第23話 家人無き住処
「母さん、ちょっと千里んち見て来るよ」
雑巾と室内用のホウキを片手に玄関先で靴を引っかけながら家の奥へ向かって声をかけた。
両親が感染したせいで一人ぼっちになってしまった千里は、いずれ俺の家にやってくる。
とはいえまったく千里の家を使わないかと言えばそうではないだろう。
2週間も人が居なければ埃もたまるだろうし、何より放火されかけたのだ。
現場の周辺は綺麗にしておいてあげた方がいいだろうという判断だった。
「なに、お隣さんのウチに? 何しに行くのよ」
パタパタと軽い足音を立てながら、母さんが奥から姿を現す。
右手にペンを持っている辺り、新たに増える家族のため、家計簿でもつけていたのかもしれない。
「掃除とか放火されて家の中がなんかなってないか確認したりとか……」
あとは泥棒に入られたりすることだってある。
感染者を出した家は、普通の人間なら近づこうと思わないし、確実に家人が居なくなるため、盗みをするのに絶好の標的となってしまうのだ。
「そう。鍵かかってるんじゃないの?」
「それは予備の隠し場所を俊彦おじさんに教えてもらったから大丈夫」
ついでに必要なものがあったら自由に使ってくれと言われていたりするのだが、俺が全て盗んで売っぱらいでもしたらおじさんはどうするつもりなのだろうか。
まあ、俺がそんな事をしないと信じているから預けてくれたのだろう。
「……ねえ、暦」
「な、なに?」
やおら深刻そうな表情で母さんが見つめて来る。
そのプレッシャーに押され、声が少しだけ震えてしまったかもしれない。
「あんた、千里ちゃんの部屋で変な事するんじゃないわよ」
「しねえよっ!!」
さすがに信頼されている身でそんな事を仕出かすつもりはない。
というか信頼されていなくてもそんな事をするつもりはまったく無かった。
「そ~お? 掃除がそんなに好きじゃないアンタがわざわざ掃除をしに行くなんて、そういう目的でもあるんじゃないかって……」
「絶対ない!」
確かに千里の体つきは非常にコケティッシュかつエロティックである。
そんな蠱惑的な肉体を無自覚にぶるんぶるん揺さぶられた時は、ちょっとばかりそういう目で見てしまったこともあった。
ただ、俺は体の方に興味があるのであって、下着だとか部屋だとかに興奮する趣味はないのだ。
……たぶん。
「絶対ないからっ!」
もう一度強く言い含めてから俺は母さんの反応を待たず、早足で外に出る。
扉が閉まる一瞬、なにか酷く心外な言葉を投げかけられた気がしたが、聞こえなかったと自分に念押ししてから千里の家へと向かった。
「えっとー……確かー……」
門柱に取り付けられている浦木と書かれた表札の下に、縦長のプランター置かれている。
俺は俊彦おじさんに言われた通り、プランターの土を掘り返すと……。
「あったあった」
緑色のスケルトンカラーをしたプラスチックカプセルが姿を現した。
指先をズボンで拭ってからカプセルを拾い上げると、中に収められた家のカギがカランと音を立てる。
「いや、おじさん不用心すぎでしょ……」
鍵はこのまま俺が持っているべきだと確信を持ちつつ、俺はそのカギを使って玄関を開けた。
「おじゃましまーす」
千里とよく会話していたものの、家に入ることはなかったため、見覚えのない風景が俺を出迎えてくれる。
家人が誰一人として居ない家にあがるのは、なにか悪いことでもしているような感じがして、何となく気分が高揚していく。
「ま、まずは裏口だよな~。母さんが火を消した時に水をぶちまけまくったらしいから見ないとな~」
誰に聞かせるわけでもないのに、わざわざ口に出して俺は泥棒ではありませんアピールをしておいてから、靴を脱いで家にあがった。
そのまま廊下を抜けてキッチンへの扉を開き――。
「ん? なんだこの臭い」
ふと、腐った生ごみの臭いを薄めたような、すえた匂いを感じ取る。
