第12話 特別授業
絶対教科書に載るだろうからな、と奇妙な表情で苦笑いしながら三井先生はお題を出して来た。
最初の問題は、ルインウィルスについて。
「肺群棲腫瘍ウィルス(Lungs infested of oncovirus)。Lungs infest(肺に寄生の意) から、通称ルインウィルスなんて呼ばれています」
このウィルスは三段階に病状が変わっていく。
フェーズ1では通常の風邪程度の症状で、微熱や軽い咳が起こる。
比較的悪化することも無く、死亡率も普通の風邪より少し高い程度で、2022年1月から3月にかけて流行った際は、わずか3名亡くなっただけだった。
フェーズ2に至ってはほとんど無症状であるのだが、肺に小さな腫瘍を沢山作り始める。
この期間は人によって異なり、早ければ3カ月で、遅くとも半年で次の段階へ移行してしまう。
それからフェーズ3へと移行するのだが、この移行は必ずしも起こるわけではない。
データが足りなくてはっきりした事は言えないが、フェーズ2から3へ移行しない人も確かに存在していた。
そして最終段階であるフェーズ3は、肺の腫瘍が一斉に炎症を起こして膨れ上がり、呼吸不全になって死亡してしまう。
その死亡率はほぼ99%。
つまり、ルインウィルスに感染すれば、かなりの高確率で死が待っているのだ。
「このフェーズ2が何よりも最悪だったな」
「……そうですね。まさか、治ったことを偽装するウィルスとか軍事兵器か何かかと言われていましたっけ」
ルインウィルスは、どのフェーズにおいても感染力は失われない。
それこそこの世界が決定的に間違えてしまったポイント。
フェーズ2に移行することで、治ったと勘違いされ、全世界が感染者たちを退院させてしまったのだ。
それにより、3月から5月にかけて、ルインウィルスの感染者は増えに増えてしまった。
「そんなことも言われていたか。軍事兵器であればどんなに楽だったか……」
軍事兵器であれば何処かに特効薬がある。
でも、現実は非情でそんな都合がいいものは存在しなかった。
だから世界はこうして蝕まれてしまったのだ。
「ですね……」
そして2022年6月。
フェーズ3による最初の死亡者が確認され……そこからうなぎ登りで死者数は増えて行った。
もちろん、感染している者も。感染疑惑の者も。
それからは酷かった。
人々は疑心暗鬼に陥り、他人を忌避し合う世界になってしまったのだ。
しかしそれでいて食料や生活必需品は他人から購入しなければ生きていけないのだから人と触れ合う必要はある。
それでまた感染が広がっていく。
そうやってどんどん健康な人間が減っていくことで、完全に物流が止まり……。
世界は地獄と化した。
「なあ、天津。俺はほとんど学校から出なかったお陰で、あまり世間と関わらずに生きて来れた。まあ、襲撃とか何度か……何度もあったがな」
「あ、やっぱりあったんですね」
2022年9月から、日本では様々な事が起こった。
暴動、略奪、殺人、放火……ありとあらゆる犯罪行為がそこかしこで起きて、そのどれもが止められなかった。
日本政府が、止める力を持たなかったからだ。
治安は完全に崩壊し、誰のことも信用できなくなった。
俺の場合は家族と友人だけは信じられたが、そんなのは幸運な方なのだ。
「お前はどうだったんだ?」
「俺は……あんまり言いたくないです」
「……そうか」
俺の声色から察してくれたのだろう。
三井先生は何度も頷くと、
「お前は偉いな。よく頑張ったよ」
温かい言葉をかけてくれた。
2022年9月から、政府が射殺すらいとわず強制的に治安を回復させた11月までは、俗に地獄の2カ月なんて言われている。
医者である父さんが政府に拉致同然で連れていかれ、頼る物が何もなくなってしまった俺は、生き抜くために、史と母さんを守るために……一般的に犯罪と言われる様な事にまで手を染めた。
その事は絶対に、誰にも言いたくはないし知られたくもない。
「そんな……」
