第17話 不顕性感染者
「ん……ふぁ……」
何か物音が聞こえた気がして、俺の意識が急速にまどろみから浮上してくる。
かなり長いこと寝こけていたのか、辺りはすっかり真っ暗になっていた。
「……とー……ないのー?」
窓がドンドンと騒ぎ立て、それに隠れる様に千里の声が聞こえて来る。
それで俺の意識は完全に覚醒した。
「やばっ」
俺は慌てて体を起こすと、枕元に置いてあるLEDライトを手に立ち上がる。
光を壁の時計に向ければ、午後7時を回っていた。
朝の回収時間が大体8時くらいだったので、都合11時間以上も千里に顔を見せなかったことになる。
なにも用事が無かったのなら構わないだろうが、俺はなにか分かったら教えると約束をしていたのだ。
それを忘れて千里を放置したのはさすがにまずかった。
「ごめんっ」
俺はとりあえずティッシュを一枚手に取ると、マスク代わりとして口元に当ててから窓を開ける。
「ごめん、千里。ちょっと色々あって行けなかった」
本当は忘れてぐーすか寝てたのだが、さすがにホントの事を言うと怒られそうだったので、適当に誤魔化しておく。
実際嘘はついていないのだから構わないだろう。
「やっと出た! どうせアンタ寝てたんでしょ。暦のすることくらい分かってるんだからね」
どうやら行動は完全に見破られていたらしかった。
「いやまあ、寝てはいたけど、きちんと理由があったんだよ」
「どんな理由よ」
正直に話すと千里が責任を感じてしまうかもしれなかったが、だからといって誤魔化せるようなものでもない。
俺はしばらく思案してから、あった事を始めから全て一切の嘘偽りなく話していったのだった。
俺が話し終わると、LEDライトの頼りない明りの中でもハッキリ分かるくらいに千里の顔が歪んでいるのが見える。
千里は間違いなく俺が感染の危機であったことに責任を感じていた。
「だから、ルインウィルスに感染した可能性はかなり低いって」
「そんな事言っても、ルインウィルスだよ? 99%は死んじゃうんだよ!? そんなウィルス持った人と接触とか、私だったら絶対いやっ。考えるだけで……怖い」
絶対にいや。
気持ちは分からなくもないが、俺はその言葉に少しだけ引っ掛かりを覚える。
誰だって感染したくて感染したのではないのだ。
脱走したあの少女だってそうだろう。
それなのに無条件で嫌悪されるのは……たぶん、辛いはずだ。
「あ~……ところで課題なんだけどさ、一週間も経てばウィルス死滅するだろうから母さんから受け取ってくれよ」
「嫌だ、ウィルスがついてるかもしれないんでしょ? 触りたくない」
「たぶんついてないし、ついてても死んでるって……」
ウィルスから話を逸らそうと思って課題のことを話題に上げたのだが、千里のウィルスに対する嫌悪はよほどのものであるらしい。
危険性がないと分かっていても、それでもなお触る事すら拒んでいた。
この分では渡したとしても即座に火の中へと放り込まれるだろう。
「ま、いいか。課題したくないのは俺も一緒だし」
とはいえあれだけ苦労して冊子にしたのだからまったく手を付けないのも寝覚めが悪い。
暇な事もあるし、多少は課題をこなしても損はしないだろう。
「ねえ、お願いだから暦は感染したりしないでね?」
「気を付けてはいるよ」
「お父さんもこの前熱っぽいとか言ってたし……。怖いよ」
「…………おじさん、帰ってるんだ」
千里の父、浦木俊彦には俺もよくお世話になっていたし、地獄の2カ月間では色々と協力し合って食料を手に入れたりもしたのだ。
ただ、治安が回復してからは政府が運営する農場で働いていて、しばらく家に帰っていないはずだった。
「前に少しだけ帰って来たの。お給料日だからって」
現在金融機関は完全にストップしてしまっているため、給料は現金を手渡しされている。
俺の家でも時たま父さんが帰ってきてもらった給料を母さんに預けていた。
「そっか。まあ政府の農場だから安全じゃないの? 確か検査とか受けられたでしょ」
「うん、前にして貰った時は陰性だったって」
「なら怖がり過ぎる必要はないよ。っていうかさ、三井先生だけどやっばくてさ……」
その後もなんとかして話題を変えて千里の眉間に刻まれたシワを取ろうと努力したのだが、どうしてもうまくいかず、そのまま会話を終えたのだった。
「ねえねえ、お兄ちゃん」
千里との会話を終えて1分と経たないうちに扉が控えめに叩かれ、続いて鈴の音かと思うほど可愛らしい史の声が聞こえて来る。
俺と史の部屋を隔てる壁はそこまで厚くない。
恐らくは千里の会話が終わるのを待っていてくれたのだろう。
俺は慌てて扉の傍に駆け寄った。
「史――っと、ごめん。そういえば史にもただいま言ってなかったな」
