第9話 任侠
返金作業が滞りなく終われば、人の塊は嘘のように消え去ってしまう。
残っているのは力なく肩を落としたバイヤーと春日、それから俺だけだ。
「すみません。それ、盗まれたものなんですよ。ですから――」
俺の言葉を遮るように、バイヤーは顔の前でバタバタと手を振る。
「おい、返してなんて言い出すなよ? そいつはさすがにお門違いだ」
この闇市は本物を取り扱っていることを売りにしているが、それがどうやってここに流れ着いたかは問題にしない。
いや、出来ないといった方が正しいだろうか。
さすがにそれは、あまり闇市を利用しない俺だって理解していた。
「取り戻したいんで協力してください」
俺が取り戻すのであれば、盗んだ親子に現状復帰義務が生じるため、バイヤーは物を返してお金を取り戻すことが出来る。
そうなればバイヤーは損をしない。
だから、俺は当然バイヤーが頷くものだと思っていたのに……。
「それは出来ねえ相談だな」
バイヤーは首を横に振った。
「……あなたに損はないと思いますが。自衛隊か警察が動いたらヤバいのはあなたですよね?」
今は平時とは違い、様々な特措法が効力を持っているのだ。
犯罪行為に加担したとなれば、様々な権利を失ってしまう。
そのリスクは桁違いに高い。
「それでも調達先を売る馬鹿は居ねえよ」
「あなたを騙した相手ですが?」
「金に目がくらんだ俺が間抜けってだけさ」
まあ、今後あいつ等から買う事はねえが、と付け加えると、バイヤーは肩を竦めて店をたたみ始める。
しかし、そんな事をされては俺が困るのだ。
史の薬はあと5日分しか無くて、新たに手に入れられるのは2週間後。
最低でもあと9錠は手に入れなければならなかった。
「……なら、その薬はおいくらですか?」
念のためにと、母さんからお金は多めに預かっている。
ただ、闇市の価格でとなると少し心もとなかった。
「お前が? 俺の持ってるのが風邪薬じゃねえのは知ってるだろ?」
「はい」
怪訝な様子で俺の顔を窺っていたが、やがて「ああ」と声に出して頷いた。
「そういやお前、盗られたとか言ってたな」
「……はい」
バイヤーは意地の悪そうな顔に変わり、急に自分の財布を取り出して中身の確認を始める。
その行動に、俺は嫌な予感しかしなかった。
やがて計算が終わったのか、バイヤーは財布をしまうと、からっぽの手のひらを上に向けて俺に突き出して来る。
「1錠5000だ」
「はぁ!?」
定価で買えば1錠300円である。
約17倍もの値段となっていた。
「風邪薬だと6000だから、それよりは安いだろ」
「アンタ……言うに事欠いてそれか!? 俺以外の誰も買わねえだろうがっ」
「逆に言えばお前だけは買う。違うか?」
俺は図星を指されて思わず押し黙ってしまう。
このバイヤーはまたこの場所に来るとは限らないし、同じ薬を売るとも限らない。
対して俺は、5日以内に絶対薬を手に入れねばならないのだ。
「1錠3000。それが限界だ」
財布の中には1万円札が3枚と、手伝いなどをして貯めた小遣いが数千円入っている。
9錠よりも多く手に入れるためには、その値段に下げてもらう必要があった。
「冗談だろ? 俺は20錠4万で買ったんだ。しかも今返金に色を付けたせいで大損こいてる。そんなので渡せるわけないだろ」
「……それ以上、出せない。金が無いんだ」
「なら無理だな。他をあたれ」
馬鹿だった。
自分の事情を軽々しく話し、こういう奴に付け入る隙を与えてしまったのは俺のミスだ。
しかし、今そのことを後悔している暇などない。
なんとしてでも薬を手に入れなければならないのだ。
「……風邪薬じゃない事に気づかずに売って、問題が大きくなったらその程度の損失じゃすまなかっただろ。それくらいで済んで良かったとは思わないのか?」
例え一時的に儲かったとしても、いずれ薬が偽物だったことが分かればこの男はバイヤーとしての人生を失う。
いや、ヤクザのメンツを潰したのだから、その程度で済めばいい方だろう。
全財産を失うか、下手すれば命で償うなんて可能性もあった。
そういう意味では俺は彼の恩人なはずだ。
「確かにここでは助かった。だが他だと俺の商売を邪魔しただけなんだよ。それは理解してるか? だいいちそれとこれとは話が別だ」
バイヤーは言外に、別の場所で風邪薬として売り払うつもりだと告白した。
それは、他人の命なんかどうでもいいと同義である。
他人の利益よりも自分の利益を優先して当たり前。
騙すより騙される方が悪い。
今はそういう世界なのだ。
「つーわけだ、失せろ」
「…………」
バイヤーは煩わしいとばかりにシッシッと手を振って俺を追い払おうとする。
俺はどうすることもできず、何故かこの場に留まって俺たちをじっと見ている春日に視線で助けを求めたが、無言で見つめ返されるだけで、なにも言ってはくれなかった。
取引には口を出さない、という事なのだろう。
「……全財産がこれなんだ。いくつ譲ってくれる?」
どうしようもなくなった俺は、バイヤーに直接財布を手渡した。
バイヤーはその中身を確認すると、
「7」
短くそう告げて来る。
しかし7錠では足りないのだ。
