俺の好みだ。
「それで、食べてもいいのかしら?」
「……ああ、もちろん」
返事が遅れたのは俺が彼女に見蕩れていたからではない……はずだ。
俺は咳ばらいをひとつして、踏み外した感のある間を取り戻すと話題を戻す。
「えっとだな……俺の父さんは君が脱走した隔離施設で働いてる」
スプーンを持つ桐谷の手が一瞬止まる。
もし俺が最初に言い含めていなければ、追手が来たと勘違いして逃走を図っていたかもしれない。
しかし桐谷は俺の次の言葉を待ってくれている。
これは俺を少しは信用してくれている証左ではないだろうか。
「君を助ける理由は、そこが大きいと思う」
「……同情ってこと?」
桐谷が食事も出るし寝床だってある隔離施設から逃げ出したのには相応の理由が存在する。
それは、彼女が不顕性感染者であることに由来していた。
「無いって言ったら嘘になると思う」
世の中の人間は、デマというものに突き動かされてとんでもないことをしでかすことが往々にして存在する。
オイルショックでトイレットペーパーが無くなるというデマが流れてそれらの商品が全て消えたなんて軽いものもあれば、殺人にまで発展したものまで多岐にわたる。
桐谷が逃走せざるを得なくなったデマ。
それは、不顕性感染者の血を飲めば抗体がつくだとか、不顕性感染者とヤれば治るというものだ。
実はこういったデマはHIV、エイズという病気の存在が知られるようになった時にも流れている。
その時は処女とすればエイズが治るというもので、子どもの性的被害が一気に増えてしまったそうだ。
「それで父さんたちが桐谷さんを守れずにすまないって……」
つまり桐谷もそういう目に……。
「勘違いしてそうだから訂正するけど、私はされそうだったから逃げだしたの。なにもされてないからそんな顔で同情しないでちょうだい」
「え?」
「隔離施設はきちんと男女分かれてるから、同室だった人も撃退に協力してくれてたわよ」
隔離施設は学校の教室を改造したものであるため、基本的には個室ではない。
そしてルインウィルスの感染者、特に最も期間が長いフェーズ2の感染者は無症状なのだ。
桐谷を襲おうとした男はさぞかし派手な歓待を喰らったことだろう。
「あ、じゃあ被害は無かったんだ」
「私は無かったけど……さすがに5回も6回も来られたりしたら、ね」
デマに騙されているとはいえ、桐谷を襲う理由は病気を治して生きるためなのだ。
襲う男はそれこそ死に物狂いだろう。
そうなれば、同室の女性も殴られる程度のことはされたに違いない。
始めのうちは同情されて協力してくれても、それが何度もとなると話は別だ。
だんだんと疎まれ、自分たちがこんな痛い目に合うのは桐谷のせいだと攻撃されるようになったかもしれない。
桐谷の辛そうな顔から何となくそういった事が察せられた。
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。悪いのは全部、襲って来た男の人たちだから」
それからしばらく俺がほぼ一方的に話しかけ、桐谷が食事の合間に言葉を返す程度の会話をしてから別れたのだった。
朝早くから俺は千里の家を訪れ、起きたばかりの桐谷と浦木夫妻の寝室で対面していた。
これがアダルトな用事であるなら俺も嬉しいのだが、もちろんそうではない。
もっと実務的な用事だった。
「で、これが昨日約束してた物資」
一日ゆっくり休憩したことで、いくぶん顔色や肌通夜も良くなった桐谷へ、俺はリュックサックを手渡した。
リュックサックの中には、LEDライトやナイフ、メタルマッチや食料に種芋、そしてわずかだが現金なども入っている。
本当はもっと色々としてあげたかったのだが、俺に出来るのはその程度だった。
「ごめん。桐谷さんを受け入れる余裕はさすがにないんだ」
桐谷はいくら被害者とはいえ、隔離施設から脱走した人間である。
食料などの配給は受けられない。
それどころか国を頼れば隔離施設から脱走した罪で銃殺されてしまう。
特別な措置を受けられないか昨夜父さんと話し合ったのだが、不顕性感染者なんていう例外中の例外に対する法律は作られていないため、特別扱いもしてもらえないみたいだった。
「……食料や道具を分けてもらえただけで感謝してる」
とはいえこれから桐谷はこの非情な世界をたった一人で生きて行かねばならないのだ。
平和な時にはただの女子高生であった桐谷が、国や法律といった加護すら無く自身の力だけで。
この先辛い未来が待っているのは火を見るより明らかだった。
だから俺は散々悩んだ結果、とあるものを用意していた。
「なあ桐谷さん。犯罪者になっても構わない?」
「え?」
桐谷が訝し気な表情で聞き返して来る。
それもそのはず、この破綻した世界で犯罪者になるのは銃殺の危険があった。
なのにそれを勧めるなんて、本当は殺したいのかと思われても仕方がないだろう。
「これを見て欲しいんだけど……」
俺はポケットからメモ用紙を取り出して桐谷の目の前で広げて見せる。
そこには、ここからだいぶ離れた住所が書かれていた。
「なにこれ?」
桐谷が不思議そうな顔でメモ用紙を覗き込む。
当然、住所に見覚えはない様だった。
「発症が確認されたら隔離施設に強制連行されるだろ?」
「ええ、そうね。私も連れていかれたもの」
「つまり隔離施設は一番初めに持ち主が居なくなった物資の在りかを知ることが出来る」
俺の言葉の意味に気付いたのか、桐谷がはっと息を呑む。
「そ、それって……」
「父さんが言うに、バイヤーが倉庫代わりに使っていた部屋の住所らしいよ。食料や医薬品があまりなかったから放置されているんだってさ」
「……それ以外はある、と」
問題は真面目な性格をしている桐谷が盗みなど出来るかどうかだ。
流石に水や食料には手を付けていたが、千里の家の物を盗んで売ろうとはしていなかった。
しかし、選択の余地はない。
「ここにある物資を売れば、しばらくはしのげると思うよ」
桐谷は唇を引きしばり、親の仇でも見るような目つきでメモ帳を睨みつけている。
「バイヤーは、春日組の闇市に所属している人たちが安全だと思う。その分手数料も高いみたいだけど」
「…………」
桐谷の頭の中では、正義感と現実が激しい争いを繰り広げているに違いなかった。
「桐谷さんはルインウィルスに感染して死ぬことはない。これから先、生き残る事が出来る可能性は高いよ。だったら何をしてでも生きるべきだと俺は思う」
俺の説得を受けてもなお、桐谷はしばらく渋い顔をしていたのだが、
「……仕方ないのかな」
ようやくその言葉を絞り出すと、メモ用紙を受け取った。
「俺は、迷わなかったよ。母さんと史、それに千里とその家族が居たから」
「……そうなんだ」
「だから、桐谷さんも自分のために生きるべきだよ。何をしてでも」
「…………そう」
暗に俺も仲間なのだと告げると、桐谷は顔を歪め、嫌々現実を受け入れたのだった。