その臭いはどこからかやってくるというより、この場にずっと漂い続けているという感じがした。
俺はまず、水に濡れてなにかが腐っているのだろうと思ってキッチンに入ったのだが、何故か水滴ひとつないくらいにきちんと掃除されていてむしろ悪臭は薄いくらいだった。
その後も俺はクンクンと大気に残る臭いをかぎ取りながら、リビング、ダイニング、トイレ、バスルームと発生源を探して家の中を歩き回ったのだが、どこも空振りに終わってしまう。
となれば残るのは……。
「俊彦おじさんたちの部屋か」
よく見知った夫婦が使っている寝室の前に来たのだが、見てはいけないものを見てしまうのではないかという忌避感が沸き上がって来る。
多感な時期である俺としては非常に立ち入り辛いものがあった。
しかし、なんとなく、なんて理由でこんな異常を見過ごしていいはずがない。
俺は決心すると、無意識にホウキを構えながら、ゆっくり寝室のドアを押し開けた。
「うっ」
あまりに強烈な臭気にあてられ、俺はゴーグルとハンカチを装備せずに来たことを後悔してしまった。
その臭いをなんと形容すればいいのだろう。
生ごみの中で生活している野良犬をタオルで拭いて、そのタオルを袋の中に入れて一か月ほど熟成させた感じだろうか。
いずれにせよ、思わず吐き気がこみ上げてくるほどきつくて濃い臭いが部屋の中から漂って来たのだった。
「……ホントに野良犬でも迷い込んだのか?」
寝室の奥に設置されているクイーンサイズのベッドの中心に、こんもりとした布団の山が形成されている。
その山は、先ほどから規則正しく上下しており、確実に生きているなにかがその下に潜んでいた。
俺はしばらくそのまま様子を窺っていたのだが、山が呼吸以外で動く感じはしなかったので、眠っていると判断して持っていたホウキの柄を敷き布団と掛け布団の間に滑り込ませる。
慎重に慎重に、ホウキが10センチ20センチと布団の中を進んで行く。
布団の主はよほど深く寝入っているのか、完全に動く気配すら見せない。
俺はそのままホウキを使って布団を持ち上げていくと――。
「え?」
そこには自らの足を両手で抱え、リスのように丸まった状態で昏々と眠る少女の姿があった。
しかもその少女は見覚えのある体操着と短パンを身に着けている。
顔こそ見えないが、以前俺がぶつかってしまった不顕性感染者の少女で間違いないだろう。
「たしか名前は……桐谷、桃花」
「くしっ」
俺が頭の隅で埃まみれになっていた彼女の名前をようやくサルベージできたのと同時、少女――桐谷が可愛らしいくしゃみをする。
「しまっ」
俺が布団をかけ直す間もなく、桐谷は目を開けてしまい――。、
「きゃぁっ!!」
桐谷は悲鳴をあげながら布団を引っ掴むと、自身の体に巻き付けながら急いで壁際にまで逃げる。
そのままこちらを振り向くと、憎悪が宿った目で俺のことを強く睨みつけながら、空いている左手で必死に武器か何かを探す素振りを見せた。
「あー……」
本来ならば不法侵入した挙句、他人のベッドで勝手に寝ていた桐谷を、警察に通報するか捕縛することから始めるべきなのだろう。
しかし、俺はそれをするべきなのか迷っていた。
何がどうなってこうなっているのかは分からないが、桐谷は両親や帰る場所を失っていることだけは確かなのだ。
「失礼を承知で言わせてもらうんだけど……桐谷桃花さんさ、滅茶苦茶臭いからとりあえず風呂に入ってくれないかな」
「な、なんで私の名前を……えっ!? お、お風呂?」
お風呂という単語を口にした途端、桐谷の顔から険が取れる。
「そう、お風呂。少しならお湯も使っていいから。家主には了承を貰ってる」
「お湯……」
信じられないとばかりに俺の言葉をただ反復する。
俺は彼女に何があったのかなど知る由は無い。
ただ、俺が日常的に行っている入浴という行為が、桐谷にとっては戸惑いを覚えるほど彼方に行ってしまっていたという事だけは理解できたのだった。