だから俺はなんとかして値下げしてもらおうと食い下がる。
「せめて9錠にしてくれないか?」
「7だ」
「頼む。どうしても9錠は必要なんだ」
「7だ。二度も言わせるな」
同情も効かないし、正しさなどなんの意味も無い。
利益だけが自分の命を守ってくれる。
だからこの世界では利益だけが全てなのだ。
「……分かった。なら、7錠でいい」
いつもと飲む時間を少しずつずらしていけば、足りない2錠分は恐らく補えるだろう。
少し危険は付きまとうが、薬が完全に切れてしまうよりはマシだった。
「よし、契約成立だ」
バイヤーは俺の財布をポケットに突っ込むと、代わりに薬を7錠裸のままで手渡して来る。
もともと俺が買って、盗まれてしまった史の薬を。
なんとも腹立たしいことだったが、それが現実なのだ。
俺はバイヤーの男を殴りつけたくなる衝動を抑え、薬を大切にしまい込んだのだった。
「……終わったか?」
受け渡しが終わった途端、春日が口を挟んでくる。
どうやら何か用事があって待ち構えていたらしい。
もう俺には関係のない話だが。
俺は力なく肩を落とし、彼らに背を向けて入り口の方へと歩きだした。
「おい、お前は俺のメンツを潰したわけだが、それはどう償ってくれる?」
「え? で、でも返金はしましたし……」
「それは客に対する詫びだろうがっ! お前は俺のシマで偽物を売りやがったんだぞ!? 俺に対しても詫びんのが筋だろうがよ!!」
「す、すみません……」
正直、いい気味だと思わないでもない。
自分でも性格が悪いと自覚しつつ、バイヤーの処遇が気になったので、俺は壁際で足を止めて少しだけ見物することにした。
「そ、それじゃあどうすれば……」
「残った薬全てを渡せ」
「そんな……」
薬はこれから別の場所で売ろうとしていた。
風邪薬だと偽れば、そこそこの儲けが出せただろう。
それがすべてふいになるのだ。
この騒動における全損失がバイヤーに集中し、彼の顔は真っ青になった。
「てめえが他のシマに迷惑かけんのが分かってて止めねぇわけねえだろうがボケッ! 頭湧いてんのかっ!」
この闇市を仕切る春日組は、入手ルートこそ気にしないが本物を売る事を是としている。
それは、利益を出すためにしたことかもしれないが、間違いなく善性に寄っていた。
「早く出せっ!」
さしものバイヤーも恫喝に屈し、残った薬全てを春日に差し出した。
春日は薬を奪うと、何故かこちらを向く。
「兄ちゃん、何個盗られた」
「え、えっと、20錠です」
俺が慌てて答えると、春日は手の中の薬を数え、またバイヤーの方へ鋭い視線を向ける。
「3錠足りねえじゃねえか! どうなってやがる!!」
「そ、それは……」
ここに来た時には既に人だかりが出来ていた。
つまりそれは、既に売れたから存在しないのだ。
親子から仕入れた時には20錠あったと言っていたので、始めから少ないという事はあり得ない。
バイヤーが店を畳んで出て行こうとしたのはこのことが発覚する前に逃げ出そうとしたからだろう。
しかし、そう都合よくは行かなかった、というわけだ。
「てめぇ!」
春日は激昂すると、クマのような体をいからせてバイヤーに詰め寄り、問答無用で殴り飛ばす。
あまりの威力にバイヤーはなすすべなく床を転がった。
「俺のシマで偽物を売りやがったのか! それが何を意味するのか知らねえわけじゃねえだろうな!?」
「す、すみませんすみませんっ」
「謝ってすむことかボケェ! てめえは俺の顔に泥を塗りやがったんだぞ! しかも逃げようとまでしやがった。ふざけんじゃねえぞ!」
土下座までして平謝りに謝ったが、それで春日の怒りが収まるはずはない。
春日はバイヤーの頭や体を何度も踏みつけ、けたぐり回す。
それでも気が治まらなかったのか、春日はズタボロになったバイヤーを、奥の部屋にまで引きずっていくよう部下に命じたのだった。
それが終わると、もう一度俺に視線を向け、ちょいちょいと人差し指だけを動かし、俺を呼んでいるような素振りをみせる。
あんなことをした直後なだけあって、勘弁してほしいところだったが、逆らえるはずもなく、俺は渋々春日の下へと歩いて行った。
「な、なんでしょう」
尋ねた俺の眼前へ、無言で握りこぶしが差し出される。
「え?」
「素人さんにゃ迷惑をかけねえ。それが筋ってもんだ」
「……あ、ありがとうございます」
両手でお椀を作ると、そこに薬を全て手渡してくれる。
それだけではない。
暴行を受けた際にバイヤーのポケットから転げ落ちたのであろう俺の財布を拾い上げ、それも俺に返してくれた。
「え? え?」
「そいつは偽物だと教えてくれた情報料みてぇなもんだ。変な勘違いするんじゃねえぞ」
勘違いと言われようと、俺の味方になってくれたのは事実だ。
こういうのが昔ながらの任侠とか義侠心とかいうやつなのだろうか。
他人からは奪うだけの世界であるはずなのに、そうでない事もあるのだと知って少しだけ胸の奥が温かくなった。
「ありがとうございましたっ」
「だから変な勘違いするんじゃねえっ」
下げた後頭部に春日の怒鳴り声がぶつかって散っていく。
だが、俺は下げた頭をあげなかった。