課題を作ったり、自主隔離をしたりと色々あって史と会話するよりも先に寝入ってしまっていた。
間違いなく、かなりの心配をさせてしまったことだろう。
「大丈夫だよ、そんなこと。それよりさ、お腹空いたでしょ」
言われてみれば今日は昼も晩も食べていない。
確かにお腹は空いているが、食べられないのがデフォルトだった時もあるので、空腹はそこまで気にならなかった。
「まあまあ空いたかな」
「でしょっ。私が持ってきてあげるねっ」
言うが早いか、史はパタパタと足音を立てて階下へ降りて行ってしまう。
ありがとうとお礼を言う暇も無かった。
「さてと……充電でもするかな」
恐らく史は晩飯を温めて持ってきてくれるだろう。
電子レンジが使えれば一瞬で温めて持って来られるだろうが、ガスを使うしかない以上は相応の時間がかかるだろうから俺は時間を潰して待つほかない。
俺はベッドの縁に座ると、足漕ぎ発電機とノートパソコンを繋ぎ、暇つぶしをするための作業を始めたのだった。
俺の目の前には紙皿に盛られた肉じゃがならぬ豆じゃがが置かれていて、そのすぐ先には木製の扉がある。
その扉の向こう側には――。
「暦、美味しい?」
「お兄ちゃんどう?」
「いや、なんか食べにくいんだけど」
何故か母さんと史が揃っていた。
2人の姿は見えないけれど、扉の向こうから感じられる圧は結構なものがある。
「なんで2人とも居るんだよ……」
「そりゃあアンタ、もうすぐお父さんと連絡を取る時間じゃない」
「……そっか」
午後8時は隔離施設で働く父さんと通信機で話をすることになっている。
医者である父さんはほとんど家に帰って来られないため、特定の時間帯だけは通信機の利用を認められているのだ。
「私が間に入って会話を繋いだげるね」
「ありがとう」
俺が史とそんなやりとりをしている間に、時間が来てしまったらしい。
母さんが通信機をいじっているのか、耳障りなノイズが扉を越えて聞こえて来た。
『もしもし、聞こえてるか?』
「賢志さん、聞こえてるわよ。いつもご苦労様」
『冴子もいつもありがとう』
父さんと母さんのいつもと変わらないやり取りから話は始まる。
何気ない会話だが、それが出来るだけでとても幸せな事だった。
そのまま母さんたちは2、3のやり取りを済ませ、史もいつも通りの会話を終える。
それが終われば……俺の番だった。
「あのさ、父さん。俺、脱走したって女の子に会ったかもしれない」
通信機からの音が俺に届いても、俺から通信機へは不可能だったので、史が中継して父さんに俺の声を届けてくれる。
『本当かっ!? それは何時? どこで?』
俺がそれを答えると、父さんはむぅっと唸り声をあげた。
『確かに、時間的に合うな。容姿なんかの特徴も同じ……と』
「俺、感染した可能性もあるから、検査とかして貰えないかな」
『そうだな、検査に関してはいずれ人を送るが……多分、暦は感染していないだろうな』
医者である父さんからそう断言されて、思わず安堵のため息が漏れる。
やはり意識はしていなかったが、知らず知らずのうちにプレッシャーを感じていたのかもしれない。
『彼女、名前は桐谷桃花って言うんだけどな。不顕性感染者なんだよ』
「なんだって?」
聞きなれない単語に思わず問い返してしまう。
『不顕性感染者。ウィルスに感染しているのに、症状が出ない人のことを言うんだ』
父さんの説明によれば、症状が出ないと言っても、体力が充溢していて発熱や咳などの症状が自覚できないほど小さい範囲で収まってしまう人――無症侯性キャリア――のことではなく、何らかの理由でそのウィルスが体内でほとんど増殖しない人のことを言うらしい。(実際にはどちらも無症侯性キャリアと呼ばれますが、前者である自覚していない人は不顕性感染者と呼びません。意味合い的には無症侯性キャリア>不顕性感染者と考えてください)
この不顕性感染者が感染源となるかは、実際のところデータが少なすぎて結論が未だ出ていないとの事だが、例え感染するとしても、通常よりは感染の可能性が低いことは確かなようだ。
『彼女はかなり低い確率で存在する、ルインウィルスに感染しても生き残る人間なんだ。それが幸福な事かどうかは分からないけどな』
実はどのウィルスにもこうして罹患しない人間はわずかながら存在する。
ルインウィルスもその定義からは外れないらしい。
「……そう、だね」
彼女が不顕性感染者と発覚したという事は、その家族は確実に感染しているだろう。
だから彼女は着の身着のまま、はだしで街を逃げ回っていたのだ。
帰る場所がないとさまよっていたのだ。
ウィルスは世界を壊してしまった。
その中でただ一人、孤独に生きるのはむしろ地獄と言えるかもしれなかった。