「いや、胸を張れることだ。それぐらい立派な事だよ、生き抜くってことはな」
でも、三井先生は多分それを分かった上で、俺を褒めてくれたのだ。
それだけで胸がいっぱいになってしまった。
「少なくとも、かなり安全なこの学校で胡坐をかいてた俺よりはえらいさ」
「せ、先生はどんなことをしてたんですか?」
「俺か? 俺は……ほかの科目も教えられる様になっとけって命令されたからその勉強と、サボってマンガ読んだり、視聴覚室で音楽聞いたり、ここで飯食ったり……まあ色々だな。楽なもんだろ」
そう言って三井先生はウィンクをしてみせるが……おそらくは黙っていることも多いいだろう。
さっき襲撃があったと言っていたし、それに他の教科を教えられる様になっておけと命令されたってことは、他の先生が教えられなくなったってことだ。
命令する立場の人間がここに来たことだってある。
それから2022年10月から12月にかけて、電気、ガス、水道の全てが止まったのだ。
元々人間が暮らしていける環境ではない学校において、それは致命的だっただろう。
多分、わざと気楽な事ばかり言っているのだ。
だから俺もそれに乗っかる事にする。
「先生、でもエロい本とか無いのきつかったんじゃないですか?」
「そぉなんだよ、マジでそれ! 男一人でそういうのが一切無い生活を一年近くだろ? マジでキツイんだよ!」
「……そんなに食いつかれると、ちょっと引くんですけど」
三井先生は、ちょっとこの人先生として大丈夫かなって本気で心配したくなるほどの勢いで熱弁を振るい始める。
「いやいや、人間の三大欲求の一つだからな、性欲って。しかも危機的状況だと性欲って増すらしいじゃないか。というからしいじゃなかったんだよ。自分で体感してビックリだったわ」
「先生。近代史を教えてくれるんじゃなかったんですか?」
俺のジト目に気付いたのか、三井先生は気まずそうに咳ばらいをすると、頭を掻きながら言い訳を始める。
「……保健体育に切り替えただけだ」
「言い方がちょっとどころじゃなく完全に変態です」
本当に千里が来なくて正解だった。
なんだかんだでスイカレベルに大きいあの胸は、かなり目の毒である。
今、飢えに飢えた三井先生が見たらショック死していたんじゃないだろうか。
「えーそれでだ。なんだかんだ色々あって、12月中旬くらいから国が再始動した。そしてなんやかやで水道やガスは復旧。食料や生活必需品の配給制が始まり、回収や農場経営なんかで国民に職をあてがって色々生産を始めて2023年5月の今に至ると。覚えとけよ、テストに出すからな」
なお、電気も復旧させようとしたのだが、事はそう単純にいかなかった。
漏電からくる火災、暴動などによる断線、火力発電を行う為の燃料不足。
そして一番決定的だったのが、マンパワーの不足だった。
「急にめちゃくちゃ雑になりましたね」
「俺は今の首相が誰で、アメリカがどうなってるかも知らないしな。教えられるレベルにないんだよ。特に最近のことは」
「ラジオでなにも言ってませんからね……」
これは俺の想像になるが、もしかしたら三井先生は俺の近況を聞くのが目的だったのではないだろうか。
これから先生は色んな生徒たちと顔を合わせることになるだろう。
その時、事前に情報を得ておいて、対応を想定しているのといないのではだいぶ異なってくるはずだった。
「よし、近代史は大丈夫だから……あとは高2、3の勉強だな。課題はたっぷり用意してあるぞぉ」
「うげっ」
「なんせ問題を作る時間だけはあったからな。教員室に置いてあるから取りに行くぞ」
三井先生は何故か楽しそうに笑いつつ、立ち上がって俺を急かす。
「そういえば三井先生って宿題をよく出してましたね……」
「俺は教育熱心な方だからな。宿題って教師には負担でしかないんだぞ」
「じゃあ出さないでいいですよ……」
「そういうわけにいくか」
俺は相当げんなりしつつも立ち上がり、三井先生に追い立てられながら教員室へと向かったのだった。